第六十七話 犬が急にニヤリと笑った
メアに何も告げずに、ギルドを飛び出した俺の右手には地図が握られていた。受付嬢のお姉さんにもらった地図で、村の地点が赤い丸で囲まれてある。
北門を潜り抜けた俺の左手には、革袋が握られていた。老婆がゴブリン退治の役にきっと立つだろうとくれた、村秘伝の『キィビィーダンゴォー』という兵糧丸めいた見た目のパワーアップアイテム的なもの。それが一つ入っていた。
目的地の村は、徒歩で二、三時間かかるらしいのだが、北門から出て、遠くに見える山影を目印にただまっすぐ進めば迷うことはないらしい……というのは老人の言だ。
速歩と駆け足を交互に切り替えながら、ひたすらまっすぐに進むこと、約二時間、鬱蒼とした森の縁の手前に俺は立っていた。
「この森を進めば……山の麓……。目的の村があるはずだ……」
肩で息をしつつ言ってから、呼吸を整えると俺は、決然と森を走る踏み分け道を踏みつけた。
森の中は静かで、時折鳥のさえずりやリスの鳴き声が聞こえてくる。
気持ちのいいハイキングコースといった印象だ。
とても近辺にゴブリンがいるような感じはしない。
「山の近くにしかゴブリンは出ないのかな? それとも夜行性なのか? ゴブリンは?」
そう思案したことを口に出しながら歩を進めると、出し抜けに頭上で何かがバサリと羽ばたいた。
ギョッとして仰ぎ見ると、今度は右手の木々の枝葉が揺れ動いた。
その方向を即座に見やると、今度は後ろ手の茂みが、ガサリと揺れた。
俺は直感した。囲まれた、と。そして、口をつぐんだまま、独白した。きっとゴブリンだ、話に聞いていた普通のゴブリン以外に翼を持ったコブリンもいるんだ、と。
絶望的な気分になりながらも、即座に地図を仕舞い込んで、代わりに剣を出現させると、強くグリップを握り込んだ。
そうして、思い切って口火を切った。
「隠れてないで出てこいよ!」
言うと、茂みが、またぞろ、ガサリと動いた。すると、ほどなくして、その茂みから一つの物影が踊り出してきた。
「なんだ⁉︎ お前……」と言って、一度言葉を切り、「犬……」と言葉を繋いだ。
目を見張る俺の前には、クリーム色の大型犬がいた。
なかば、反射的に撫でようとして、剣を仕舞い込んで、近寄りざま手を伸ばすと、瞬間犬は口を大きく開けて、鋭い牙を見せつけてきた。
すんでのところで、手を引っ込めると、数瞬前、俺の手があった位置で、ガチリと牙と牙とが噛み合わさる、ぞっとするような音がした。
それらの閉じ合わさった牙の生えた口を繁々見ると、犬はグルグルと威嚇音を発し、俺を睨めあげる。
「チィ! 野犬か?」
俺が舌打ちして、誰に訊くともなく問うと、誰かが言った。
「野犬? 馬鹿が」
突然耳を掠めた声に、俺は、「は?」と声を漏らす。
犬を尻目に、辺りをキョロキョロ見回すが、人影など見当たらない。
眉を寄せていると、またしても声がした。しかも、すぐ近くからだ。声のした方に視線を投げると、犬が怒ったように眉を吊りあげていた。
「しゃべったの……もしかしてお前?」
「だったらなんだってんだ? 犬がしゃべったらダメなのか? そういう決まりでもあんのか? 腹わた食い散らかすぞマヌケ!」
「い、いえ……すみませんでした」
「まあ、俺も犬の子だ。……謝るなら許す。次はないからなゆめゆめ忘れんなよ、うすのろ」
「……はい、ありがとうございます。気をつけます……」
なんて口の悪い犬だ。異世界の犬はしゃべるし、口が悪いのが、普通なのか?
ああ、早くお家に帰りたいよ。早く我が家に戻って、我が愛しの愛犬、太郎左衛門雲龍を愛でて、この穢れた心を浄化したい……。
…………いや、待って、なんで俺の愛犬の名前はそんな戦国武将とか業物みたいな仰々しいにもほどがある名前なんだっけ……?
どうして俺はそんな名前を犬につけたんだ……?
待てよ……母さんは犬が苦手なんだ……。小さい頃に野良犬に追いかけられたから……。
そうだ……俺は小さい頃、犬を拾ってきて、結局、飼えなくて、段ボールに戻して、次の日見に行ったらいなくて、それで拾われたのか……よかった、と安堵する反面、友だちを奪われたような気がして、自分がわからなくなって涙を流しながら家に引き返したんだ……。
「そうか……でも、なんで雲龍なんだったけ?」
俺が眦から二筋の涙を零しながらそう零すと、犬は、「何……泣いてんだ? 気持ち悪りぃ」と濡れそぼった鼻に皺を寄せて言った。
「いや、なんでもない……。なんかごめん……」
言って袖で涙を拭うと、泣き腫らした目を見て、犬が急にニヤリと笑った。
犬のその意味ありげな笑顔と犬が笑ったという事実にぞくりと背筋が震えた。
ややあって、顔を強張らせる俺に、犬は言った。
「お前、『キィビィーダンゴォー』持ってんな?」
「え?」
「いいから正直に言え、臭いでわかるぜ」
「え、あ、持ってるよ。ほら」
俺は言って、袋を掲げて見せた。
「おお、そうか、お前ら出てこい」
犬が言うと、茂みから、猿と雉がのろのろと姿を現した。
その猿と雉の纏う雰囲気に嫌なものを感じて、我知らず、『キィビィーダンゴォー』の入った袋を掻き抱き、おずおずと訊ねる。
「奪う……気なのか?」
と、犬はいかにも取り繕ったような、にこやかな笑みを作って、「いやいや、まさか、そんな犬聞きの悪りぃこと言うなよ、兄弟、お前ゴブリン退治に来た口だろ?」と口に出した。
「なんで、それを?」と怪訝に思って訊くと、犬は、「『キィビィーダンゴォー』を持ってるってことはつまりそういうことだろ?」と反問してきた。
釈然としないまま、「うん……まあ、そういうもんか……?」と眉間に皺を作って応えると、犬は「そういうもんさ。『キィビィーダンゴォー』を持ってるやつらは往々にしてゴブリン退治をするって相場が決まってんだ」と朗々たる声で言った。
「なるほどね……」と胸に何か引っかかりめいたものを感じつつ、応えると、「てかお前、ゴブリンの居場所知ってんの?」とそう出し抜けに犬が質してきた。
「うん、一応地図は……」と言ってから、持ってるよ、と言おうとした矢先、遮るように犬が大音声で言った。
「地図⁉︎ 地図なんてまどろっこしい。俺らが案内してやるよ!」
「案内?」
「ああ、俺らもゴブリンどもにはほとほと困り果ててんだ。ぜひとも協力するぜ、なあ、お前たち?」
犬が言って、猿と雉に目配せする。
猿と雉は一言もしゃべらずただ含み笑いを漏らしながら、コクコクと首肯した。
怪しいとは思ったものの、せっかくの好意を無下にするのもどうかと思い、俺は「じゃあ、案内してもらってもいい?」とぎこちなく口にした。
瞬間、舌なめずりした犬は、莞爾と歯に噛むと、「そうこなくっちゃ兄弟、まかせな」と自信満々に口にした。
そうして、俺と三匹は森の奥へと足を運んだ。




