幕間 フーアン ― 遠くを見る目
フーアンは、気分が乗らない日は、訓練場に姿を見せなかった。
だが今日は、朝から槍を取っていた。理由は単純だった。隊商が帰ってからというもの、体がうずうずして仕方なかったのだ。突いて、払って、回して、引く。彼の槍は、家に伝わる型のままに、風を切るような速さで動いた。槍の家系。砦の中では、そう呼ばれる家だった。曾祖父の代から、槍一筋で団に名を残してきた家系。彼が槍を取れば、大抵の者は「やはり血だ」と言った。
「血ねえ」
彼は一人、苦笑した。血が勝手に槍を振ってくれるわけではない。乗らない日に休む分、乗った日に誰より多く振る。それが彼のやり方だった。気分屋と笑う者もいるが、この調子で彼は、若い世代では随一の槍の使い手になっていた。
型の稽古の後、彼は若い戦士二人を相手に組稽古をした。槍の間合いは長い。懐に入られれば不利になるはずだった。だが彼の槍は、入ろうとする足そのものを止めた。石突きで足元を払い、穂先で得物を絡め、一人の剣を宙に跳ね上げた。もう一人が慌てて距離を取る頃には、彼の穂先は、その喉元で静かに止まっていた。殺気のない、稽古の止め方だった。
だが、組稽古の半ば、彼は型を崩した。教わった順序を飛ばし、思いつきの動きで相手を翻弄した。それは見事に決まった。だが、伯父の目は笑っていなかった。戦場では、思いつきは一度外れれば命取りになる。型は、先人たちの失敗の集積だった。そのことも、彼は頭では分かっていた。分かっていて、退屈に負けるのが、彼の悪い癖だった。
稽古の終わりに、伯父が古い型を一つ見せた。斜面で大型の獣を受けるための、家の型の一つだった。低く構え、地を踏みしめ、突くのではなく「受けて、流して、逃がす」型。槍の家が、何代もの失敗と死の中で編み出した動き。派手さは欠片もなかったが、その無駄のなさに、フーアンは背筋が伸びる思いがした。自分の速さが、この型の積み重ねの上に立っていることを、彼は改めて知ったのだった。
稽古を見ていた伯父が、声をかけた。現役を退いて久しい、槍の師匠格の老人だった。
「乗っているときのお前は、砦で一番速い。……乗っていないときのお前は、ただの若者だ」
「手厳しいね、伯父さん」
「試験や選抜は、気分で日を選んじゃくれないぞ」
フーアンは答えなかった。カルドは守護戦士団の試験を半月後に控え、ナラは鎧武兵団の選抜に向けて一直線だった。トージャは調合師の道を、もう決めている。進路が決まっていないのは、四人の中で自分だけだった。どちらの団に入るか。そもそも、入るのかどうかさえ。
隊商が滞在していた数日間、彼は一番、外の人間たちと馴染んでいた。炊事場に入り浸り、拙い外の言葉と仕草で、傭兵たちと笑い合った。港町で覚えた言葉の欠片が、思いのほか役に立った。
港。少年時代に一度だけ、彼は遠縁の交易にくっついて、外の国を見に行ったことがあった。細部の記憶は、もう曖昧だった。だが、匂いは覚えていた。潮と、油と、香辛料と、大勢の人の匂い。空の広さ。海という、森とは違う「際限のなさ」。あのとき感じた、世界の大きさへの眩暈のような感覚は、今も彼の胸の奥に残っていた。
交易の間、彼は時々、拙い通訳の真似事もした。傭兵が「この肉、うまい」と言いたいのを「肉、強い」と訳して、長老に怪訝な顔をされた。だが、笑いは通じた。笑いが通じれば、言葉は半分通じたも同然だった。夜には、傭兵の札遊びを教わり、代わりに砦の骨当て遊びを教えた。賭け金は干し肉とガラス玉。彼は少し負けたが、取り返せない額ではなかった。
港での記憶は、断片でしか戻ってこなかった。丘の上から見た、海の色。波止場に並ぶ、家よりも大きな船。市場で、物の値段が小さな札に書かれて吊るされていたこと。値段が「決まっている」世界の不思議さは、物々交換の砦の少年には、強烈な印象だった。
港の外れでは、外の子供が貝殻を並べて売っていた。貝殻に、何の値打ちがあるのかと少年だった彼は思った。だが、旅の商人がそれを買い、子供は嬉しそうに駆けていった。「ここでは何でも売れる」。同行の大人にそう教わった気がした。森では、価値は暮らしの中で決まった。港では、価値は人と人の間で、瞬きの間に生まれては消えた。その眩しさと危うさが、少年だった彼の目に焼き付いていた。
傭兵の一人が、彼の顔を見て言った。「港で会ったことがある」。覚えていてくれた者もいたのだ。その夜、彼は外の酒を少し分けてもらい、星空の下で、港の歌だという鼻歌を教わった。何の歌かも分からないまま、彼は今もその旋律を口ずさめる。
その夜、彼は傭兵に、外の言葉を幾つか教えてもらった。その中に、彼らの「契約」を表す言葉があった。紙に書いて、印を押して、それで人が縛られる。「俺たちの砦には、そういうのはないな」。彼は言った。「約束は、口でする。破れば、居場所がなくなる」。傭兵は肩をすくめた。「どっちも、破れば終わりだ」。その通りだと思った。世界の仕組みは違っても、約束の重さは、どこでも同じなのかもしれなかった。
