第9話 いつか戻る日のために
翌朝、僕はいつもの時間に家を出て、いつもの歩幅で通学路を歩いていた。
そういえば、いつの間にかセミの声が聞こえなくなっている。
聞くだけで体温が上がるようで嫌だった、頭の奥へこびりついていた蝉の大合唱が嘘のように止み、連日猛暑が続いてうだっていたはずのアスファルトの熱も控えめになって来たし、日陰に入ればどこか乾いた冷たさを孕んだ風が吹き抜けていく。
僕らが毎日変わり映えしない日々を過ごしていても、季節だけは勝手に変わり始めているらしい。
「おはよー、御影くん! 今日もいい朝だねー!」
通学路の曲がり角を過ぎたところで、視界の端からすーっとじりじりと近づいて来た小鳥遊先輩が、朝の湿り気を含んだ空気ごと弾けさせるような明るい声をかけてくる。
「……おはようございます。今日も朝からテンション高いですね、先輩」
僕は歩く速度を変えることなく、いつもの冷めた感じで短く返事を返した。
先輩は僕の半歩隣を、影すら落とさずに楽しげについてくる。その横顔を見ながら、僕は前からずっと気になっていたごく素朴な疑問を口にしてみることにした。
「前から少し気になっていたんですけど……先輩って、なんで毎日わざわざ朝から学校に来ているんですか?」
「え? なんでって、そりゃ学校だからでしょ?」
「今の先輩って、出席を取られるわけでもない……というか遅刻扱いにならないから、わざわざ毎朝早起きして登校するメリットって何かあるのかなと思いまして」
「僕だったらもっとゆっくり起きて、ダラダラを堪能してから学校来てると思うんですよね」
先輩は歩幅を合わせて小さく跳ねるように歩きながら、どこか照れくさそうにへへっと笑った。
「うーん……もし、急に元に戻れた時のため、かな」
「元に戻れた時……ですか」
「そう。ある日突然みんなに私が見えるようになったとしてさ、ずっと学校休んでたらノートも授業も遅れちゃって、普通の学校生活に戻れなくなっちゃうでしょ? それにね……」
先輩は歩みを止めずに、自分の半透明な手元を少しだけ愛おしそうにじっと見つめ、それから前方の校舎を見据えて言葉を続けた。
「こうなる前の私ってさ、将来やりたいこととか夢とか……そういうの全っ然考えてなかったんだよね」
「友達がみんな行くからなんとなく大学に行くのかなーとか、楽しそうだからあの学部かなーとか……そんな適当な理由で決めるつもりだったんだよね」
どこか自嘲気味に肩をすくめてみせる姿は、どこにでもいる普通の高校生そのものだった。
「でも、誰からも見られなくなってからさ、すごく真面目に授業を聞くようになったんだ。自分でもビックリだよ、ほんと……」
「あ、昔から国語とか英語はまあまあ好きだったんだけど、今は昔大嫌いだった数学とか理科までちょっと面白く感じちゃってさ。テストは受けられないからプリントを頭の中で解くだけの自己採点だけど……昔の私より、キャパも増えて絶対に賢くなってる自信あるよ!」
えっへん、と誇らしげに胸を張る先輩の姿は、高校生らしくてどこか微笑ましくもあり、同時に言葉にできない切なさが胸を突いた。
「……なるほど。じゃあついでに聞きますけど、体育の時とかはどうしてるんですか? ダンスはまだしも、球技で走り回ってもパス来ないし……ヒマじゃないですか?」
「体育? 体育の時間はね、みんなのこと全力で応援してるよ!」
「応援って……それ、楽しいんですか?」
「楽しいよ! コートの端っこから『がんばれー!』って心の中で大声で叫んでるの。自分の友達がいるチームが勝つとさ、私までめちゃくちゃ嬉しくなるんだよね。まぁ、友達が居なそうな御影くんには理解できないかもだけど」
屈託のない笑顔でそう答える先輩を見つめながら、僕の脳裏には昨日の夕方、あの文房具店で起きた出来味が鮮烈に蘇っていた。
水野さん──。
彼女が僕のすぐ近くにいた時の、ワックス床の上にくっきりと残ったあの濃い影。
そして、触れられるはずのない陳列棚の風鈴クリップに先輩の指先が触れ、静まり返った店内に澄んだ金属音を響かせたあの瞬間。
水野さんと先輩は関わりのないはずなのに、相反するような異常がある。
ただの奇妙な偶然なんかじゃない。何らかの法則や命題が、あの二人の間で確かに働いているのだ。少なくとも、僕はそう思っている。
