第7話 おはよっ、世界で一人だけの君
「ただいまー!」
玄関のドアを閉め、靴を揃えて廊下に上がる。
リビングのドアを開けると、夕飯の準備をする包丁の音がトントンと心地よく響いていた。
「今日ね、御影くんと学校の帰りにいろいろ実験したんだよね」
「御影くんってば、普段は冷めてるくせに、変なクマのキーホルダー押しつけられて困った顔しちゃってさ」
キッチンで鍋をかき混ぜているお母さんの背中に向かって話しかける。
けれど、お母さんはチラリと振り返りもせず、「恒一さん、先にお風呂先にする?」とリビングのソファで新聞を読んでいるお父さんに声をかけた。
「あ、お父さんおかえり。今日は早かったね」
お父さんの脇を通り過ぎ、ふとリビングの棚に目が留まる。
そこに飾られているのは、去年の家族旅行の写真だ。お父さん、お母さん、ことね。三人が並んで楽しそうに笑っている。
「……あれ?」
思わず足が止まる。私はこの写真で、お母さんとことねの間でピースしていたはずだった。
けれど、そこには不自然に背景の海だけが映り込んでいる。私の姿だけが、最初から存在しなかったみたいに綺麗に消されていた。
「ことね、ご飯並べるの手伝ってー」
「はーい」
お母さんに呼ばれて、ことねが箸立てからお箸を取り出す。
ことねは無意識の動作でカチャン、カチャンとテーブルに箸を置いていく。一膳、二膳、三膳――そして、四膳目。
「ことね、一人分多いよ? お箸」
「……あれ?」
お母さんに言われて、ことねはポカンと手元の箸を見つめた。
「なんでだろ……四人分取っちゃった」
「もう、寝ぼけてるの?」
お母さんがくすくす笑いながら、余分な一膳を下げていく。
ことねは不思議そうに首を傾げながら、誰も座っていない私の椅子をじっと見つめていた。
「あ、そうだ。これ、冷蔵庫に入れといて」
お母さんが買い物袋から取り出してことねに渡したのは、小さな焼きプリンだった。
「これ誰の?」
「さあ……なんとなく買っちゃったのよ。今日、安かったから」
「ことね、食べていい?」
「うん。いいんじゃない?」
そのプリン、私が買い物に行くといつも選んでいた大好物だったっけ。
「……いただきます」
私だけが手を合わせて呟く。もちろん、誰も私を見ない。
けれど、ことねだけ少しだけ遅れて、ポツリと呟いた。
「……いただきます」
まるで、昔からの習慣が身体に残っているみたいに。
*
夕飯を終え、二階の自分の部屋へ入る。白いベッドに鞄をぽんと放り投げ、デスクの上のクマのキーホルダーを突っついた。
「『僕の硬派なキャラクター性が崩壊しました』だって。ふふっ……思い出すだけでウケる。御影くん、ホントおもしろすぎ」
一人で口元を緩めていると、コンコン、とノックが鳴り、妹のことねがドアを開けた。
「ことね? どうしたの?」
声をかけるけれど、ことねの視線は私を通り過ぎ、部屋の中をぼんやりと見渡している。
「……ねえ、お母さん。ここって、なんの部屋だったの?」
廊下に向かってことねが尋ねると、下から「誰って……昔から空いてる部屋じゃない?」とお母さんの声が返ってきた。
「でも、なんか変なの。……私、ここに入るとき、勝手に入っちゃいけない気がする」
ことねは首をかしげながら部屋に入り、机の上のペンやノートを珍しそうに見つめた。
けれど、それらに触れようとはせず、少し遠慮がちに一歩下がった。
頭では私を知らないはずなのに、妹として……私というお姉ちゃんの存在を消せずにいてくれてるのかな。
そこへ、ストックのトイレットペーパーを抱えたお母さんが入ってきた。
私と目が合っているはずなのに、視線は私の数センチ後ろを通り抜けている。
「ことね、なにやってるの? そろそろお風呂入りなさい」
「あ、うん……」
ことねが部屋を出ていくと、お母さんはスチールラックにペーパーを置き、ふと私の学習机に目を留めた。
「……なんかここ、気になるのよねぇ」
お母さんは首をかしげながら手伸ばすと、少しズレていたペン立ての位置を整え、開きっぱなしだったノートをパタンと閉じた。椅子を机の下にきっちり戻し、ベッドの枕の位置まで手で整える。
「……誰が、こんなに散らかしたのかしら」
お母さんは呟き、私に背を向けて部屋を出ていった。
──バタン、とドアが閉まる。
さっきまでの会話の余韻が、すっと引いていく。
『ただいま』も、『おかえり』も、今日あった楽しかった出来事も。
