シーン5:人間の王国
今日も、いつも通りの朝だった。
魔王城から遠く離れた、人間たちの王国。
城壁に囲まれた王都の掲示板には、魔物討伐の依頼が貼られていた。
『北方の村に魔族出現!』
『街道の魔物討伐、冒険者募集中!』
『魔王軍の脅威に備えよ!』
誰がどう見ても、魔族の脅威に苦しむ人間の王国である。
王城の最上階。豪華な執務室で、国王が報告書を見つめていた。
王冠、豪奢な衣装、威厳ある佇まい。顔色だけが、少々悪い。
『魔族侵攻対応状況:予定通り』
『冒険者ギルド稼働状況:良好』
『勇者受入施設:整備完了』
『異世界転移者数:0』
「……ゼロ」
先週もゼロ。先月もゼロ。
国王は報告書を閉じ、胃を押さえた。
「……宰相を呼べ」
ほどなくして、王城では臨時の対策委員会が開かれた。
宰相、宮廷魔術師長、騎士団長、財務大臣。国王の前に、重苦しい表情の面々が並ぶ。
「異世界転移者受入対策臨時委員会を開く。まず召喚の間は?」
「魔法陣、魔力供給、各種術式、すべて正常に稼働しております」
「転移の兆候は?」
「ございません」
「……そうか。魔族の侵攻状況は?」
「計画通りです。国境付近での小規模侵攻、街道への魔物配置、討伐依頼、いずれも予定通り進行しております」
「民衆の反応は?」
「魔王軍に対する危機感は、おおむね良好かと」
「……では、なぜ来ない?」
沈黙。
宰相が慎重に口を開く。
「陛下。我が国は、魔族の脅威に苦しむ人間の王国として、非常に高い完成度を維持しております。契約上の基準も満たしております。それでも転移者が来ないのは……我が国だけの問題ではないのでは」
「つまり?」
「委託元の問題もあるのではないかと」
国王の眉がぴくりと動いた。
「……お前、それを私に言わせるつもりか? 魔王様に『そちらの責任です』と?」
「そこまでは申し上げておりません」
「言っているではないか!」
国王は胃を押さえた。
財務大臣がおずおずと手を挙げる。
「受入施設の維持費、ギルドへの補助金、魔族侵攻に伴う復旧費用。相応の支出が続いております。本番が始まれば回収できるという事業計画ですが……」
「わかっておる」
「その本番が、いつになるのか……」
「わかっておる!」
騎士団長が提案した。
「魔族の侵攻を、もう少し激しくしては?」
「転移の発生条件が不明な以上、効果は保証できません。そもそも侵攻の激化は、転移者到着後の予定です」
宮廷魔術師長が首を振る。
「……必要以上に民に負担をかけるわけにもいかん」
国王は深いため息をついた。
「委託元への問い合わせは?」
「すでに行っております。『準備は万全。転移者の到着を待つ』との回答です」
「前回と同じではないか」
「はい」
再び沈黙。
「……よし。現状の運営体制を維持する。引き続き準備を怠るな。以上、解散!」
全員が一礼し、退出した。
残された国王は議事録を見つめた。
『結論:現状維持』
「……臨時に集まった意味が、あったのか?」
胃がきりきりと痛んだ。
その王城の、地下深く。
封鎖された召喚の間では、一人の管理者が黙々と点検を続けていた。
石床の魔法陣を拭き、術式を確認し、魔力供給を確かめる。
傷なし。異常なし。転移の兆候なし。
管理者は、部屋の片隅に設けられた管理端末に手をかざした。
半透明の画面が浮かび上がる。
世界各地の魔力供給状況を示す、無数の数字と光の線。
この世界では、人も、動物も、草木も、生命活動を通じて魔力を生み出している。
そのうち、生命活動に支障のないわずかな量が、世界各地の魔力収集施設を通じて集められ、巨大な供給網へと送り込まれていた。
集められた魔力は、世界を維持するために使われる。
管理者は、画面を切り替えた。
『世界魔力収支:黒字』
『基礎生活給付:全地域支給完了』
『公共施設・生活基盤維持:正常』
『農業支援・環境管理:正常』
『復活機構:正常』
『魔王城設備:正常』
どの項目にも、異常を示す表示はなかった。
さらに画面を送る。
『東部穀倉地帯:明朝の降雨調整、予約完了』
『南部農業地域:日照時間調整、実施済』
『北部山岳地帯:積雪量調整、正常』
人々の生活を保障するための給付。
農作物の安定供給を支える天候調整。
都市の水道や照明、交通網の維持。
それらの設備を管理する人々への報酬も、各地の商店や工房での取引も、日々の経済活動の中で循環している。
誰かが特別に意識することもなく、世界は今日も動き続けていた。
管理者は、最後の画面を開いた。
『異世界転移者受入施設:待機中』
『召喚魔法陣:正常』
『供給魔力:十分』
『転移反応:なし』
召喚に必要な魔力は、すでに十分すぎるほど蓄えられている。
いつ転移者が現れても、直ちに受け入れられる状態だった。
管理者は数値を確認し、記録に印をつけた。
異常なし。
すべて正常。
今日の点検記録を、直属の上司である国王に送ると、すぐに承認された。
続いて、管理者の雇用主である魔王に送る。
こちらは、ほんの一瞬だけ間を置いて承認された。
管理者は道具を片付け、静かに扉を閉めた。
今日も、誰も来なかった。