(……でも、その事を今の先輩に言ったら、変な期待を持たせてしまうだろうな)
二人の異常が繋がっていると確信したところで、それがそのまま先輩を元に戻す直接の解決策になるという保証はどこにもない。
確証のない希望を口にして、余計な期待を抱かせるわけにはいかなかった。
「……御影くん? どうしたの、急に難しそうな顔してさ。眉間にシワ寄ってるよ?」
黙り込んだ僕の顔を覗き込むように、先輩が至近距離で顔を近づけてくる。
息がかかりそうなほどの距離感だが、当然ながら風の感触すら伝わってこない。
「……いえ、別に何でもありません」
「ふーん? ま、いいけどさ。御影くんもさ、今のうちにやりたい事とか将来の夢とか、目標を持っておいた方がいいよ? いざって時に、周りから認識されなくなって焦っても遅いんだからね!」
先輩風を吹かすように人差し指をピンと立てて威張ってみせる姿に、僕は小さくため息を吐き出した。
「……なんか、先輩のくせに、先輩風吹かして……生意気な感じがしますね」
「御影くんて、ちょいちょい私のこと下に見てない!? これでも一応、人生の先輩なんだからね!」
*
ピピッ──と、グラウンドいっぱいに体育教師の甲高い笛の音が響き渡る。
男子の体育の時間は、残暑が残る芝生の上でのサッカーのミニゲームだった。泥臭くボールを追いかけながら、僕は額の汗を拭い、一瞬だけ走る足を緩めた。
ふと、今朝の通学路で先輩が言っていた言葉が頭をよぎる。
体育の時間、みんなのことを応援していると言っていた。
もし仮に、先輩の存在が周りの生徒たちにも普通に見えていて、女子の体操服姿でビブスを抱えながら「御影くんがんばれー!」なんてコートの端から手を振っていたとしたら──。
(……活躍しないとうるさそうだし、活躍したらしたで……もっと、うるさくなりそうだな)
あまりにも生々しくそんな光景を想像してしまい、僕は急激に恥ずかしくなって小さく首を振った。
余計なことを考えている場合じゃない。意識を目の前のボールへ戻し、誰にも聞こえない先輩の代わりのように、パスを要求する声を出した。
汗だくになりながら体育を終え、水道で顔を軽く洗い流し、教室へ戻るとすでに終わりのホームルーム(SHR)の時間になっていた。
教壇の上では担任が気怠そうに連絡事項を読み上げている。
その退屈な声が右から左へ通り抜けていく中、ズボンのポケットの中でスマホがブルッと短く震えた。
授業中やSHR中の操作は禁止されているが、胸のザワつきを抑えきれず、僕は机の陰でそっと画面を開いた。
画面に表示されていたのは、先輩からの緊急メールだった。
通知に並ぶ切迫した文面を目にした瞬間、僕の体からスッと血の気が引いた。
明日から実力テストだから、放課後はみな足早に帰り、部活も終わるまでは無いからだ。
控えめに言って、詰んだのでは──。
この広い学校の中で、先輩という存在を認識し助けに向かえる人間は、僕しかいない。
しかし、この問題は僕一人では解決でき無い。いや、解決は出来るかもしれないが間違いなく僕は変──。
「以上。それじゃあ、起立!」
終礼のチャイムが校舎に鳴り響き、ガタガタと椅子を引く音とともに、生徒たちが放課後の開放感に満ちた声をあげながら一斉に教室を出ていく。
喧騒が遠ざかり、急速に取り残されていく教室の中で、僕は冷たくなった手で強く拳を握りしめた。
選択肢を探してる時間は無い。
だが、自分一人じゃどうにもならない。しかし、頼るべき相手は思いつく限り一人しかいなかった。
僕は意を決して息を呑むと、鞄に教科書を仕舞おうとしていた隣の席の人物に向かって、逃がさないようにガタリと向き直った。
「水野さん」
機械的に帰る準備を進めていた彼女の手が、ぴたりと止まる。
水野さんは一切の感情を削ぎ落とした静かな瞳を、ゆっくりとこちらへ向けた。
「……なんでしょうか、御影くん」
僕は逃げ出したい衝動を必死に抑え込み、まっすぐに彼女の目を見つめて告げた。
「水野さん。僕と一緒に……──女子更衣室に行って欲しい」
水野さんはすべての動作を完全に停止させた。
微動だにしない無表情な双眸から向けられたのは、形容し難い視線だった。




