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大穴の調合師と全てを繋ぐ触媒  作者: 那貴


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23/42

幕間 ナライジャ ― 自分の目で

ナライジャは、秘密を抱えるのが得意な性分ではなかった。

 

嘘が下手なのではない。思ったことを顔に出さない術は、弓を引くときの呼吸と一緒に、とうに身につけていた。だが、知ってしまったことを、知らないふりをして日常を続けるのは、想像していたよりずっと骨の折れる仕事だった。

 

あの夕方、トージャから話を聞いてから、数日が経っていた。

 

森で倒れていた少女。熱と傷。十日以上、一人で続けた看病と隠匿。彼の話は断片的だったが、その断片の重さは十分だった。帰り道、彼女は自分の手が震えているのに気づいた。怒りなのか、安堵なのか、怖さなのか、自分でも判然としなかった。

 

 

打ち明けられた夜、彼女はよく眠れなかった。頭の中で、散らばっていた欠片が嵌まっていく音がした。巡回の日のトージャの安堵の表情。食料の入った重い袋。夜の門で見かけた背負い姿。自分は一番近くで、一番長く、気づいていた。それなのに、確かめるまでに時間がかかった。そのことへの、静かな後悔もあった。

 

けれど同時に、彼女は思った。あの夜、彼が自分の足で訪ねてきて、自分の口で話したこと。それは、彼女が疑い続けたからこそ生まれた結果でもあった。疑うことと、信じることは、対立するものではなかった。確かめようとし続けた先に、彼の信頼があったのだ。

 

彼女の朝は、弓から始まった。

 

鎧武兵団の選抜は、もう遠くない。弓の技量、森での移動、獣の知識、判断力。兵団は砦の外で活動する組織だ。大穴方面への調査、遠征の護衛、交易路の警護。彼女がずっと憧れてきたのは、その「外へ出る」仕事だった。四人の中で、大穴に一番近づきたいと願ってきたのは、彼女だった。

 

的に矢を放ちながら、彼女は考えていた。

 

(外の人間が、森に倒れていた)

 

その子は、どこから来たのか。何のために、この土地に来たのか。トージャは何も分からないと言った。怪我の理由も、素性も。……だが、彼女の胸の奥では、別の問いが芽生えていた。あの大穴の方向。隊商の者たちですら近づきたがらない、あの土地の中心。少女は、その近くで見つかった。偶然だろうか。それとも。

 

彼女は首を振って、次の矢を番えた。推測で人を裁くのは、彼女の流儀ではなかった。だからこそ、彼女は条件を出したのだ。自分の目で見るまでは、決めない。

 

 

その日、彼女は選抜に向けた実地の稽古に加わっていた。木々の間を移動しながら、揺れる的を射る訓練だった。静止した的を射る腕は、彼女にはあった。だが、動きの中では、彼女の矢は一瞬遅れた。確実を期すあまり、放つ判断が遅れるのだ。指導役の隊員に指摘された。「お前の矢は正確だ。だが森では、遅い正確さは外れと同じだ」

 

彼女は唇を噛んだ。慎重さは、彼女の長所であり、短所でもあった。判断を保留する力と、決めるべきときに決める力。その両方が、兵団には要るのだった。

 

昼前、彼女は弓の弦の蝋を分けてもらいに、調合の老人の小屋を訪ねた。用件はすぐに済んだ。だが帰り際、老人は独り言のように言った。

 

「トージャの奴、近頃は薬の減りが早い。……まあ、若いうちは、無茶もするがな」

 

彼女の心臓が、一つ大きく跳ねた。老人は何も知らないはずだった。だが、その何気ない一言は、彼女に教えてくれた。気づいているのは、自分だけではないかもしれないということ。そして、気づいていながら、詮索しない大人もいるということを。老人の態度は、フーアンの流儀とも、彼女の流儀とも違った。知らないふりをして、ただ見守る。彼女は礼を言って小屋を出た。自分の背負った秘密の重さが、ほんの少しだけ、輪郭を変えた気がした。

 

昼、彼女は兵団の詰所の近くで、交易のときに言葉を交わした隊員と再会した。外の言葉を話す、あの隊員だった。

 

「選抜を受けるんだってな。……弓は見たことある。いい腕だ」

 

「ありがとうございます」

 

「一つ、言っておく。兵団の仕事は、強いだけじゃ務まらない。分からないものを、分からないまま持ち帰る勇気が要る」

 

「分からないまま、ですか」

 

「ああ。森には、測れないものが多すぎる。知ったつもりで動く奴が、一番死ぬ」

 

隊員はそれだけ言って、去っていった。その言葉は、彼女の今の胸の内を、図らずも射抜いていた。分からないまま、抱えて帰る。トージャが十日間やっていたのは、まさにそれだったのかもしれない。

 

 

彼女は、その足で森の外れの、古い石積みの場所へ寄った。一族が森に入る前に手を合わせる、小さな祈りの場だった。誰に強制されるでもなく、彼女は時々ここに来た。信仰は、彼女の中で、暮らしの呼吸のようなものだった。

 

手を合わせながら、彼女は思った。

 

少女のことも、トージャのことも、判断は保留されていた。だが、保留というのは、無関心とは違った。その子が今日も岩棚で、トージャの来訪を待っている。その事実一つで、森の見え方は変わっていた。彼女の知る森は、もう少しだけ広くなっていた。

