第18話 森の値段
隊商の滞在が続く中で、砦の中には少しずつ変化が起きていた。
貨幣で鉄の道具を買った戦士が、その切れ味を自慢げに見せて回る。女たちは外の布で、子供の服を仕立て始めた。金が暮らしを便利にすることは、誰の目にも明らかだった。トージャ自身、稼いだ金貨の使い道を家の者と相談する、そんな当たり前の時間が生まれていた。だからこそ、その日の商談の重みは、集まった誰もが感じていた。
買付の商人からの申し出は、砦の長老たちの前で、正式な商談として出された。隊商の代表と買付の商人が並び、文書が広げられた。通訳の声だけが、静かな場に響いた。
季節ごとの定期的な交易の約束。決まった品目を、決まった量だけ、砦が用意する。対価は貨幣と品で、今回の交易の何倍もの規模になるという。その品目の中に、トージャの目を引くものがあった。黒紫の濃い土地の苔。深い森の薬草。そして、魔獣の素材の中でも、大穴に近い土地で獲れるものが、特に高い値で並んでいた。
「量さえまとまれば、値は弾む。我々の背後の出資者は、この土地の素材に大変な興味を持っている」
通訳を介した言葉は丁寧だった。だが、その丁寧さの奥に、大きな金の匂いがした。集まった若い戦士たちの中には、目を輝かせる者もいた。金貨で、鉄の道具が買える。武器が買える。砦の暮らしが、楽になる。
長老の一人が、静かに言った。
「森の物には、量の限りがある。その話は、受ける前に聞くことがある」
調合の老人が、その場に呼ばれていた。老人は品目の書かれた文書を受け取り、しばらく眺めてから、首を振った。
「白い花の薬草はな、花を摘めばその年で終わりだ。種を落とす前に全部摘めば、来年は一本も生えん。苔はもっと遅い。岩一つに広がるまで、何年もかかる。魔獣の角も同じだ。獲り尽くせば、その森の獣はいなくなる。いなくなれば、別の獣が入り込んで、均衡が崩れる」
トージャも、口を開いた。採集者としての、自分の言葉で。
「深い森の素材は、俺が一人で入って、やっと少しずつ集まる量です。それを何倍も、となれば、森の奥に大勢で入ることになる。黒紫の濃い土地に、大勢で、長く。……外の人には耐えられないし、俺たちだって無事では済みません」
商人も、言い分はあった。
「誤解しないでほしい。我々が素材を求めるのは、転売のためだけではない。黒紫の土地の薬草は、外の難病に効くことがある。研究が進めば、あの粒子への対抗策も見つかるかもしれない。……素材が届かなければ、その研究も止まる」
それは、もっともな話だった。外の世界にも、救いたい人間がいて、守りたい暮らしがある。長老たちは顔を見合わせた。問題は、相手の欲深さではなかった。森の再生の速さと、外の世界の求める速さが、根本的に違っていたのだ。
商人は反論しなかった。ただ、残念そうに笑った。
「君たちは、森を『売り物』とは考えていないんだな」
「売り物じゃない、とは言いません。ただ、森の値段は、今年いくらで売れるかじゃない。来年も、再来年も、そこで暮らしていけることの中にあるんです」
その言葉は、彼自身の言葉だった。言い終わってから、彼は少し驚いていた。いつの間にか、彼は一族の考えを、自分の腹の底からの言葉で語れるようになっていた。
条件の細部は、調合の老人とトージャが中心になって詰めた。白い花の薬草は、種を落とした後の株からだけ採る。苔は、一つの岩からは半分まで。獣の素材は、落ちている物と、仕留めた個体の無駄にならない分だけ。数字ではなく、森の側の理屈で決めた取り決めだった。買付の商人は、その一つひとつを文書に書き留めていった。外の流儀で、こちらの理屈を記録する。その姿は、意外なほど真摯だった。
商談は、落としどころを探る形になった。
落ちた角や、自然に死んだ獣の素材。量の読める薬草。そういう「無理なく集まる分」については、定期の約束を結ぶ。だが、深い森の素材の大量採取と、大穴に近い土地への大勢での立ち入りは、断る。その代わり、機会があって少量が手に入ったときは、優先的にこの隊商に回す。長老たちは、そういう条件を提示した。
買付の商人は、しばらく考え込んでから頷いた。
「……分かった。今回はその条件で。ただし、言っておくが」
彼は、通訳越しに、穏やかな声で付け加えた。
「この条件を、他の砦も同じように言うとは限らない。出資者の金は、どこかで素材を買う。君たちが断った分は、別の場所が埋めるかもしれん」
その言葉は、脅しというより、事実の指摘として響いた。東の氏族の、他の砦。そのどこかが、この話に乗れば。森の均衡は、一つの砦だけで守れるものではなかった。その重さが、長老たちの顔にも滲んだ。
長老たちは、隊商の代表が退いた後も、しばらく場を立たなかった。一人の長老が、ぽつりと言った。
「南の砦は、近ごろ外との付き合いが増えていると聞く。……あちらの森が先に痩せるようなことがあれば、獣も人も、こちらへ流れてくる」
誰も、それ以上は言わなかった。東の氏族の四つの砦。その足並みが揃わなければ、森の均衡の話は、一つの砦の中だけでは閉じない。その現実が、商談の余韻として残った。
