第19話 見落とした跡
掘り返された跡は、交易路に沿って、点々と続いていた。
合同の一行は、跡を追って進んだ。兵団からは分隊長以下六名、傭兵からは副長と斥候二人、弩持ち二人。そこに、素材と森の目利きとしてトージャ。総勢十二名の、小さな合同部隊だった。
朝のうちに、ナラが伝令として一度追いついてきた。隊商の出発が明後日に決まったという、砦からの知らせだった。彼女は掘り返しの跡を一目見て、「獣の仕業にしては、並び方が変だね」と言い残し、砦へ戻っていった。その一言は、そのときのトージャの頭には残らなかった。だが、後から思い返すことになる。先行は兵団の隊員、両翼に傭兵の斥候。トージャは分隊長の脇で、地面と森の様子を読み続けた。掘り返しは、どこも根の匂いがした。土の下の根茎を、何かが執拗に掘って食べた跡だった。
「黒紫にあてられた獣が、食い物を探して暴れているんじゃないですか」
トージャは、そう推測した。この土地の異変は、まず黒紫を疑うのが常だった。だが、兵団の年長の隊員が、屈んで土を摘み、首を振った。
「違うな。見てみろ、掘り方が丁寧すぎる。興奮した獣の掘り方じゃない。根掘り獣の群れだ。あいつらは根を掘るのが仕事みたいな獣でな、普段はもっと奥の、根の多い湿地にいる」
傭兵の斥候は、別のことに気づいていた。掘り返しの並びが、ある場所を境に、ぱたりと途切れている。その先は、掘れるはずの土があるのに、手つかずだった。「何かを、避けている」。通訳越しのその言葉に、年長の隊員が頷いた。獣は、自分たちより強い何かの匂いを避ける。掘り返しの「途切れ方」そのものが、地図だったのだ。
根掘り獣。中型で、猪に似て、土を掘る鼻先の強い獣。群れで動き、人を襲うことは滅多にない。トージャも知っている獣だった。だが、なぜこんな道の側にまで出てきているのか。
傭兵の斥候が、森の奥を指した。通訳を介して、彼が言った。
「あの辺りから先、鳥の声がしない。来たときも気になっていた場所だ」
獣の気配の消えた場所。買付の商人が言っていた「奇妙な場所」。一行は、慎重にそちらへ近づいた。森の空気が、少しずつ変わっていった。鳥の声が消え、小動物の気配が消える。代わりに、木の幹に、新しい爪痕があった。高い位置。大きな体が、縄張りを主張した跡だった。
トージャは、その爪痕の高さを測って、息を呑んだ。
さらに、窪地の縁の柔らかい土の上には、古い足跡が残っていた。四つの足跡のうち、左の前足だけが、浅い。引きずるように、浅い。彼はその場に膝をついた。この癖を、彼は知っていた。以前、自分の命をかけて読んだ跡だった。
「間違いない。あの個体だ」
「……この大きさは」
以前、彼が退けた大型魔獣。左前足を引きずる、あの獣。巡回のとき、その巣はもぬけの空で、跡は東へ向かっていた。あの獣は移動の末に、この森の一角を新しい縄張りにしたらしい。そして、その縄張りに追いやられる形で、根掘り獣の群れが交易路の側へ押し出されてきた。掘り返しの跡は、追われた獣たちの、新しい食い場の跡だった。
彼の最初の推測は、外れていた。異変の原因は、黒紫ではなかった。獣と獣の、棲み分けの移動だった。彼は地面をもう一度見直した。根掘り獣の糞に混ざる根の繊維。群れの足跡の重なり方。見ようとすれば、最初から全部そこにあった。彼は黒紫という「分かりやすい答え」に目を奪われて、足元の跡を見落としていたのだ。
一行は、食い場の中心を避け、その縁を回る進路を取った。群れを刺激せず、距離を測るための観察行だった。分隊長の手信号で、全員が足を止める。風向きが変わったのだ。
そのとき、茂みの向こうで、群れから逸れた若い個体が一行に気づいた。驚いた獣は、群れと一行の間を、逃げ場を求めて駆けた。その動きが、群れ全体の警戒を弾けさせた。
一行が群れの食い場の縁に差し掛かったとき、それは起きた。
茂みの奥で、短い鳴き声。次の瞬間、根掘り獣の群れが、横合いから駆け出してきた。縄張り争いで気が立った群れが、一行を「追ってきた敵」と誤解したのかもしれない。七頭。土煙と共に、道を横切って突っ込んでくる。
「下がるな、盾!」
傭兵の副長の声が飛んだ。前衛が盾を並べ、弩がその肩越しに構えられる。隊列は、一瞬で形になった。その速さと正確さは、見事というほかなかった。最初の二頭は盾に弾かれ、弩の一斉射で足を止めた。だが、群れの後ろの個体が、横の斜面を駆け上がって、側面に回り込んだ。
そちらを担ったのは、兵団の隊員たちだった。斜面の戦いは、隊列の戦いではなかった。木と岩と傾斜を使い、一頭ずつを群れから切り離し、追い返す。トージャも斧を抜き、斜面の下で群れの逸れを食い止めた。彼の役割は、殺すことではなかった。群れを道から遠ざけ、森の奥へ返すことだった。
