幕間 カルバンド ― 大剣の重さ
隊商が去ってから数日が経ち、砦にはいつもの静けさが戻っていた。
カルバンドは、夜明け前の訓練場に一人でいた。大剣の素振りは、彼の日課だった。重い剣を、正確に、疲れても乱れない形で振り続ける。守護戦士団の剣は、派手さのためではない。壁の上で、隣の戦士と並んで、魔獣の群れを押し返すための剣だった。
素振りの前に、彼は剣の手入れを欠かさなかった。刃の欠けを見て、油を差し、柄の巻きを締め直す。この大剣は、彼が自分の意志で選んだ得物だった。軽い剣なら、もっと速く振れた。だが壁の戦いは、押し返し合いの戦いだ。重さそのものが、守りの力になる。選んだとき、父は何も言わなかった。反対も、賛成も。その沈黙を、彼は今でも時々考える。認められていたのか、試されていたのか。今の彼には、そのどちらでもいいと思えた。選んだのは自分で、責任も自分のものだった。
彼の父は、守護戦士団の副団長だった。
物心ついた頃から、彼は「副団長の息子」として見られてきた。剣が上手ければ「さすが副団長の息子」。失敗すれば「副団長の息子なのに」。どちらの言葉も、彼自身を見ていない気がして、子供の頃の彼は、それが悔しくて仕方なかった。
だから彼は、誰よりも早く訓練場に来て、誰よりも遅くまで残った。父の名ではなく、自分の剣で呼ばれる日が来ることを、疑ったことはなかった。
入団試験まで、あと半月ほどだった。
試験の内容は、剣の技量だけではない。壁の警備の作法、見張りの交代、魔獣の種類と対処、負傷者の搬送。守る仕事の全てが問われる。彼は自分の剣には自信があった。だが、守護戦士団に求められるのは、一人で勝つ力ではない。並んで、耐えて、交代して、朝まで持ちこたえる力だ。その難しさを、彼は壁の見張りに立つたびに感じていた。
先日の巡回で、仲間が傷を負った日のことを思い出す。彼は別の組にいて、直接その場にはいなかった。後から聞いた話では、興奮した魔獣を追い返し、死者は出なかった。その中心にいたのが、案内役のトージャだったという。
トージャ。カルバンドは、素振りの手を止めた。
あいつは、不思議な奴だった。
腕は立つ。模擬戦では、団員相手にだって、たまに勝つほどの腕だ。なのに戦士団に入ろうとしない。調合師になるのだと言う。薬草と毒と、森の獣の生態と。カルバンドには分からない世界だったが、あいつの目が森を読むときの鋭さは、本物だと知っていた。
何度も誘った。お前ほどの腕があれば、守護の壁はもっと厚くなる、と。あいつはいつも曖昧に笑って、断った。怒りはなかった。ただ、少しだけ残念だった。並んで壁に立つ未来を、彼は何度も想像していたのだ。
隊商が滞在していた間、カルバンドは滞在地側の壁の警備に就いていた。外の傭兵たちの訓練を、彼は壁の上からよく眺めた。盾を並べ、号令で一斉に前進し、一斉に止まる。あの統制は美しかった。と同時に、彼は思った。あの隊列は、平らな場所でこそ強い。倒木と斜面だらけの森の中では、半分も力を出せまい。森での強さは、自分たちに分がある。その思いは、若い戦士の意地であると同時に、確かな実感でもあった。
滞在中の夜、一度だけ、小さな事件があった。森から下りてきた小獣が、滞在地の残飯の匂いに引かれて壁に近づいたのだ。彼は見張りの定石通り、声を掛け、松明を増やし、隣の見張りと連携して、矢を射るまでもなく追い払った。騒ぎは最小限で済んだ。翌朝、その一部始終を見ていた傭兵の一人が、彼に拙い仕草で敬意を示した。国は違っても、「夜を守り切る」ことの価値は、戦士同士では通じ合うのだった。
交易隊商が来ていた間、あいつの動きは目まぐるしかった。素材の値段交渉だの、買付の商人の相手だの。森読みの目が、商いの場でも役に立つのを見て、カルバンドは思った。あいつは、あいつの戦い方で、砦に貢献している。それを「戦士らしくない」と切り捨てるのは、違うのだろう。
……ただ、このところのあいつは、どこか疲れて見えた。目の下に隈があった。何か抱えている顔だった。尋ねても、笑って誤魔化されるのは目に見えていた。あいつは昔から、自分のことは自分で片付ける性分だ。
彼は一度だけ、少年時代のことを思い出した。父に初めて木剣を渡された日、父は彼の剣を一太刀で打ち落とし、こう言った。「守りの剣は、前に出ない。出たくなったときが、一番危ない」。子供の彼は、その言葉の意味が分からなかった。勝つためには前に出るしかないと思っていたからだ。分かるようになったのは、壁の実務に就いて、魔獣の群れの圧力を隣の戦士と分け合ったときだった。
(言いたくなったら、言うだろう)
彼はそう決めて、剣を振ることに戻った。仲間の在り方を信じることも、守る仕事のうちだと思えた。口を出さずに見守ることもまた、信じる形の一つだった。
