第23話 覚えた言葉
交代の訪問は、すでに始まっていた。数日前、ナラが初めて一人で岩棚を訪ねた日、少女は最初の数分こそ身を固くしたが、やがて布の贈り主だと認めて、合図の石を打ち返したという。その報告を聞いて、トージャは安心と、ほんの少しの寂しさの混じった気持ちになった。彼女の世界は、彼一人を中心に回らなくなっていた。それは、正しいことだった。
言葉の稽古は、物のある場所から始まった。
その日、トージャは岩棚に、小さな木札の束を持ってきた。ナラが作ったものだった。片面に物の絵、もう片面には何もない。絵を見せて、言葉を言い、少女に繰り返させる。兵団の救護の訓練で、言葉の通じない負傷者の意思を確認する方法があるのだという。ナラはそれを、言葉の稽古に応用したのだった。
少女は、木札を一枚ずつ手に取り、熱心に声を真似た。
「ヒ」
火は、すぐに覚えた。「イシ」「クサ」「ニク」。食べる、飲む、行く、来る。動作の言葉は、二人が実際にやって見せた。少女は笑いながら、それに続いた。
ナラが優先したのは、安全のための言葉だった。「アブナイ」「イタイ」「タスケテ」。兵団で、言葉の通じない負傷者にまず教える言葉だという。少女はその三つを、真剣な顔で繰り返した。楽しさより先に、命のための言葉を置く。その順序の付け方に、ナラらしさがあった。
体の部位の言葉も教えた。頭、手、足、腹。痛みを正確に伝えるための言葉だった。少女は自分の体を指しながら、一つずつ確かめた。やがて彼女は、自分の右足首を指して、ゆっくりと言った。
「アシ、イタイ、ナイ」
三つの単語の、初めての文らしい文だった。足は、痛くない。回復の報告を、彼女は自分の言葉で告げたのだった。トージャとナラは顔を見合わせ、それから二人とも笑った。
数も教えた。一つ、二つ、三つ。指を折りながら、彼女は正確に数えた。やがて彼女は、自分の小袋を取り出し、銀貨を二枚、掌に載せた。「ヒトツ、フタツ」。彼女の稼ぎを、彼女は自分の言葉で数えたのだった。その目には、静かな誇りがあった。商いのための数だった。彼女の薬草が、彼女自身の口で値段を語る日のための、準備でもあった。
彼女の言葉の数は、十を少し超えたところだった。だが、その組み合わせで、彼女は驚くほど多くのことを伝えようとした。
「ワタシ、イク。……ミズ」
水を汲みに行く、という意味だった。彼女は壺を持ち、湧き場への道を、もう杖なしで歩いて見せた。
限界も、すぐに訪れた。
稽古の途中、少女が繰り返し「ヒ」と言い、棚の隅を指した。二人は顔を見合わせた。火がどうかしたのか。焚き火の世話か、それとも危険の知らせか。身構えた二人に、少女は首を振り、干し肉を指し、それから手を口元へ運んだ。
「……ああ、温めたいのか。食べ物を、火で」
「ヒ、タベル」
少女は頷いた。単語は合っていた。だが、文章がなかった。意図を汲むには、文脈と、仕草と、これまでの付き合いの蓄積が要った。別の場面では、「クル」と「イク」を取り違えた彼女が、反対の仕草をして二人を混乱させた。言葉は増えていた。だが、正確な意思疎通には、まだ大きな隔たりがあった。それでも、汲み取る努力を、双方が惜しまなかった。
稽古の途中、少女は砦のある方向を指して、尋ねた。「アレ、ナニ」。彼女が指す先には、森の向こうの、砦のある方角があった。
「トリデ。……俺たちの、家」
「トリ、デ」
彼女はその言葉を、刻み棒に刻まなかった。代わりに、胸の前でそっと繰り返した。彼女の知る世界に、砦という場所が、今日、言葉として初めて入ったのだった。
今度は、少女が先生になる番だった。
彼女は水を指し、自分の言葉で言った。「ルア」。月は「セレ」。そして、トージャとナラを順に指して、彼女は言った。「ミア」
「ミア……友達、か」
彼女はもう一つの言葉も教えた。「タウ」。家、を意味する音だと、二人は受け取った。彼女は岩棚の窪みを指して「タウ」と言い、それから、ふと手を止めた。遠くを見る目をして、彼女は森の向こうの、どこでもない場所を、弱く指した。もう一つの「タウ」が、彼女の来た場所にあるのだろうか。その問いは、誰の口からも出なかった。彼女は手を下ろし、稽古に戻った。
少女は頷いた。彼女の言葉で、友と呼ぶ音だった。トージャは、その音を刻み棒の裏に、印と一緒に刻んだ。彼の覚えた彼女の言葉は、まだ三つだけだった。教える側と教わる側の速度の差に、彼は少しだけ恥ずかしくなった。
ナラは、棚の隅で平らな石を見つけた。その表面には、木札の絵を真似たような線が、何度も引いては消された跡があった。夜の時間に、彼女が一人で復習している痕跡だった。教わった言葉を、翌日まで覚えていられるように。ナラはその石を、黙って元の場所へ戻した。本人の努力は、本人のものとして尊重したかった。
ナラは「ミア」を、拙い発音で繰り返した。少女は、その発音の違いに笑い、それでも嬉しそうに頷いた。
