第20話 残された道
出発の朝、隊商は新しい道を通って、砦を発った。
西へ少し迂回し、根掘り獣の食い場と、大型魔獣の縄張りの縁を避ける道。兵団の分隊が先導し、荷車が埃を立てて続いた。滞在地に残されたのは、踏み固められた土と、焚き火の跡と、封じの粉の白い線の名残だった。数日間の喧騒が嘘のように、砦は静けさを取り戻しつつあった。
門前では、最後の挨拶が交わされていた。隊商の代表から長老たちへ、鉄の道具一揃えが贈られ、長老たちからは、道中の無事を祈る守りの編み紐が渡された。フーアンは炊事の者と抱擁まで交わし、「港へ行ったら、また飲もう」と拙い外の言葉で叫んで、皆を笑わせた。カルドは兵団の分隊の最後列を、試験を受ける者の目で、真剣に見送っていた。
見送りの人々の中に、トージャもいた。傭兵の副長が、列の脇から彼に近づいた。
「あんたの読みには、助けられた。……森の戦士は、侮れんな」
通訳越しの言葉に、彼は短く答えた。
「そちらの隊列にも、助けられました」
二人は腕を掴み合った。測り合う握手ではなかった。今度は、認め合う握手だった。傭兵たちは防護布を巻き直し、森の外れの道へと消えていった。外の世界の色の洪水は、来たときと同じ速さで、遠ざかっていった。
買付の商人は、出発の直前に、彼を呼び止めた。
「調査の礼だ。約束の対価に、これを加えよう」
男が差し出したのは、金ではなかった。言葉だった。
「以前、写しの出所は未検証だと言ったな。だが、一つだけ、私が自分の目で確かめたことがある。二十年ほど前、私は写しの一つを実際に扱った。最後の頁に、写本師の覚え書きが残されていた。……写しの元になった本は、数十年前に、この東の土地から来た旅の調合師が外へ持ち出したものだ、と」
トージャの息が、止まった。
「写しは外で作られた。だが、元はここから出ていった。写本師の覚え書きには、その調合師のことも少し書かれていたそうだ。いや、私が見たのは覚え書きの写しの方でね。原文は、その写しと共にどこかへ消えた」
老人の小屋で見た、あの欠片。旅の調合師。若い頃の老人が会った、その男。時系列が、頭の中で静かに重なっていった。その旅の調合師こそが、本を外へ持ち出した男だったのか。あるいは、その系譜の誰かだったのか。
「なぜ、俺に教えてくれるんです」
「投資だよ」
男は笑った。
「君は、ここの森を知っている。値の付けにくい男だが、嘘のない男だ。……いつか君が、その手がかりを辿る日が来たら、最初に声をかける相手は私でありたい。それだけだ」
男は、最後に声を落とした。
「一つ、忠告しておく。私の背後の出資者の中には、私ほど穏やかでない者もいる。手がかりの話は、軽々に外でするな。……特に、この土地の年寄り連中に、根掘り葉掘り聞いて回るような真似は、慎んだ方がいい。あんたの師匠のためにも」
その言葉は、脅しではなく、年長者の分別として響いた。老人の秘密は、老人自身の過去と結びついている。その核心に、若い彼が土足で踏み込むことは、許されないのかもしれなかった。
彼は名刺代わりに、外の世界の小さな金属の印章を一つ、トージャに渡した。次にどこかの隊商で会ったときに、身分を示す品だという。
「達者で。森の値段を守る仕事は、続けるんだな」
トージャは、壁の上から、隊商の列が森の向こうに消えるまで見送った。旗が、土煙が、やがて何も見えなくなった。残ったのは、西へずれた新しい道の跡だった。その道は、この先何年も、隊商の通る道として残るのだろう。外の世界との取り引きが、森の形そのものを少しだけ変えた。そのことが、彼には象徴のように思えた。
隊商の旗が、迂回路の先で小さくなっていった。トージャは、掌の中の印章と、頭の中に残った覚え書きの言葉を、何度も反芻した。手がかりは、一つ。だが、それは確かな形を持っていた。探し物の糸は、外の世界の彼方ではなく、彼の生まれた土地の過去へと、静かに方向を変えたのだった。
調合師の名を、彼は最後に尋ねた。男は首を振った。「覚え書きの写しでは、その部分が欠けていた。……欠けた円環、というやつだ」。皮肉な符合に、二人とも苦笑した。
老人に聞くべきことは、山ほどあった。だが、商人の忠告と、老人との約束が、彼の口を重くした。聞くべきときに、聞くべき形で聞く。その忍耐も、今日の彼には学びのうちだった。手がかりは逃げない。何十年も眠っていたのだ。あと少し眠っていても、同じだった。
家に帰ると、母が彼の顔を見て言った。
「終わったわね、…なんだか置いていかれたような気分ね」
「品と、金と、話だけだよ」
父は道具の手入れをしながら言った。「外の連中が残すのは、物だけじゃない。人の頭の中に、道ができる」。その言葉は、その日の彼の胸に、妙に残った。
隊商が去った日の夕方、ナラが彼の家を訪ねた。
「終わったね……交易」
「ああ」
「……話してくれるんだったよね」
