第16話 欠けた円環
隊商が着いた翌日、本格的な商いが始まった。
朝の光の中で、滞在地は小さな市場になった。台が並び、品が広げられ、通訳を介した値の付け合いがあちこちで始まる。トージャの台にも、朝から何人かの商人が立ち寄った。一般の薬草は、思ったより良い値で売れた。外では薬草そのものが不足しているのだという。彼は銀貨の重みを、布袋の中で確かめた。昨日まで想像の中にしかなかった貨幣が、今は彼の手の中にあった。
午前中の彼は、失敗から始まった。
布を扱う商人が、彼の薬草束を見て「全部で銀貨三枚」と言ったとき、彼はほとんど考えずに頷いてしまったのだ。後で隣の台の様子を見れば、同じ量の束が五枚で売れていた。初値を鵜呑みにするなとは、あれほど言われていたのに。彼は苦笑いし、布袋の中の三枚の銀貨を眺めた。安い勉強代だった。交渉という戦いは、始まったばかりだった。
滞在地の片隅では、隊商の職人が砦の女たちの持ち込んだ鍋の修理を受けていた。穴の空いた鍋底に、金属の小片を打ち付けて塞いでいく。砦では捨てるしかなかった鍋が、みるみる蘇る。その手際を、女たちは感嘆して見ていた。外の技術が、暮らしの役に立つ場面も確かにあった。警戒一辺倒ではない、交易のもう一つの顔だった。
買付の商人が来たのは、昼近くになってからだった。
男は通訳を一人だけ連れて、台の前に立った。まず、量のある品から見ていく。解熱の葉の束、傷薬の材料、乾燥させた苔。一つずつ手に取り、匂いを嗅ぎ、指で揉み、光に透かす。その鑑定は速く、的確だった。
値付けは、厳しかった。
「この葉は悪くない。だが、外の市場では似た効き目の葉がもっと安く出回っている。全部まとめて、銀貨で六枚」
通訳の言葉に、トージャは首を振った。
「似た効き目でも、同じじゃない。この葉は黒紫の濃い土地の縁で採れる。効きが長く持つ。量も、これだけ揃えるのは簡単じゃない。森の深い側まで入っている」
彼は品の束を一つ、男の目の前に置き直した。慌てるな。引くときは引け。年長の戦士の言葉が、背中を押した。
男は面白そうに目を細めた。それから、少しだけ値を上げた。交渉はそこから、三度、四度と往復した。天秤に品と銀貨が載せられ、銀貨の端が秤で確かめられる。老人の言っていたとおり、数えるだけでなく、量るのが外の流儀だった。
値踏みの嘘も、混ざっていた。
「この苔は湿り気が残っている。傷みやすい品は安くしか買えない」
男はそう言ったが、トージャは首を振った。苔は彼の手で、沢の風の通る岩の上で二日かけて乾かしたものだ。彼は苔を一枚取り、男の前で割って見せた。中まで乾き、香りが立った。
「湿っているのは、表面の朝露です。中は乾いている。匂いを嗅いでみてください」
男は一瞬きょとんとし、それから笑い出した。通訳も笑っていた。
「やるな。若いのに、値踏みの嘘を見破るとは」
嘘をつくことも、交渉の一部だった。そのことを知ったのも、今日の収穫の一つだった。信用の世界は、正直だけでは回っていなかった。
最後に、トージャは取っておいた品を出した。白い花の薬草と、一番状態の良い魔獣の角。
男の目が、明らかに変わった。彼は角を両手で持ち、重さを量り、断面を長く見つめた。
「……これは良い。君は、素材の目利きもできるのか」
支払いの段になって、男は彼に天秤を手渡した。
「自分で量ってみるといい。これからの商いのためにも」
トージャは教わった通りに、金貨を皿に載せた。釣り合う。次に、男は別の銀貨を一枚、彼の掌に置いた。今朝、別の客から受け取ったものだという。見た目は同じだが、手に取ると僅かに軽い。皿に載せれば、針が傾いた。端を削られた、偽の銀貨だった。
「枚数を数えるだけの男は、こういうものに騙される。君はもう、数えるだけの男ではないだろう」
男はその偽の銀貨を、自分の袋の別の仕切りにしまった。証拠として持って帰るのだという。信用の世界には、信用を食い物にする者もいる。その現実まで含めて、トージャは貨幣というものを学んでいった。
値段は、跳ね上がった。全ての品を合わせて、金貨一枚と銀貨数枚。それと、物々交換で塩と丈夫な布、金属の針の束。トージャにとっては、想像を超える対価だった。だが、彼は浮かれなかった。値が付くということは、それだけ外で求められているということだ。
商いが一段落したところで、男は彼の台の脇に腰を下ろした。通訳を介した、世間話のような時間。だが、トージャの求めていたのは、この時間だった。
「君のような若者が、この土地には珍しい。素材を知り、調合を知りたがる目をしている」
男は、彼の仕事ぶりを褒めた。「君の品の乾かし方は古い流儀だと、通訳が言っている。今の外の市場では、もっと荒っぽく乾かすそうだ。丁寧な師に教わったんだろう」
「年寄りの調合師に、基礎を」
「道理で」
男の目は、値踏みのときとは違う色を帯びた。
「調合には、興味があります。……古い調合書の噂を、聞いたことはあります。三冊の、古い書が」
