第8話 なぜか、みんな彼女を見る
「……御影くん。放課後、付き合ってください」
終礼のチャイムが校舎の隅々にまで伸びきって消えた直後のことだ。
鞄のファスナーを静かに引き閉めていた隣の席の水野さんが、教科書を整える手すら止めずに僕へと声をかけてきた。
「……お断りします」
余計な余白を残さずに断りを放つと、彼女は感情の起伏を一切感じさせない真っ直ぐな瞳をゆっくりとこちらへ向けてきた。
「まだ、行き先を告げていませんよ」
「どこであってもお断りします。僕にはこの後、大事な放課後の予定が入っていますから」
「小鳥遊先輩と謎ゼリージュースを食す旅するんだよねー!」
視界の端からすーっと滑り込んできた先輩が、僕の鼻先数センチのところで人差し指をピンと突き立てる。
当然のことながら、水野さんの視線は僕の顔面に固定されたままで、すぐ隣で無邪気に声を張り上げる先輩の存在を微塵も感知していない。
「水野さん、僕は……」
「文房具の買い出しです」
こちらの言い訳を途中で断ち切るように、彼女は機械的とも言える平坦な声調で言葉を重ねてきた。
「ペンを一本購入することすら、私にとっては苦痛以外の何物でもありません」
「……どういう意味ですか」
「昨日、私自身が文具店で吟味して購入したはずのシャープペンシルを使用していたところ、面識のない他クラスの生徒から『それ、先週私が貸したやつだよね。そろそろ返して』と詰め寄られまして」
「……それと、僕が一緒に買い物に付き合うのと、なんの関係が──」
「一昨日も同様です。自分で選んだ新品のノートを机の上に広げていただけで、『それ、私が失くしたやつじゃない?』と身に覚えのない言いがかりをつけられました」
「私が外界の物質に接触して所有権を確定させようとすると、世界が勝手に私と誰かとの間に不条理な関係性を捏造し始めるのです。……私はただ、自分で購入したペンで文字を書きたいだけなのですが」
最後までひとの話は聞いて欲しい。
なぜ僕の周りには変な人ばかりが集まるのか。
そして、水野さんの語り口とは裏腹に、彼女が提示してきた事象はあまりにも気味が悪かったので、できれば関わりたく無い。
「ですが、御影くんが私の半径数メートル以内に存在している場合、その世界の自動補完機能が過剰に作動しません」
「店員から過剰な常連扱いを受けることも、自分の所持品が他人の記憶の引き出しに勝手に組み込まれることもなくなる。……つまり、正常な買い物が成立するのです」
「……人をノイズキャンセラーか何かのように扱うのはやめてください」
「あと、ひとの話はちゃんと最後まで──」
「利用しているのは客観的な事実です。それに、現在の観測データの中で御影くんを側に置くことが最も効率的だと証明されていますので」
「……僕の効率は、聞かなくていいんですかね」
「御影くんは今、断るための口実を脳内で捏ね繰り回している顔をしています。早く決断してください。放課後の時間は有限です」
水野さんは学生鞄を片手で軽々と持ち上げると、こちらの承諾の返事すら待たずに教室の引き戸に向かって足を進め始めた。その背中には迷いや躊躇といった感情が一切見受けられない。
「……はぁ」
人助けを盾に、有無を言わさず精神力を削り取られるこの感じ。
ため息を漏らす僕の真横で、先輩が面白がるように顔を覗き込んできた。
「行ってあげなよー、御影くん。あの子、買い物すらまともにできない重度のアトラクション体質みたいだしさ」
「……先輩、なんでそんな楽しそうなんですか」
「別に楽しんでるわけじゃないってば」
「たださ、あの子が御影くんの真横に張り付いてると、なんでか分からないけど、私の足元に綺麗に影が残るでしょ?」
「私が元に戻るヒントがありそうじゃない? それにこの間、御影くんが言ったんだよ。『元に戻る為に協力する』って」
僕にはどちらも断る選択肢が無いらしい。
先輩が自慢げに指さした足元を見下ろすと、確かに西日が差し込む教室のワックス床の上に、昨日の夕方と同じような薄い輪郭の影が形作られていた。
水野さんが教室のドアノブに手をかけた瞬間、その影の色彩がわずかに濃さを増したような気さえする。
「……分かりましたよ。行けばいいんでしょ、行けば」
僕は乱暴に学生鞄のストラップを掴むと、振り返らず廊下へ出ていく水野さんの後ろ姿を追って教室を後にした。
*
駅前に位置する巨大な文房具店の自動ドアが、軽い電子音とともに左右に軽快よく開く。
店内へ一歩足を踏み入れた途端、レジのカウンター奥にいた男性店員が弾かれたように顔を上げ、こちらへ視線を向けた。
「いらっしゃいませ! あ、お客様。注文されてた例の限定カラーのペン、ちゃんと裏に取り置いてありますよ!」
「……初対面です。どなたかと、お間違えでは」
水野さんは顔色ひとつ変えずにその呼びかけを冷ややかに切り捨てると、僕の背中の死角へとなめらかな動作で滑り込んできた。
「え? あ、あれ……? 大変失礼しました、こちらの見間違いでしたでしょうか……?」
僕が水野さんを覆い隠すようにフロントへ立ち、店員と真っ直ぐ視線を交わすと、店員は狐につつまれるような表情を浮かべながら、首を傾げてレジの奥へと引き下がっていった。
「……御影くん、見事な遮蔽性能です」
