↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大穴の調合師と全てを繋ぐ触媒  作者: 那貴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
17/43

第17話 白い包み

その夜、トージャは人の目が緩む頃を見計らって、砦を抜け出した。

 

背負い袋には、食料と、交易で手に入れた塩と布の一部。布は生成りの、白に近い色だった。彼はそれを小さく畳んで、一番上に載せていた。誰のためかと問われれば、答えに窮する荷物だった。

 

その日一日、彼は補給の用意を、人目につかない形で進めていた。交易で得た干し果物と穀物を分け、塩を小さな袋に移し、布を畳む。表向きは、自分の家の納戸の整理だった。だが彼の頭の中では、岩棚までの道のりと、見張りの交替の時刻とが、ずっと組み合わされていた。隊商の滞在中、砦の見張りは倍になっている。自分の砦の警戒が、今夜の彼には一番の壁だった。

 

門を出る手前で、彼は背中に視線を感じた。

 

「……トージャ?」

 

ナラだった。見張りの交替のついでに、門の脇に立っていた。彼女の目が、彼の背負い袋と、森の方角とを往復した。

 

「こんな夜に、どこへ」

 

「明日の品の仕込みだよ。沢の側に、乾かしてある素材を取りに行く」

 

嘘ではなかった。帰りに回収するつもりの素材は、確かにあった。だが、この袋の本当の行き先は言えなかった。ナラはしばらく彼を見ていた。何かを言いかけて、やめた。

 

「あんた、最近やつれたよ。何か、一人で抱えてるんじゃない」

 

その言葉が、彼の胸の真ん中に届いた。彼は一瞬、言葉を探した。

 

「……交易が終わったら、話すよ」

 

自分でも、それが守れる約束なのかは分からなかった。だが、その場しのぎの嘘よりは、正直な先送りだった。ナラは小さく頷き、それ以上は問わなかった。

 

「……気をつけて。夜の森だよ」

 

「ああ」

 

彼は門を出た。背中の視線は、角を曲がるまで消えなかった。彼女の疑念は、確証のないまま、また一回り大きくなったはずだった。そのことが、彼の足取りを重くした。

 

 

帰りの遅くなった兵団の斥候と出くわしそうになったのは、森の入口だった。彼は咄嗟に藪に身を沈め、息を殺した。斥候は交易路の確認帰りらしく、彼の数歩先を通り過ぎていった。同胞の目を盗んで歩く。その後ろめたさが、夜気と一緒に肺の奥まで冷たく入り込んだ。

 

夜の森を抜けるのは、慣れた道でも神経を使った。

 

獣の気配を読み、音を立てず、月明かりの届かない場所では足の裏で地形を読む。岩棚に近づくと、まず目に入ったのは、入口の石の並びだった。合図の石が、一列に三つ、整然と並べられていた。異常なし。彼女が彼のために用意した、新しい合図だった。彼は小さく笑った。

 

彼は合図の石を二つ、軽く打った。カチッ、カチッ。少し間があって、棚の奥からも、小さな音が返ってきた。カチッ、カチッ。

 

彼女が、起きて待っていたのだ。

 

「来たぞ」

 

「トージャ」

 

彼女は彼の名を呼び、立ち上がった。杖は、もう脇に置かれたままだった。棚の中を、ゆっくりだが自分の足で歩いて、彼に水の椀を差し出した。その足取りは、前回よりも明らかにしっかりしていた。脇腹の傷は、もう痕だけになっていた。

 

彼女は、自分の近況を身振りで報告するように、棚の外の小さな段差を登って見せた。杖なしで、一段、二段。手すりの代わりの岩に触れはしたが、足は確かだった。水の確保も、棚の裏に染み出す細い湧き水の場所を見つけて、自分でできるようになっていたという。その湧き水までの道には、彼女の置いた小さな石の印が並んでいた。迷わないための、彼女の工夫だった。

 

彼は持ってきた食料を並べた。残っていた分と合わせて、これで五日は持つ。彼女は頷き、自分で棚の隅の定位置に仕舞い込んだ。その手際を見ながら、彼は壁の記録線を数えた。線は、日数と物資の管理のために、整然と増えていた。彼女の暮らしは、彼女の手で回っていた。

 

 

それから、彼女は棚の奥から、小さな包みを取り出した。

 

白い布。彼の持ってきた生成りの布と違い、それは彼女の服の裾を裂いたものらしかった。中を改めると、丁寧に乾かされた薬草が入っていた。岩棚の周りで、彼女が自分の歩ける範囲で集めたものだった。種類は多くない。だが、乾かし方は的確で、傷んだ部分は取り除かれていた。

 

彼女は包みを彼の前に置き、どうやって集めたかを身振りで説明した。棚の下の斜面。陽の当たる岩の上。乾かすときの、品の返し方。彼はすぐに気づいた。それは、小屋にいた頃、彼が薬草を乾かすときにしていた手順だった。彼女は、寝たふりをしていた頃から、彼の仕事をずっと見て、覚えていたのだ。

 

彼女は彼の交易の布袋を指した。それから、自分を指し、もう一度、布袋を指した。

 

売ってほしい。自分の集めた物も、彼の商いに加えてほしい。

 

「……お前が、集めたのか。一人で」

 

彼女は頷いた。誇らしさを隠さない目だった。

 

守られるだけの存在でいることに、彼女はもう甘んじていなかった。足が不自由でも、言葉が通じなくても、自分の手で得たものを、世界との取り引きの場に出したかったのだ。その意思が、白い小さな包みに詰まっていた。