 

石積みの場の脇では、年配の女が、供えの小枝を整えていた。彼女が手を合わせるのを見て、女は言った。「森はね、入り口で何を背負ってるか、よく見てるよ」。何気ない一言だった。だが彼女には、その言葉が今の自分に向けられたもののように聞こえた。疑いを背負って入るのか、責任を背負って入るのかで、森の見え方は変わるのだろう。

 

(次に行くとき、私も行く)

 

自分の出した条件を、彼女は改めて噛みしめた。同行は、好奇心ではなかった。確かめる責任だった。知ってしまった者には、その責任がある。彼女はそう考えた。

 

帰り道、彼女は自分に問いかけていた。もし、あの日、森で倒れた少女を見つけたのが自分だったら。自分はどうしたか。……おそらく、彼女は思った。自分は掟に従って、すぐに団へ報告しただろう。それが正しい手順だった。外の人間を匿うことは、砦を危険に晒す行為だった。

 

だが、その「正しさ」の先で、少女はどうなっていたか。尋問され、隔離され、怯えたまま、言葉も通じない場所で。あるいは、もっと悪い結末が。トージャのしたことは、手順としては間違っていた。だが、彼は命を一つ、確かに守り抜いた。その事実の前で、彼女の「正しさ」は、少し色を失った。兵団を目指す者として、自分はどちらの人間になるのだろう。その問いもまた、彼女の中で保留されていた。

 

 

夕方、彼女はカルドとフーアンと、訓練場の帰りに連れ立っていた。話題は自然と、トージャのことに及んだ。

 

「あいつ、最近変だよな」とカルドが言った。「疲れてるっていうか」

 

「まあ、交易で一番走り回ったのはあいつだしな」とフーアンが笑った。「寝れば治るだろ」

 

カルドが続けた。「この前の巡回の報告書、父さんが褒めてたらしいぞ。トージャの治療と囮が、組を救ったって」。フーアンが「へえ、やるじゃん」と笑った。

 

二人の会話を聞きながら、彼女は黙っていた。真実を知る者として、黙っていることが、今は正しい。それでも、幼馴染の何気ない心配を、知らないふりで聞くのは、思ったより辛い仕事だった。彼女は話題を変えた。「カルドの試験まで半月だね」。カルドが身を引き締める顔をした。日常は、秘密を抱えたまま、静かに流れていった。

 

その帰り、彼女は見張り台に上った。巡回の日、彼女もこの近くにいた。あの日、沢側の組が戻ってきたとき、トージャの顔に浮かんだ安堵を、彼女は確かに見ていた。そのときは理由の分からなかった表情が、今は全て説明がついた。彼にとってあの巡回は、自分の組を守る仕事であると同時に、秘密を守り抜く戦いでもあったのだ。一人で、二つの戦場に立っていた。その孤独の深さを思うと、彼女の胸は静かに痛んだ。

 

彼女の頭の中では、少女への問いが少しずつ形を持ち始めていた。どこから来たのか。追われているのか。帰る場所はあるのか。今はまだ、絵と仕草でしか聞けない問いばかりだった。だが、問いの用意をしておくこと自体が、彼女の誠実さだった。

 

彼女はトージャの家の前を通った。中の明かりが見えた。立ち止まりかけ、やめた。今の自分には、まだ掛ける言葉がなかった。問い詰めれば、彼はまた抱え込む。待つことも、彼女のできることの一つだった。

 

代わりに彼女は、訓練場の外れで、一人、揺れる的の稽古を繰り返した。的に布切れを結び、風で揺らす。狙いを定め切る前に、体が覚えた距離で放つ。外れる矢もあった。だが、三本に一本は、的の中心近くに届くようになっていた。決める力は、考え抜くことの先にしか育たない。彼女は汗を拭い、もう一組、矢を番えた。

 

彼女は自分の弓の弦を点検し、選抜の稽古の予定を頭の中で組み直した。見るべきものが増えた今、彼女には、もっと強く、もっと確かにならなければいけない理由が増えていた。

 

家に帰る道で、彼女は空を見た。森の向こうに、大穴のある方向の空が、夕日を受けて遠く霞んでいた。いつか自分の足で近づく場所。もしかしたら、あの少女の来た場所。

 

(自分の目で見るまでは、決めない)

 

それが、彼女の出した答えだった。保留ではなく、約束としての保留。弦を引く指に、力が戻っていた。

 

家に帰ってから、彼女は小さな布を織り始めた。訪ねるときの、手土産のためだった。武器でも、食料でもない。ただの、丁寧に織った小さな布。織り進めるうちに、彼女は交易のときに手に入れた白い糸を、端に一筋だけ織り込むことにした。理由は、自分でもうまく言えなかった。白い少女、とでも呼ぶべき、その子の色だった。言葉の通じない相手に、自分が敵ではないと伝える手段を、彼女は自分の手で用意しようとしていた。敵意がないことを示すのは、弓を下ろすことだけではないはずだった。

 

布が織り上がるのは、もう数日先のことだった。それまでに、彼女は自分の目で見る覚悟を、織り目の一つひとつのように、確かにしていく。訪問の日は、少しずつ近づいていた。彼女は、その日を静かに、しかし確かな決意と覚悟と共に、待ち続けていた。


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