昼前、訓練場で若い戦士の相手をしていたときのことだ。まだ団員でもない年下の少年が、彼の大剣の型を羨望の目で見ていた。「カルバンドさんみたいに強くなりたい」。彼は少し照れて、それから真面目に答えた。「強いだけじゃ、壁は務まらんよ。……俺も今、覚えている最中だ」。少年の目には、それでも彼は大きく映ったのだろう。その視線に、彼は「副団長の息子」ではない自分の姿が、少しずつ形を持ち始めているのを感じた。
昼前、彼は父に呼ばれた。団の詰所で、父は巡回路の記録を整理していた。
「試験の準備はどうだ」
「進めています」
「剣だけに寄るな。お前の試験で一番危ういのは、そこだ」
父の言葉は、いつも短く、正確で、耳に痛かった。彼は反論せずに聞いた。事実だったからだ。彼は模擬戦で前に出過ぎる癖があった。一対一では強みになるその一歩が、隊列と壁の戦いでは、穴になる。
「……分かっています」
「分かっているなら、直るはずだな」
父は書類から目を離さなかった。だが、帰り際、ひとこと付け加えた。
「壁はな、一人で守るものじゃない。誰と並ぶかを考えるのも、守りのうちだ」
「……父さんは、誰のことを言っているんですか」
思い切って尋ねると、父はようやく顔を上げた。
「この前の巡回の報告書を読んだ。案内役の若者が、治療と囮で組を救ったとあった。剣しか見ていない者には、あの仕事はできない」
トージャのことだった。父の口から、あいつの働きが評価されるのを聞くのは、初めてだった。
「お前は強い奴と並びたがる。だが、壁を厚くするのは、強い奴だけじゃない。違う力を持つ者を、どう置くかだ」
その言葉が、誰のことを指しているのか、彼にはもう分かっていた。だが、それ以上は何も言わず、不思議と胸に残るまま、彼は詰所を後にした。
午後、彼は詰所で先輩の戦士から試験の昔話を聞いた。筆記はない。代わりに、夜通しの見張りの再現や、傷ついた仲間を背負っての移動など、実地の課題が並ぶという。「一番落ちる奴はな、剣の弱い奴じゃない。退屈に耐えられない奴だ」。見張りは退屈だ。だが、その退屈の向こうで、森は絶えず何かを告げている。その声を聞き漏らした者が、砦を危険に晒す。
その夜、彼は交代の見張りに志願して立った。何も起きない時間の、長いこと。彼は剣を膝に置き、森の音に耳を澄ました。風の層、夜鳥の声、遠くの獣の気配。トージャが「森を読む」と言うとき、あの目はこういう時間の中で育ったのだろうと思った。守る力の中には、じっと待つ力も含まれていた。彼にとって、それは剣の型を覚えるより難しい修行だった。
翌日の夕方、彼は思い立って、トージャの家を訪ねた。母君に挨拶をして、裏の作業場にいたあいつを引っ張り出した。
「付き合え。試験前の仕上げに、模擬戦だ」
「俺は試験、受けないんだけどな」
「分かってる。だが、お前の動きは俺の悪い癖をよく映す。鏡になってくれ」
トージャは少し笑って、訓練用の斧を手に取った。
二人の模擬戦は、いつも長く続く。最初の打ち合い、カルバンドは調子に乗って前に出た。そこをトージャに潜り込まれ、腹に斧の峰を当てられた。本番なら、終わっていた。「……やっぱり、出たな」とトージャが言う。彼は苦笑して、構え直した。癖は、自分では見えない場所にある。だからこそ、鏡が要るのだった。大剣の圧力と、斧の懐に入る動き。カルバンドが押し切ればトージャが受け損ね、トージャが回り込めば大剣の間合いが崩れる。今日も、決着はすぐにはつかなかった。
最後の一合、カルバンドは前に出る衝動を、意識して堪えた。一歩を止め、剣を壁のように構えた。トージャの斧が、その構えに弾かれた。初めて、彼は「守る剣」であいつを止めたのだった。
「……今の、いいな」
トージャが息を整えながら言った。
「試験、本番でもやれよ」
カルバンドは、汗を拭いながら笑った。
「言われなくても、やるさ」
模擬戦の帰り際、トージャが言った。「フーアンはまだ迷ってるらしくてよ。ナラは兵団一直線だし、カルドは守護だし」。四人の進む道が、少しずつ分かれていく年頃だった。カルバンドは、それを寂しいとは思わなかった。道は分かれても、守る場所は同じ砦だ。並ぶ場所が違っても、背中合わせでいられる。それで十分だった。
帰り道、彼は壁の下を通った。夕餉の煙が家々から昇り、子供たちの声が通りに響いていた。壁の内側の、この何でもない夕方の風景。守るというのは、結局のところ、この風景のことだった。獣を倒すことでも、名を上げることでもない。この煙と声が、明日も同じように続くこと。それを思うと、彼の試験は、ただの通過点に思えてきた。受かるかどうかではない。どんな壁になるか、だ。
大剣は重い。父の名も、重い。だが、今日の彼は、その重さのどちらも、少しだけ持ち方が分かった気がしていた。重いものは、背負い方次第で、壁になる。その重さを、彼はもう、嫌いではなかった。試験までの日々は、まだ続く。彼は剣を背負い、夜の帳が下りる砦を後にした。




