第10話 見えないものを信じる
「この人は、一体何を言っているんだろう」
終礼が終わったことを告げるチャイムの余韻が残る教室で、私は隣の席の男子──御影くんを見つめたまま、頭の中でその不条理な言葉を反芻していた。
御影彼方。
席が隣同士になって数ヶ月が経つが、彼はいつも物静かで、クラスの輪から少し離れたところで周囲を観察しているような男子だった。
無意味に女子に話しかけるタイプでもなければ、突拍子もない冗談で目立とうとするタイプでもない。普段の彼なら、私に対してこんな無茶な頼み方をするはずがなかった。
教室には、まだ部活の準備をする生徒や雑談に花を咲かせるクラスメイトが何人も残っている。
周囲の目があるこの状況で、男子が女子生徒に向かって声を張り上げ、あろうことか「女子更衣室に行きたい」などと口にする。
断ってその場を去れば、それで済む話だった。
だが──目の前にいる彼の様子が、それを許さなかった。
制服の胸元がかすかに上下している。
額にはうっすらと嫌な汗が浮かんでおり、彼は本気で、そしてなりふり構っていられないほど焦っていた。
普段の落ち着いた彼を知っているからこそ、その焦りの異様さが際立っている。
何が彼をそこまで追い詰めているのかは分からないが、下心や嫌がらせといった気配は微塵も感じられなかった。
「……御影くん。申し訳ありませんが、全く説明になっていません。なぜ私があなたと女子更衣室に行かなければならないのですか」
「理由を言ってもいいんだけど、多分その……より一層、変な疑惑が深まりそうな気が……助けてくれるなら、今後も水野さんの『注意分散』に協力するから、お願いします!」
思いがけない単語が彼の口から飛び出し、私はわずかに思考を止めた。
「……それは、かなり魅力的ですね」
「水野さんが周りから目立ちたくない時は、いつでも僕を利用してください」
差し出された提案の内容を吟味する。
今まで、私がいると周囲の視線が不自然に集まることに気づいた人間は何人かいた。
だがその多くは、気味悪がって離れていくか、あるいは好奇心から面白半分に利用しようとしてくるかのどちらかだった。
私の不利益になるような「見返り」を要求されるのではないかと身構えたが、彼の言葉にはそれがなかった。
御影くんの目はまっすぐだった。
彼は私をただの都合のいい駒として使おうとしているのではなく、私自身の問題を助けるための「相互協力」として提示してきているのだろうか。
私にとって、この「望んでもいないのに人の視線を集めてしまう体質」と、それを避けるための立ち回りを正しく理解し、自発的にフォローを買って出てくれる人間の存在は極めて珍しい。
提示された条件には、乗るだけの価値が十分に存在した。
しかし──と、私はもう一度思考を巡らせる。
女子更衣室。
鍵を開ける。
理由は言えない。
どれも不審だ。
こんなところを御影くんと一緒に歩けば、ただでさえ集まりやすい視線がさらに集まる。目立ちたくない私にとっては、かなり避けたい状況だった。
「念のために確認しますが。……それは犯罪行為、あるいは不適切な行為の類いではありませんか?」
「違います! 人助け……なんだ。その人、ひとりじゃどうにも出来ないみたいで」
食い気味に、必死な口調で否定する彼の反応を見て、私はそれ以上の追及を打ち切った。
これ以上問いただしても、今の彼から合理的な説明を引き出すのは不可能だと判断したからだ。
「……分かりました。協力しましょう」
「本当に!? 良かったぁ! ありがとう、水野さん」
「ええ。ただし、私は具体的に何をすればいいのですか?」
「女子更衣室は施錠されてるらしいから……先生に言って鍵を開けられれば大丈夫だと思う」
私は鞄を持って静かに立ち上がった。
*
「先生、ありがとうございます。あの、今日の体育の時間に、更衣室に忘れ物をしてしまって……」
職員室前で、私は体育科の教員に向かって申し訳なさそうな笑みを浮かべてみせた。
教員は「なんだ水野、気をつけてくれよな。明日からテスト期間だから、返したらすぐ帰るんだぞ」と言いながら、キーボックスから鍵を貸し出してくれた。
鍵を手に取り、職員室を離れる。
廊下を歩く私の数歩後ろを、御影くんが足音を殺した不自然な足取りでついてきていた。あまりにも挙動不審だ。この選択は、正しかったのだろうか。
曲がり角を曲がったところで、向こうから見回りの教員の足音が聞こえてきた。
御影くんが肩を揺らし、すがりつくような目で私に切迫した目配せを送ってくる。
私がほんの少し歩幅を変えただけで、教員の視線が自然とこちらへ向いた。
「こんにちは、先生」
「おう、水野。放課後まで残って勉強か?」
教員が私と挨拶を交わし、通り過ぎていく。
その隙に、御影くんは物陰へとすばやく身を隠していた。なにか良いように利用されている気がしてならない。
そのまま無人の体育館脇へと向かい、女子更衣室の前に到着した。