 

彼は包みを、両手で受け取った。

 

「分かった。明日、俺の品と一緒に並べる。……ちゃんと、値の付く品だ」

 

値段の問題ではなかった。だが、彼はあえて値段の話をした。彼女のしたことが「役に立つ」という形で世界に届くことが、今の彼女には何より必要だと分かったからだ。彼女は満足そうに頷いた。

 

 

その夜は、月が明るかった。彼女は月を指し、彼を見た。

 

「月」

 

「ツキ」

 

彼女は繰り返し、次に棚の裏の湧き水を指した。

 

「水」

 

「ミズ」

 

覚えた言葉が、また二つ増えた。それから彼女は、自分の足を指し、棚の外の道の先を指し、歩く真似をした。ゆっくりと、しかし長く。彼女は歩く稽古を、ただのリハビリとしてはいなかった。いつか遠くを歩くための、準備として積んでいた。そのことが、彼の胸に静かに届いた。彼女の目指す先は、この岩棚の外にある。それは分かっていたはずなのに、改めて突きつけられた気がした。

 

夜が更ける前に、彼女は土の上に絵を描いた。

 

彼が近況を伝えようとしたときのことだった。彼女の方から、先に描いたのだ。車輪のある箱。人々の棒線。旗。彼の話を聞いていたわけではない。だが、砦の方向から聞こえてくる微かな音や、彼の荷物に増えた外の品々から、彼女は世界の動きを察していた。旗の絵を指し、彼女は首を傾げた。あれは、何。

 

「旗。……隊商の、旗」

 

「ハタ」

 

彼女は繰り返し、それから人々の絵を指し、次に自分を指した。いつか、自分も。そういう意味だと、彼は受け取った。彼女の目は、岩棚の外の世界を見ていた。守られる場所に安住する目ではなかった。

 

彼は、答えを持っていなかった。彼女が人々の前に出られる日が来るのか。そのとき、砦の人々は、外の世界は、彼女をどう迎えるのか。何一つ、確かなことは言えなかった。

 

「……いつか、な」

 

彼はそう言うしかなかった。彼女はしばらく彼を見つめ、それから小さく頷いて、絵を手で均した。焦っている様子はなかった。待つことも、彼女の強さの一部だった。

 

 

夜明け前に、彼は岩棚を発った。

 

帰り道、彼は小屋のあった場所の側を通った。巡回の後も、痕跡はバレていない。寝床を埋めた場所には、もう新しい草が生え始めていた。森は、九日間の秘密を、静かに飲み込んでいった。彼は足を止めずに通り過ぎた。振り返ることは、もう必要なかった。

 

沢の側で素材を回収し、砦には朝の光と共に戻った。誰にも、咎められはしなかった。ナラと目が合ったのは、昼の市場のことだった。彼女は何も言わず、ただ彼の背負い袋が軽くなっていることを、一目で見て取ったようだった。

 

彼は自分の台に、品を並べた。一番端に、彼女の白い包みを置いた。

 

その日の昼過ぎ、白い包みは売れた。買い手は、薬草を扱う別の商人だった。彼は包みを開け、乾かし方の丁寧さを確かめて、頷いた。「小さいが、良い仕事だ」。値段は銀貨二枚。トージャはその銀貨を、自分の袋には入れなかった。小さな別の袋に入れて、懐の奥にしまった。彼女の稼ぎは、彼女のものだった。

 

今日の商いで、この小さな包みが誰かの手に渡る。彼女の存在は、彼女の知らないところで、少しずつ世界と繋がり始めていた。それは喜びであると同時に、新しい危うさでもあった。繋がりは、辿ることができる。辿った先に、彼女の姿がある。

 

昼の市場の終わり際、フーアンが彼の懐の小袋を目ざとく見つけた。

 

「何だ、その袋。銀貨二枚? 誰かに貢ぐのか」

 

「預かり物だよ。……人の稼ぎを、勝手に使うわけにはいかない」

 

「真面目だねえ」

 

フーアンはあっさり引き下がった。だが、その「誰の稼ぎか」を彼は問わなかったし、トージャも言わなかった。友人の冗談が、真実のすぐ脇を通り過ぎていく感覚。彼はそれにも、少しずつ慣れてしまっている自分に気づいていた。

 

だが、その日の夕方のことだった。買付の商人が台の片付けを眺めながら、売れた白い包みの「布」に目を留めた。包みに使われていたのは、彼女の服の裾の布だった。男はそれを指先でつまみ、織りを確かめるように見た。

 

「あの包みの布は、この土地の織りじゃないな。面白い。どこで手に入れた」

 

トージャの背筋を、冷たいものが走った。

 

「素材と一緒に回ってきた、端布ですよ。……出所は、俺も知りません」

 

男はふうん、と頷き、それ以上は追わなかった。ただの布切れへの、商人の目利きの独り言。その程度のことに、男自身も意味を置いてはいなかったのだろう。だがトージャには分かった。彼女の世界の欠片は、もう彼の知らない場所で、他人の目に触れていた。

 

彼は包みの結び目を、一度だけ指で確かめた。

 

守るということは、閉じ込めることではないのかもしれない。その思いが、彼の胸のどこかで、小さく形を変え始めていた。

 

懐の小袋には、彼女の銀貨が二枚入っていた。軽い重さだった。だが彼にとっては、自分の金貨よりも、ずっと重い預かり物だった。明日は兵団と傭兵の合同の道の確認がある。彼は小袋を仕舞い直し、明日の支度に取りかかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。