「お前は、外が好きだな」
見送りの日、傭兵が言った。「戦士は契約で動く。だが、お前は契約がなくても動く男だ。……いつか、傭兵でもやれるさ」
笑い話のつもりだったのだろう。だが、その言葉は、数日経った今も、彼の耳に残っていた。
昼過ぎ、訓練場の端で、彼は水を持ってきた顔見知りの娘と、二言三言交わした。娘は布織りの家の子で、彼の軽口に笑いながらも、最後にこう聞いた。
「フーアンはさ、いつか砦を出ていっちゃうの?」
「さあね」
彼はいつもの調子で笑った。
「出ていくときは、言うよ」
帰り際、娘は彼の槍の柄の巻きが解けかけているのに気づいた。「直してあげる」。彼女は慣れた手つきで、布の紐を巻き直してくれた。布織りの家の子の、確かな仕事だった。彼は礼に、隊商の残したガラス玉を一つ渡した。彼女は光にかざして笑い、「紐のお礼が過ぎるよ」と言いながらも、大切そうに懐に入れた。
娘は「期待しないで待ってる」と笑って行った。今、彼の槍の柄には、彼女の巻いた紐が、きつく結ばれている。彼はその背中を、少しだけ複雑な気持ちで見送った。悪意のない問いだった。だが、彼自身にも答えられなかった。出ていきたいのか、残りたいのか。槍の家に生まれながら、彼の目はいつも、砦の外の遠くを見ていた。それは、裏切りだろうか。彼はまだ、その問いに名前を持っていなかった。
その日の夕方、彼は伯父の家に呼ばれた。食事の席で、伯父は珍しく昔話をした。若い頃、彼は二年間、砦を離れていたのだという。交易路の護衛の仕事で、外の土地を回った時期があった。家の者は、そのことをあまり語らない。槍の家系の「道を外れた二年」として。
「後悔してるの、伯父さん」
「していない。……戻ってきたのは、外が嫌いになったからじゃない。槍を振る場所は、ここだと思ったからだ」
伯父は酒を一口飲んだ。
「出ていくことを恐れるな。だが、逃げて出るな。お前が選ぶなら、胸を張って選べ」
フーアンは、その言葉を、すぐには咀嚼できなかった。だが、砦を出ることが「裏切り」ではないと、家の長老格に言われた事実は、彼の胸のどこかを確かに軽くした。帰る場所があるから、遠くが見られるのかもしれなかった。
夕方、帰り道でトージャとすれ違った。交易の後始末で、あいつも忙しそうだった。彼は何気なく見た。トージャの腰の、小さな別袋。薬草の稼ぎでも入っているのだろう。あいつの目の下の隈も、まだ取れていなかった。
彼は、からかう材料ならいくらでも思いついた。十日以上の秘密めいた行動。夜の門。食料の袋。口を開けば、鋭い冗談が作れただろう。
だが、彼はからかわなかった。
(冗談で済む顔と、済まない顔がある)
このところのトージャの顔は、後者だった。詮索は、ナラがやっている。ナラは、とことん確かめる性分だ。自分の役目は、詮索の列に加わることじゃない、と彼は思った。何かあったとき、笑って受け止める側にいること。それが、彼の流儀の友情だった。
彼は先に、当たり障りのない話題を振った。
「ナラの選抜の稽古、見たか。弓の腕、前より上がってるぞ」
「俺はあんまり見てないな」
「ふうん。お前ら、最近すれ違いだなあ」
他愛のない軽口だった。だが、トージャの反応は一瞬だけ遅れた。その一瞬に、彼は何かを察した。ナラとトージャの間に、何かがあった。それが喧嘩なのか、それ以外なのかは分からない。分からないままにしておくのが、今の自分の役目だと、彼は決めた。
「おい、トージャ。今度、飲みに付き合え。外の酒、少し残ってるんだ」
「……酒?」
「心配すんな、少しだけだ。お前の好きそうな、珍しい実の酒だぞ」
トージャは少し笑って、「考えとく」と言った。それで十分だった。
夜、彼は見張り台の下で、槍を肩に担ぎ、隊商が去った道の方角を眺めた。乾いた土の色の、遠くへ続く道。あの先に、港があり、海があり、彼の知らない世界が広がっていた。
(いつか、また見に行きたい)
その望みは、嘘ではなかった。だが同時に彼は知っていた。自分が槍を捨てられないことも、この砦の夕餉の匂いを嫌いになれないことも。彼の目は遠くを見る。だが、足はまだ、この土地を踏んでいた。
迷っているのではない、と彼は思った。まだ、選ぶときではないだけだ。風は、いつか向きを教えてくれる。そのときまで、彼は槍を振り続けるつもりだった。気分の乗る日に、誰より多く。
翌朝、彼は夜明けと共に訓練場にいた。自分でも驚くほど、体が軽かった。遠くの風のことを考えながら、足はこの土地の土を踏んでいた。それが今の彼の、正直な姿だった。
稽古場の隅で、伯父が何も言わずに、通常より重い稽古槍を放って寄越した。彼はそれを受け取り、笑って、型を始めた。重い槍はずしりと重く、彼の手を少しだけ真面目にさせた。