商談の後、商人はトージャを個人的に呼び止めた。
「君の集めた分だけでいい。君が一人で採ってきた分を、個人的に買い取らせてほしい。値も、別に弾む」
それは、砦の約束の抜け道だった。彼一人が頷けば、彼の稼ぎは跳ね上がる。だが、彼は首を振った。
「俺の採る量も、同じ森の分です。……それに、俺には、採集に使える時間にも限りがある」
後半の理由は、口には出さなかった。彼の時間の半分は、岩棚の少女に割かれている。その秘密が、皮肉にも、彼を正直な採集者にしていた。商人は彼をしばらく見つめ、それから小さく笑った。
「君は、値の付けにくい男だ。……嫌いじゃない」
商人は、帰り際に思い出したように言った。
「そうだ、明日の道の確認のことだが。我々が来る途中で、奇妙な場所があった。交易路から少し入った森で、獣の気配がぱったりと消えている場所だ。傭兵の斥候が、不気味だと言っていた。……君の目で、見てきてほしい」
彼は頷いた。その「奇妙な場所」の話は、そのときはまだ、商談の余談ほどの重さしかなかった。
その日の夕方、砦では若い戦士たちの間で、商談の是非が議論になっていた。
「角にあんな値が付くなら、獣をもっと狩ればいいじゃないか」
カルドが言った。悪意はなかった。純粋な疑問だった。答えたのは、彼の父である副団長だった。
「森の獣はな、ただの獲物じゃない。砦の周りの獣の棲み分けが、大きな獣を近づけない壁にもなっている。獲り尽くせば、その壁が崩れる。……物の値段だけで森を見ると、足元をすくわれる」
フーアンが、珍しく真面目な顔で言った。
「金の全部が悪いわけじゃないだろ。外の薬があれば助かる命もある。……俺は外で見たんだ。薬の有無で、人の運命が分かれるのを」
ナラが、門の方を眺めながら言った。
「兵団の人と傭兵が並んで立つところを、近くで見たよ。向こうの装備は確かに凄い。弩も、鎧も、隊列も。でも、あいつら森に入るときは、防護布と封じの粉がなきゃ、長くは立っていられない。この土地じゃ、あの強さは半分は借り物だよ」
彼女は、少し間を置いた。
「……でも、借り物でも、強いものは強い。あたしは両方知りたい。森のことも、外の戦い方も」
誰も、すぐには反論しなかった。若い世代の議論は、正解のないまま夕方の光の中に残った。砦の暮らしは、変わり始めていた。その変化の先に何があるのかは、まだ誰にも分からなかった。
トージャは、その言葉を聞きながら思った。森の値段。外の人間は貨幣で測り、自分たちは暮らしの続きで測る。その物差しの違いが、今回の商談の全てだった。そして、その違いは、きっとこれからも消えない。消えないまま、付き合っていくしかないのだろう。
家に帰ると、父が商談の結果を尋ねた。トージャが一部始終を話すと、父はしばらく黙って聞いていた。
「『来年も暮らしていけることの中に値段がある』……お前が言ったのか」
「……はい」
「悪くない言い方だ」
父の短い言葉が、彼の胸に静かに残った。母は、彼の稼いだ金貨の話を聞いて目を丸くし、それから「じゃあ、家の鍋も直してもらおうかね」と笑った。外の世界は、この家の中にも、少しずつ入り込んできていた。
翌朝、交易路の確認のために、合同の一行が出発した。
鎧武兵団の分隊、傭兵の斥候と前衛の一部、それに道案内と素材の目利きとして、トージャも加わった。隊商の出発を前に、道の安全を確かめるのが目的だった。分隊長と傭兵の団長は、出発前に短く言葉を交わした。先行は兵団、道の両翼の警戒は傭兵の斥候。何かあれば、弩の音を合図にする。その打ち合わせは、通訳なしの、短い外の言葉と身振りで済まされた。数日の共闘で、二つの集団の間には、仕事の呼吸のようなものが生まれ始めていた。
ナラは門で一行を見送った。伝令役として、砦との連絡を担うためだった。その目には、羨ましさと、それを表に出さない分別とが、半分ずつあった。
交易路は、隊商の往来で目に見えて踏み固められていた。車輪の轍、馬の蹄の跡、休憩の焚き火の跡。森の脇の草は倒れ、普段は道の近くまで来る小鳥の姿もなかった。大勢の人間と荷が通ることは、それだけで森に影響を与えていた。トージャは、そのことを目に留めた。
出発して間もなく、交易路の脇で、傭兵の斥候が足を止めた。
道の端の土が、不自然に掘り返されていた。新しい跡だった。トージャも屈んで確かめた。蹄のような跡と、引きずったような跡。だが、その大きさと歩幅が、彼の知っているどの獣とも、しっくりこなかった。
黒紫のせいで興奮した獣か。いや、それにしては跡の残り方が奇妙だった。掘り返された土は新しく、根の匂いがした。何かが、地面の下のものを掘っていた。それも、道に沿って、かなりの距離にわたって。彼は首を傾げた。獣の仕業にしては、規則正しすぎた。
「……何か、いますね。この先に」
一行の空気が、少しだけ硬くなった。傭兵の弩持ちが、静かに弦を張り直した。兵団の隊員たちは、言われなくても間合いを広げ、森の側に目を配った。交易路の確認は、ただの道の点検ではなくなろうとしていた。トージャは、背の斧の柄を、静かに握り直した。