お風呂に入り、深夜、静まり返った部屋でベッドに潜り込んだ。
「……ずっと、このままなのかな」
ぽつりと漏れた呟きが、暗闇に吸い込まれて消える。ヤバい、また泣きそう。
壁を抜けることもできず、他人には触れることもできず、家族にすら存在を忘れられて──世界から綺麗に切り離されたまま、私だけがここで生きている。
どれくらい経っただろう。
うとうとしてたら、ガチャリと静かにドアが開く音がした。
廊下の薄明かりの中に立ったのは、お母さんだった。
足音もなくベッド脇まで歩いてくると、お母さんはぼんやりとした目で、私が被っている毛布を見下ろした。
お母さんの瞳には、私は映っていない。ただ「誰もいないベッドの上に、不自然に敷かれた毛布」があるようにしか見えていないはずだった。
「……なんで、綺麗に毛布が敷いてあるのかしら」
お母さんは少し首を傾げた。
そして、吸い寄せられるように手を伸ばすと、私の肩口にかかっていた毛布の端を優しく引き上げ、しっかりと胸元までかけ直した。
ポン、ポン。
小さな子供をあやすみたいに、毛布の上から優しく背中を叩く。
お母さんが昔から、私が風邪を引いて熱を出した夜に、ずっとやってくれていた癖だった。
「……風邪、引かないようにね」
ぽつりと、お母さんの口から言葉が漏れた。
「……っ」
お母さんは自分が何をしたのかも分からない様子で、もう一度首を傾げると、そのまま静かに部屋を出て行った。
ぎゅっと、毛布を握りしめた。
お母さんの頭からは、私の記憶が消えている。私が娘だということすら思い出せない。……なのに、過ごしてきた時間だけは、完全には消えてはなさそうだった。
そう考えると、温かいものがボロボロと目元から溢れ出した。
声を出さないように枕に顔を押し付け、一人で静かに泣いた。誰にも聞こえないのに。
泣き疲れて、少し息が落ち着いた頃。暗闇の中でスマホの画面をつける。
眠れない時はよく、日向やみんなにかまってちゃんアピして、色々送ってたっけ。懐かしいなぁ――友達とのトーク画面を一つずつ開き、届かない言葉を眺めていく。最後に、一番下の名前をタップした。
『御影くん』
『今日のクマのキーホルダー、カバンにつけて登校してね!』
送信ボタンを押して画面を伏せ、深く息を吐く。
こんな遅い時間に、あんな冷めた後輩が起きているわけがない。起きてても既読スルーしそう。
ブッ。
枕元で短いバイブレーションが響いた。
誰からも届かないはずなのに──ひとりを除いて。
『拒否します。僕の尊厳に関わります』
眩しい画面に表示された、短い一文。
それを見た瞬間、私は涙でぐしゃぐしゃの顔のまま「ふっ……」と漏れ出た声を抑えきれずに吹き出していた。相変わらず、どこまでも生意気で、どこまでも冷たい返信だ。
『じゃあ明日、強引につけてあげるね!』と返すと、すぐに『来たら逃げます』と既読がついた。
スマホを胸に強く抱きしめた。
世界中が私を無視しても、この画面の向こうには、確かに私を見て、私の言葉に返答をくれる人間が「世界にひとりだけ」いる。
冷たい暗闇の中に、小さな灯りがともったみたいに、胸の奥がじんわりと温かくなっていった。そのままスマホを握りしめたまま、私はゆっくりとまぶたを閉じた。
*
翌朝。眩しい太陽が照らしつける校門の前。
「あ! 御影くーん!」
カバンを揺らしながら、私は遠くに見えた制服姿の背中に向かって走った。
彼が振り返る。
「……朝からうるさいですよ、先輩」
いつもの冷めた呆れ顔。私を見つめるその瞳に、私の姿がハッキリと映っている。
「おはよう、御影くん!」
「おはようございます。……って、先輩、昨日ちゃんと寝ました?」
歩み寄った僕の顔を覗き込みながら、御影くんが不審そうに眉をひそめた。
「寝た寝た! めちゃくちゃ寝たよ!」
「目、少し腫れてますけど」
「……え」
「あー、ごめん。本当は夜更かししてたんだよね!」
「何してたんですか。どうせくだらないことですよね」
「失礼な後輩だなぁ。乙女の秘密だよ」
「……どうでもいいですけど」
呆れたように溜息をつきながらも、彼は私の歩幅に合わせてゆっくり歩き出してくれた。
家では誰にも「見えない存在」。けれど、この学校の差し込む光の中では、私はちゃんと「小鳥遊紬」として、彼の隣に立っていた。
それが、たまらなく嬉しかった。