静かな声だった。逃げ場は、もうなかった。彼は深く息を吐き、家の裏の、人の来ない場所へ彼女を誘った。
彼は話した。発見の日のこと。森で倒れていた、外の人間らしい少女のこと。砦に連れて行けなかった理由。熱と、傷と、小屋と、岩棚のこと。全部ではない。だが、骨格は全て話した。話し終えるまでの間、ナラは一度も口を挟まなかった。
話の間、彼女の頭の中では、散らばっていた欠片が次々と嵌まっていくのが、彼にも見て取れた。食料の膨らんだ袋。巡回の日の、彼の安堵の表情。夜の門での、背負い袋。全部が、一本の線に繋がったのだ。
長い沈黙の後、彼女は言った。
「……十日以上も、一人で」
「ああ」
「なぜ……私たちに、言わなかったの」
「言えば、お前たちを巻き込む。団にも、砦にも、言えないことだ」
彼女は俯き、それから顔を上げた。その目には、怒りと、安堵と、傷ついた色が、複雑に混ざっていた。
「……あんたが無事でよかった。でも、黙ってたのは、やっぱり悔しい」
「ごめん」
「謝るくらいなら……次は一人で抱えるなって、母さんの言葉、だったよね」
母の言葉を、彼女も聞いていたのだった。彼は苦笑した。
「その子は……危ない子、なの」
「違う。怪我をして、弱っていただけだ。今は、もう歩ける」
「……いつまで、隠すつもり」
「……分からない。分からないんだ、本当に」
正直な答えだった。彼女は、その正直さを受け取ったように、小さく息を吐いた。
「カルドとフーアンには、今は言うな。あの二人は、悪気なく騒ぐ」
彼女は、すぐに結論を出さなかった。だが、最後に一つだけ言った。
「私、今すぐ誰かに言ったりはしない。でも、放ってもおけない。……次に、その子に会いに行くとき……私も、連れて行って。自分の目で見てから、決める」
「……なぜ、私に話したの」
「約束したからだ。それに……一番気づいていたのは、お前だった」
彼女は少しだけ、複雑な顔をした。気づいていたことと、知ってしまったことは、違ったのだから。
それは、要求であり、彼女なりの誠実さだった。彼は頷くしかなかった。秘密を知る者は、二人になった。
翌朝、彼は岩棚へ向かった。ささやかな土産を携えて。
彼女は、いつものように石の合図で彼を迎えた。足の具合は更に良くなり、棚の周りの短い昇り降りなら、杖なしでもこなせるようになっていた。彼が来る日を数える、壁の線も増えていた。
彼は懐から、小さな袋を取り出した。銀貨が二枚。彼女の薬草が売れた対価だった。
「お前の品が、売れたんだ。これが、その対価。お前の稼ぎだ」
言葉の全部は伝わらなかっただろう。だが、彼は自分の銀貨の袋と、彼女の袋を並べて見せ、商いの真似事をして、彼女の袋を彼女の掌に載せた。彼女はしばらく銀貨を見つめ、それから、信じられないという顔で彼を見た。
「ワタシ、ノ」
覚えたての言葉で、彼女は確認した。彼は頷いた。
彼女の目が、ゆっくりと潤んだ。倒れて、運ばれて、匿われて。その全ての日々の中で、彼女は初めて、自分の手で得たものを、自分の手に持っていた。それは銀貨二枚の重さ以上のものだった。
彼女は袋を大切そうに仕舞い、それから棚の奥から、二つ目の白い包みを取り出した。新しい薬草の束だった。もう乾かしてある。今度も、売ってほしいということだった。彼は笑って受け取った。
土産のもう一つは、交易で手に入れた金属の針の揃えだった。彼はそれを、彼女の繕い物のために渡した。彼女は針を一本取り、光にかざし、それから嬉しそうに頷いた。外の世界の品が、また一つ、彼女の暮らしに届いた。
彼女は新しい言葉の稽古も見せた。木の棒に刻んだ線の数が、彼女の覚えた言葉の数だった。水、月、空、旗。その一つひとつを、彼女は指でなぞって発音した。拙いが、確実に増えていた。
彼は、もう一つ、彼女に伝えるべきことがあった。土に、三つの人影を描いた。自分。弓を持つ女。そして、彼女。その女の人影を指し、それから彼女を指して、短く言った。「トモダチ。……知っている」
彼女の表情が、強張った。自分の存在を、知る者が増えた。その意味の大きさは、彼女にも伝わった。彼は慌てて手を振り、弓の女の絵に、穏やかな顔を描き加えた。大丈夫だと、拙い絵で伝えた。彼女はしばらく絵を見つめ、それから、静かに頷いた。彼の判断を信じる、という頷きだった。その信頼の重さが、彼の肩に新しい責任として載った。
帰り際、彼女は岩棚の端から、砦のある方向を眺めていた。見えるのは森と空だけだったが、彼女の目は、その先の人々の暮らしを見ようとしていた。いつか、あの場所へ。彼女の立つ岩棚と、砦とを結ぶ道は、まだ森の中に埋もれていた。だが、道は、歩き始めた者の中で、少しずつ形を持ち始めていた。
トージャは森を下りながら思った。隊商は道を残して去った。迂回路の跡。商人の覚え書きの言葉。ナラと分け合った秘密。そして彼女の掌の銀貨。残された道は、一つではなかった。そのどれもが、彼の足で辿るべきものだった。