背後から、水野さんの感情を排した低い呟きが頭頂部に届く。
「見事でも何でもありませんよ。僕が代わりに、見知らぬ店員から変な目で見られるだけです」
「ですが、正常な売買契約の工程へ移行できています。極めて画期的です」
彼女はもしかしたら、先輩より話が通じないのかもしれない。
水野さんは僕の背後からすっと離れると、目的のペンが陳列されている整然とした棚の列へと歩みを進めた。
当然、僕も一定の距離を保ちながら彼女の後に続く。
そして、その二人を追うように、この世界からハブられつつある先輩が、店内を物珍しそうに徘徊していた。
「へえ、最近の文房具ってデザインがすごく凝ってるんだねぇ。あ、見て見て御影くん、この風鈴の形をしたペーパークリップとかめちゃくちゃかわいくない?」
先輩が楽しげに声を上げながら、陳列棚の金属フックに吊り下げられた小型の風鈴型クリップへと手を伸ばす。
本来であれば、先輩の身体は自分の持ち物や一時的に消費するような食べ物で無い限り、その細い腕と手からすり抜けてしまうはずだった。触れることすら叶わず、ただ空気のように掻くだけのはずだったのに。
──チリン、と澄んだ金属の打撃音が、静まり返った店内に小さく響き渡った。
僕も、そして伸ばした自分の手元を見つめていた先輩も、まったく予想していなかった事が起きた。同時に呼吸を止めて硬直してしまうほど。
陳列フックの先端に掛かった風鈴型のクリップが、光を弾きながら小さな振り子のように揺れている。
「……え? 私が触れたの?」
先輩が信じられないといった様子で、自分の半透明な指先をまじまじと見つめ返していた。
もう一度、恐る恐る伸ばされた指先が冷たい金属の表面に触れると、チリ……と今度は先ほどよりもはっきりとした澄んだ音が空間を揺らし、クリップがフックの金属棒の上を滑るように横へ移動した。
「……触れた。御影くん! 私の指に、ちゃんと物に触れてる感覚がある……っ!」
今まで見たことが無いくらい、先輩は目を見開くと、信じられないものを見たという顔でこちらを振り返ってきた。
水野さんは、ただ僕のすぐ隣に佇んでいるだけで、それ以上の特別な仕草など何もしていない。
なのに、今までどんなに必死に試みてもこの世界の全てに素通りされてきた先輩の指先が、確かに金属の質量を捉え、物質を動かしていた。
何かが変わった? でも、何が変わったというのか。
それがどのような原理や法則によって引き起こされている現象なのか、僕の持つ知識ではまだ確かな答えを導き出すことができずにいた。
「……御影くん」
唐突に、水野さんがクルリとこちらへ向き直った。
「今度は何から遮ればいいんですか」
「……何か、耳の奥の空間がチカチカと不快に揺らぎます」
水野さんは文庫本を掴むような手つきで、自分の耳の後ろあたりを不思議そうに指先でさすりながら眉をひそめた。
「金属同士が微細に擦れ合うような、妙な振動音が鼓膜に届いた気がしました。空調設備の発するノイズでしょうか」
「……僕には何も聞こえなかったけど。ただの気のせいじゃないですか」
僕が事実を隠すようにそう短く答えると、先輩は揺れが収まりかけたクリップからゆっくりと手を離し、どこか恐れるような手つきで自分の両手を見つめ直していた。
「……なんかさ」
先輩が、噛み殺すような低い声でぽつりと漏らした。
「あの子……叶芽ちゃんだっけ? が近くにいると、私がこの世界? 場所? にちゃんと引き戻されてるような」
「……なんか、上手く言えないんだけどさ。なんか感じる気がするんだよね」
言葉の途中で一度思考を打ち切るように間を置くと、先輩もどこか理解できない、複雑な感情が混じった瞳で水野さんの無表情な背中を見つめた。
「……なんか、すごく……すごい感じ」
「さっきから、なんかとすごいしか言ってませんよ」
「だって、こんな感覚を伝えようがないんだもん」
確かに。先輩の置かれてる状況なんて、想像は出来るけど実際にどんな気持ちなのかは、なってみないと分からない。
先輩はそれ以上何も語ろうとはせず、少しだけ投げやりな足取りで僕の数歩前を歩き始めた。
水野さんは余計なトラブルに巻き込まれることもなく無事に目当てのペンを会計し、店を出ると同時に、またクルリと振り返って僕を見上げた。
鞄の外ポケットから取り出された冷えた缶コーヒーが、寸分の狂いもなく僕の胸元へと突き出される。
「……なんですか、これは」
「避難所の設備利用料および警備費用です」
「……ありがたく受け取りますけど、次からは可能な限り、自分で買い物を済ませて貰えると助かります」
「お断りします。単独行動はリスクが高く、著しく効率を低下させますので」
やはり僕には、選択肢が与えられないらしい。
水野さんはそう言い捨てると、缶コーヒーを僕の掌へ強引に押し付け、微かに満足そうな気配を漂わせながら駅へ向かう人波の中へと歩き出した。
「はぁ……」
僕は諦めと共に大きな息を吐き出しながら、少し振ってプルタブを引き抜いた。
水野さんは、自分が世界に与えている歪みの本当の意味も知らないまま、僕の少し前を迷いなく歩いている。
そのすぐ隣には、消えてしまいそうだった先輩の影が、以前よりはっきりと形を保って残っていた。
水野さんと一緒にいる間だけ、やはり先輩の影は消えにくくなっていた──。