トージャは、斜面を駆け下りてきた一頭に、声と石の音で向きを変えさせた。大きな音を立て、腕を広げ、自分を大きく見せる。獣は一瞬怯み、進路を逸らした。殺すための戦いではない。返すための戦い。その判断は、巡回のときと同じだった。
弩の一本が、一頭の脚をかすめた。獣は悲鳴を上げて転びかけ、それでも逃げていった。傭兵の副長は、追撃を制した。「殺しに来たんじゃない」。その言葉は、通訳なしでも、仕草で伝わった。傭兵たちもまた、必要な分だけ戦う者たちだった。
その中で、彼は見た。
側面の、一段と黒紫の濃い窪地。防護布を巻いた傭兵の一人が、そこへ追い込まれかけた。兵団の年長の隊員が、迷わずその窪地へ踏み込んだ。彼は窪地の中で、一瞬だけ、普段より速く、普段より強く動いたように見えた。その直前、隊員は窪地の黒い空気を、深く、意図的に吸い込んでいた。トージャはその所作を、確かに見た。獣の突進を、体を捻ってかわし、その勢いのまま、獣の横腹を盾で押し返した。獣はよろめき、群れの方へ駆け戻った。隊員は何事もなかったように、窪地から出てきた。……ただ、その呼吸が、ほんの少しだけ深く、重かった。
トージャは、それ以上を考える暇を持てなかった。戦いは、長くは続かなかった。群れはやがて、森の奥の、自分たちの食い場の方へと退いていった。残されたのは、踏み荒らされた道と、浅い傷を負った傭兵一人と、静けさだった。
トージャは傭兵の傷の手当てをした。盾の縁で切った程度の、浅い傷だった。手当てには、調合の老人に分けてもらった上質の軟膏を使った。以前、巡回で傷を負った砦の若い戦士に使ったのと同じものだった。傭兵は軟膏の効きの良さに目を丸くし、自分の国の言葉で何事か言った。通訳が笑って訳した。「『森の連中の薬は、見た目より効く』そうだ」。傭兵は、防護布の下から苦笑いを覗かせ、短く礼を言った。その隣では、年長の隊員が何事もなかったように槍の穂先を拭っていた。窪地での一瞬の動きは、誰の話題にも上らなかった。トージャの目にだけ、焼き付いて残った。
盾を持った傭兵が、へこんだ盾の面を叩いて、安堵の笑いを漏らした。兵団の斥候は、迂回路の入口になる木に、目印の枝を折った。戦いの後の、静かな後始末の時間だった。互いの動きを見た者同士の、言葉の要らない空気が、そこにはあった。
一行は、状況を確認し合った。
根掘り獣の群れは、当分この一帯を使うだろう。だが、群れ自体は人を襲う性質ではない。問題は、群れをここへ押し出した、大型魔獣の新しい縄張りだった。交易路は、その縄張りの縁をかすめていた。
「道を、少しだけ西へずらせるな」
分隊長が言った。傭兵の団長も、地図を見ながら頷いた。縄張りの縁を避け、根掘り獣の食い場を横切らない迂回路。それなら、隊商の荷車でも通れる。両方の戦士集団の知恵が、一つの答えに重なった。
トージャは、自分の見落としを報告に含めた。最初の推測が外れたことも、根掘り獣の見分けを年長の隊員に教わったことも。分隊長は笑って言った。
「森を読むのに、恥は要らん。分からないことは、分かる奴に聞け。それができれば、一人前だ」
帰路、傭兵の副長が通訳越しに尋ねてきた。「あの足跡で、前に戦った個体だと分かるのか」。トージャは、左前足の浅さと、引きずりの癖を説明した。副長は感心したように頷いた。「我々は隊列で戦う。あんたは、読むことで戦うんだな」
外の戦士に、自分の読みを認められる。それは、彼にとって初めての経験だった。斧の腕でも、調合の知識でもない。森を読む目。それもまた、戦士の力の形だった。
砦に戻り、長老たちと隊商の代表の前で、報告が行われた。大型魔獣の新しい縄張りの位置、根掘り獣の食い場、迂回路の案。買付の商人は、根掘り獣の食い場が採取の対象外になることを聞いても、顔色を変えなかった。「森の理屈は、聞いた通りに記録する」。彼の文書には、また数行が書き加えられた。
大型魔獣の縄張りの位置が分かったことは、砦にとっても大きな収穫だった。巡回の範囲も、森に入る者への注意の出し方も、これで変えられる。長老の一人は言った。「知らないことが、知っていることに変わる。それが一番の防壁だ」
トージャは、その報告をしながら、心の隅で別の計算をしていた。新しい縄張りは、岩棚とは反対の側だった。彼女のいる場所は、今回の異変の圏外だった。そのことに、彼は誰にも見せない安堵を覚えた。
帰り道、トージャは考えていた。観察は、彼の武器だった。だが、今日の彼は、自分の「分かりやすい答え」に引っ張られて、大事な跡を見落とした。知らないことを知らないと言い、知っている者に聞く。その当たり前のことが、森では命に直結する。
交易路の問題は、解けた。残るは、隊商の出発と、彼自身の約束の決着だった。明後日の朝、隊商は新しい道を通って、この土地を発つ。それで交易は終わる。その言葉を、彼は以前ナラに言った。終わったとき、自分は何を話すのか。答えは、まだ闇の中だった。