切り出し方は、慎重にした。写しのことは言わない。あくまで、噂を聞いた若者の顔で。
男は少し笑い、酒の小杯を傾けた。
「ああ、その噂か。外では有名な話だ。三冊の古い調合書。黒紫を扱う、今では失われた技の書。あれを求めているのは、私の背後にいる研究機関でね。正確には、その出資者たちだ」
彼の話は、断片的だった。写しは外縁の各地に散らばって作られたが、その多くは不完全なのだという。
「写しの大半は、図が欠けている。円環の図があるんだが、輪が閉じていない。欠けた円環。写した者が意味を理解できず、肝心の部分を落としたんだろう。私も何点か見たが、どれも使い物にならなかった」
トージャの胸の奥で、何かが小さく鳴った。
数日前に見た、あの写しの欠片。老人の小屋で暗記した図。素材が巡り、処理した先から最初の器へ戻っていく、円環の手順。あの図は、閉じていた。……はずだった。一度見ただけの記憶だ。確信は持てなかった。だが、もしあの図が「欠けていない」のだとしたら。老人の持つ欠片は、外の研究機関が血眼で探すほどの価値を持つことになる。
彼は、その思いを顔に出さなかった。と思う。少なくとも、男は気づいた様子を見せなかった。
男は、別の話もした。数年前、どこかの町で「完全な写しを手に入れた」と豪語した商人が、図の手順を真似て調合を行い、毒にあたって死んだという話だった。濃度を間違えたのか、欠けた図を補うつもりで勝手な手順を足したのか、詳しいことは分からないという。
「だから、うちの機関は慎重なんだ。欠けた円環では人は死ぬ。完全な図と、それを読み解ける者が要る」
老人の警告が、ここでも裏付けられた。写しが危険だと言った、あの声。外の世界でも、同じ危険で人が死んでいた。トージャは、頭に叩き込んだ自分の記憶の図を思った。あれを安易に試すことは、死に直結する。彼の夢は、憧れであると同時に、危うい代物でもあった。
「写しを作った写本師のことも、調べているんですか」
「手がかりは薄い。何十年も前の話でね。写しの出所として、港町の古い商会の名が挙がることはあるが、確かめた者はいない」
男は肩をすくめた。要するに、噂の域を出ない話だった。だが、ゼロではなかった。写しは実在し、作られた場所があり、欠けていない図がどこかにあるかもしれない。その方向だけは、彼の頭に残った。
男は立ち上がり際、こう言った。
「もし君が、古い書物や、図の入った紙切れを見つけることがあれば、私に売ってほしい。良い値を付けよう。情報だけでもいい。……それと、もう一つ」
彼の目が、森の深い側を向いた。
「黒紫の濃い土地の素材を、定期的に分けてほしい。量がまとまれば、もっと大きな商いになる」
トージャは、即答しなかった。森の恵みは、必要な分だけ取るのが一族の掟だった。値が付くからといって、根こそぎ採れば、森も、やがて砦も痩せる。
「考えておきます。……ただ、採る量には限りがあります。こちらの都合で」
「もちろんだ。無理にとは言わない」
男はあっさり引き下がった。だがその目には、諦めた色はなかった。
男が去った後、カルドが台を覗きに来た。金貨を見せると、彼は大げさに目を剥いた。
「すげえな、おい。斧を振るより稼ぐじゃないか」
「物を売っただけだよ。……でも、悪くない気分だ」
ナラも通りかかり、明後日に兵団と傭兵が合同で、交易路の先の様子見に出る話を教えてくれた。隊商の出発に備えた、最後の道の確認だという。彼女は見送りの役を買って出たらしく、話す声に力がこもっていた。
トージャは、その話を聞きながら、別の計算をしていた。岩棚の食料は、あと二日ほどで底をつく。隊商の滞在が続く中、彼は明日の夜、人の目の緩む頃に、補給を持って森へ入るつもりだった。稼いだ布と塩の一部は、既にそのための包みに分けてあった。
その夜、トージャは布袋の中の金貨を、掌に載せて眺めた。
初めて自分の力で稼いだ、外の世界の対価。重さは大したことがないのに、手応えは大きかった。交渉で得たもの。知識で得たもの。彼は今日、斧でも調合でもない力で、世界と渡り合ったのだ。
そして、欠けた円環、という言葉が頭から離れなかった。
外に散らばる写しは、どれも輪が閉じていない。老人の欠片の図は、閉じていた気がする。もしそうなら、それはなぜだ。写した旅の調合師は、何者だったのか。老人は若い頃、その男から何を聞いたのか。
確かめる術は、今の彼にはなかった。老人に問うこともできる。だが、老人は写しのことを、二度と口外するなという約束で見せたのだ。その核心を問うことは、約束の際を攻めることになる。
彼は金貨を袋に戻し、目を閉じた。
情報は、まだ手がかりと呼べるほど固まっていない。だが、闇の中に、細い糸が一本見えた。その糸の先を、いつか自分の手で辿る日が来る。彼はそう信じることにした。
窓の外では、隊商の滞在地の灯りが、封じの線の内側で静かに揺れていた。