稽古の合間に、少女は自分の仕事の改良も見せた。
薬草の乾かし方に、彼女は自分の工夫を加えていた。葉の大きなものと小さいものを分け、風の通る向きに合わせて並べ替える方法だった。彼が教えた手順を、彼女は自分の環境に合わせて作り替えていたのだ。さらに、彼女は彼が教えていない薬草を一束、差し出した。沢の向こうで見つけたという。効能のほどは、彼にもすぐには分からなかった。だが、摘み方と乾かし方は的確だった。その薬草の束を、トージャは少しだけ分けてもらった。帰ってから確かめるためだった。葉の形と香りから、彼の知識では、熱を下げる系統の草に近かった。だが確証はなかった。分からないものを分からないまま記録する。それもまた、調合師の仕事だった。彼は自分の覚え書きに、その草の絵と特徴を書き留めた。いずれ、老人に尋ねる機会があるかもしれない。そのときのための、一枚の記録だった。
彼女の知識の出所は、相変わらず謎のままだった。ただ、彼女が「知っている」という事実だけが、そこにあった。
「ホシイ」という言葉も教えた。彼女はすぐに、それを使う機会を見つけた。彼女は自分の服の、繕いの進んだ袖を見せ、交易で贈られた針の揃えを取り出し、それから言った。「イト、ホシイ」。繕いのための、糸が欲しい。実用的な願いだった。二人は頷き、次に来るときの持ち物に加えた。彼女の暮らしの細部は、彼女自身の言葉で、少しずつ二人に届くようになっていた。
稽古の終わり際、少女は立ち上がり、棚の端から端までを、杖なしで歩いて見せた。歩幅は小さいが、足運びは確かだった。歩き終えて、彼女は二人を振り返り、少しだけ得意そうに頷いた。回復の報告であり、意志の表明でもあった。私は、ここまで来た、と。
稽古の終わりに、少女は刻み棒を手に取り、真剣な顔で二人を順に見た。
彼女は自分の口を指し、二人を指し、それから、はっきりと言った。
彼女はさらに、砦の方角を指した。
「トリデ、……ハナス」
砦の人々と、話したい。その希望の大きさに、二人は一瞬、言葉を失った。叶う日が来るのか、来るとしてもいつなのか、今の彼らには答えられなかった。だが、希望を口にしたのは、彼女自身だった。受け身の保護対象は、もうそこにはいなかった。
「ワタシ、……ハナス」
まだ拙い、単語の羅列だった。だが、その意志は正確に伝わった。話したい。自分の言葉で、自分のことを、伝えたい。
トージャは頷いた。
「ああ。少しずつ、だ。……俺たちも、覚えるから」
ナラも言った。「次は、私の言葉をもう十、増やそう。……あんたの言葉も、ね」
別れ際、少女は二人の前に立ち、覚えたての言葉を、ゆっくりと言った。
「……アリガトウ」
感謝を伝える言葉は、彼女が自分から「教わりたい」と望んだものだった。布への礼を、包みで返すだけではなく、言葉でも返したかったのだという。その発音は拙く、だが真っ直ぐだった。
トージャは、少し照れたように笑った。「どういたしまして、って言うんだ。……それは、また今度な」
少女は深く頷き、刻み棒に新しい線を一本、刻み始めた。今日の稽古の分だった。
帰り道、ナラが言った。
「あの子、覚えるのが早いね。……私たちより、ずっと」
「俺たちが、あの子の言葉を三つしか覚えてないからな」
「次は、私たちが追いつく番だね」
その夜、家で次の木札の絵を描いていたトージャに、母が声をかけた。
「誰かに、教えてるのね」
彼の手が、止まった。母は竈の火を見たまま、続けた。
「教えるってのは、いいことだわね。……あんたの顔が、少し柔らかくなったもの」
母の言葉は、彼を咎めはしなかった。ただ、見ているということだけを、静かに、優しく伝えた。それ以上、母は何も聞かなかった。彼は嘘をつかずに済んだことに安堵し、同時に、隠し事の重さも感じた。この家の優しさに甘えたまま、いつまでもいられるわけではなかった。
砦に戻る途中、二人は訓練場の近くでカルドと行き会った。カルドはトージャの荷の端から覗く木札に目を留めた。「何だ、それ」。トージャが答えに窮する前に、ナラが自然に言った。「救護の訓練道具。言葉の通じない相手の意思確認に使うの。……兵団の真似事だよ」
「へえ」とカルドは言い、それ以上は聞かなかった。「お前ら、最近よく一緒にいるな」と笑っただけだった。その笑いには、疑いの色はなかった。幼馴染の信頼は、二人の秘密を、今日も無事に通過させた。だが、その信頼に甘える形で嘘を重ねることへの、小さな痛みも残った。
森の夕日の中で、トージャは思った。言葉とは、壁であると同時に、橋でもあった。彼女の世界と、砦の世界の間に、単語という小さな板が、一枚ずつ渡されていく。その橋が完成する日が来るのかは、まだ分からなかった。だが、今日も確かに、一枚増えたのだった。その一枚の向こうに、彼女の「話したい」という声が、はっきりと聞こえていた。