カギ穴に鍵を差し込み、ガチャリと音を立てて解錠する。扉を数センチだけ押し開けて隙間を作った。
「入ったら、中で何か探すふりをしてください」
物陰から御影くんが、身振り手振りで必死のジェスチャーを送ってくる。
言われた通りに中へ足を踏み入れ、ロッカーの周りを適当に見渡すフリをした。
静まり返った更衣室。
エアコンの室外機がかすかに唸る音だけが響いている。目視する限り、室内には私以外誰もいない。
だが──その途中だった。
背後で待機していた御影くんが、不意に一瞬だけ横に大きく体を避けるような動きを見せた。
まるで、私のすぐ横を『何か』が走り抜けていったかのように。
肌を撫でた微かな空気の揺れに一瞬だけ視線を向けたが、気のせいかもしれない。
私はそれ以上探らず、ロッカーから予備のハンカチを取り出すと、見つかったふりをして更衣室を出た。
職員室へ戻り、教員にお礼を言って鍵を返却した。
校門を出て静かな通学路へと入ったところで、私は足を止め、後ろをついてくる御影くんに向き直った。
「さて、御影くん。これはどういうことか、そろそろ説明してもらえますか」
「……もちろん。帰り道で歩きながら話すよ」
御影くんは深く息を吐き出すと、校門のすぐ脇にある自動販売機へと歩み寄った。
電子マネーの決済音が響き、金属音を立てて缶がふたつ落ちてくる。彼はそのうちのひとつを拾い上げ、私に向かって差し出してきた。
『果汁100% 濃厚つぶつぶみかんジュース』。
私が毎朝、登校時に自販機で買っている飲み物だった。
私は、周囲から妙に目を向けられることが多い。
教室に入れば視線が集まり、廊下を歩けばすれ違う生徒までこちらを見る。
何か特別なことをしているわけではない。
それでも、なぜか人の意識が私に向いてしまう。
ほんの少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じながら、私はそれを受け取った。
「……ありがとうございます」
「こちらこそ、さっきは……本当に助かったよ。ありがとう」
二人が並んで歩き出す。
だが、御影くんはすぐには言葉を発しなかった。
沈黙が流れる。
カチャリ、と缶のプルタブを開ける音が響く。吹き抜ける冷たさを帯びた秋風が、アスファルトの上を滑っていく。
御影くんは何度か口を開けかけ、迷うように視線を泳がせ、手に持ったジュースをひと口飲んだ。
私は急かすことなく、彼が自らの意思で言葉を紡ぎ出すのをじっと待った。
やがて、彼は決意を固めたように前を見据え、ゆっくりと口を開いた。
「実は、この学校には……誰からも見えず、声も届かない人がいるんだ」
「頭おかしいと思われるかも知れないけど……その人、ひとつ上の女子の先輩なんだけど、僕だけには見えててさ。その先輩が、さっきまで更衣室に閉じ込められてたんだ」
だから、鍵を開ける必要があったのだと。
御影くんは私に正気を疑われるのを覚悟したような、固く強張った表情でこちらの反応を伺っていた。
「あっ、あとそのジュースも……助けて貰ったお礼だと伝えてって、先輩から」
誰にも気付かれない、空気のような透明な人間。
誰からも見えず、声も届かず、存在そのものが認識されない先輩。
彼の話を聞きながら、私は頭の中で情報を整理していた。
周囲から存在を認識されない状態。私とその先輩は、一見すると正反対だ。
彼女は誰からも認識されない。
私は、望んでもいないのに誰からも認識されすぎる。
なのに、御影くんだけは、そのどちらにも振り回されていない。
(……そして、私のことも「特別な存在」としてではなく、普通の一人の同級生として見れている)
なぜ彼だけに、それが可能なのかは分からない。
けれど、少なくとも彼が言っていることがただの妄想ではないことだけは、私にはよく分かった。
「なるほど、そうだったんですね。納得しました」
「……え? 納得するの? 見えないのに!?」
あっさりと頷いた私を見て、御影くんは目を丸くした。
「自分で言っといてアレだけど……疑わないの? 幽霊とか怪奇現象、オカルトだよ? 物分かり良過ぎて怖いんだけど」
動揺を隠せない御影くんを見つめながら、私は手に持った冷たい缶みかんジュースを両手で包み込んだ。
自分の異常について、過去に一度だけ、人に話そうとしたことがあった。
だがその結果帰ってきたのは、嘲笑と「変な冗談はやめろ」という冷ややかな言葉だけだった。
それ以来、私は自分の状態について誰にも話さなくなった。
だが、目の前にいるこの男子なら。
誰にも見えない先輩の存在を受け止め、助けようとした彼なら──。
「疑いませんよ」
「なんか……すごいね、水野さん」
私は静かな通学路の前方を見つめたまま、静かに、しかしはっきりと告げた。
「なぜなら、私自身が── 何もしなくても、周囲の人間は私に気づいてしまう『相関的認知歪曲症候群』だからです」




