第6話 触れない先輩と、避けられる僕
「……ねぇ、御影くん」
図書室の窓際。西日が斜めに差し込む中で、小鳥遊先輩が両手を前で力なく垂らし、お化け? みたいな変なポーズでニヤニヤしながら言った。
「私ってさ……もしかして幽霊なのかな。実はもう死んじゃってたりして」
自分からそんな冗談を振っておきながら、先輩は語尾をわざと語気なく伸ばして、僕の顔色を窺うように片目を細めた。
僕は溜息をつき、開いていた文庫本を静かに閉じた。
「……はぁ。幽霊なら、もっとドカンとポルターガイストでも起こしてくださいよ。図書室の棚を全部なぎ倒すとか、それくらい派手なやつを」
「むちゃくちゃ言うなぁ。……じゃあさ、ちょっと試してみる? 幽霊チェック。ほら、私たちが気付いてないだけで、実は物理法則を無視できたりするかもしれないじゃん」
そう言って窓枠の縁から立ち上がると、先輩は図書室の壁に向かってゆっくり歩き出し、何の躊躇もなく手のひらを押し当てた。静かな室内にバンと乾いた音が響き、手首を押さえて「痛っ……」と顔を顰める。当然、通り抜けなんてできるわけがなかった。
忍び足で廊下を歩いて足音を確認してみても、上履きのゴム底が律儀にキュッキュッと音を立てる。
「……壁も抜けないし、足音もする。じゃあ、これは?」
先輩は保健室から借りてきた電子体温計を取り出し、自分の脇に挟んだ。数秒後、ピピッと電子音が鳴る。画面には『36.4℃』とはっきり表示されていた。
「ほら! 36.4度! 温かい! 御影くん、私ちゃんと生きてるじゃん!」
先輩が嬉しそうに体温計を掲げた、その直後だった。
「あら、御影くん? それ、誰の体温計?」
廊下を通りかかった保健室の先生が、僕の手元(正しくは僕の隣にいる先輩の手元)を見て首をかしげた。
「……えっと、僕が借りたやつです」
「そう? 返すならちゃんとケースに入れてね」
先生は笑顔で立ち去っていく。目の前で先輩が体温計を持って立っているのに、まるで『誰も持っていない体温計がそこに浮いている』かのように、あるいは最初から僕の所有物であるかのように勘違いされたのだ。
身体は存在し、温度すらある。なのに、その身体の持ち主だけが認識されていない。
先輩は苦笑いしながら体温計を僕に預け、手洗い場の鏡の前に向かった。薄暗い鏡を覗き込むと、毛先の一本までくっきりと、いつも通りの自分の姿が映し出されている。
「幽霊じゃないなら、変顔しても大丈夫だよね」
先輩が自分の頬を指でひっぱり、ひどい変顔を作った。
「御影くんもやって。ほら」
「嫌ですよ……なんで僕まで。そういうのは先輩のキャラでしょ」
「あー、言ったな!? いいから! 検証のためだからっ!」
押し切られて渋々、僕も軽く顔を歪めてみせた。
「ぶっ……御影くん、弱っ! 全然変顔になってない!」
「先輩の顔がおかしいだけです」
「ほら、もっと! 眉間寄せて!」
くだらないやり取りをしながら、先輩がふと鏡を見つめた。
鏡の中には、二人並んで笑い合っている姿が確かに映っている。
『この世界』で誰も僕たちを見ていなくても、鏡の中の二人だけは、間違いなく同じ空間に並んで立っていた。
*
「……御影くん以外の人に対して、私から触ろうとしたら……どうなるのかな?」
校舎を歩きながら、先輩が腕を組んだ。
「試してみればいいじゃないですか。ほら、あそこにちょうどよく部活前の男子生徒がいますよ」
廊下の向こうから、サッカー部の男子生徒が歩いてくる。先輩は「ちょっと脅かしてやる!」と少し緊張した面持ちで、彼の肩を後ろから「わっ!」と叩こうと手を伸ばした。
だが、先輩の手が触れる直前――男子生徒が急に「あ、靴ひも」と呟いてその場にしゃがみ込んだ。
「……え、たまたま? 偶然?」
「もう一回、やってみてください」
立ち上がった男子生徒に、先輩はもう一度今度こそ触れようとする。すると今度は、横の教室から別の生徒が勢いよく飛び出してきて二人の間に割り込み、「おーい、ボール持ってけよ!」と声をかけた。
「じゃあ、三人同時なら──!」
意地になった先輩が、歩いてきた三人組の男子生徒の前に『わー!』と両手を広げて立ちはだかった。
すると一人はスマホの通知に目を落として左へ避け、もう一人は「今日暑くね?」と友達を振り返って右へ避け、最後の一人は欠伸をしながら自然に進路を外した。誰一人として先輩に触れることなく、見事な千手観音のような滑らかさで先輩の左右を通り抜けていった。
「……もしかして私、呪われてる側じゃなくて、呪いそのものなんじゃない?」
「先輩がいることを認識して避けてるんじゃなくて、『なんとなくここは通りにくい』くらいの……段差扱いされてますね」
「私、校内の段差と同じ扱いなの!?」
呆れる先輩に、僕は「次は『声』とか、どうなんですかね」と提案した。
「大声で誰かを呼んでみてください」
先輩は息を吸い込み、廊下の真ん中で「すみませーん!」と叫んだ。
普通なら全員が振り返るレベルの音量だ。しかし、通りかかる生徒たちは一瞬首を傾げるだけだった。
「今、何か聞こえなかった?」
「ん? 窓が風で鳴ったんじゃない?」
そう会話して去っていく。
「……声まで無視されるのかと思った」
一瞬だけ、先輩が胸の奥を刺されたような顔で声を漏らした。だがすぐに僕の方を振り向き、「御影くんには普通に聞こえてるよね?」と確認するように覗き込んでくる。
「……うるさいくらい、聞こえてますね」
「よかった……」
安堵の息を漏らす先輩の手からペンを借り、僕は「次は『名前』はどうですか」と言って、近くにあった黒板に大きな文字で書かせてみた。相変わらず顔の割に字がキレイだ。
『小鳥遊紬』
黒板にははっきりと、先輩の流麗な文字が刻まれた。これなら見落としようがない。
そこへちょうど、日誌を持ちに来た担任の先生がやってきた。先生は黒板の前に立ち、文字をじっと見つめた。
「……先生この、小鳥遊紬って文字」
僕が尋ねると、先生は眉をひそめて「……小鳥遊?」と呟いた。
「誰だソレ? うちの学校にそんな生徒いたかな……それがどうした?」
「先生! ここ! ここにいるってば!」
先輩が先生の目の前で手を振り、必死に叫ぶ。だが、先生には届かない。
それどころか先生は「……あ、日直のやつ、名前書き忘れてるな」と呟くと、チョークを取り出し、黒板の『小鳥遊紬』という文字を完全に消すこともせず、その上から重ねるように『日直:佐藤』と書き殴った。
文字が物理的に消えたわけではない。ただ、その文字の『意味』を認識することが拒絶され、まるで何も書かれていないかのように、上書きしてしまったのだ。
「触ろうとしても避けられて、声は風の音にされて、名前を書いても存在しないことにされる……」
先輩は自分の手を見つめ、力なく笑った。
「……私、本当にこの世界からログアウトしかけてるんだね」
購買の横のベンチに辿り着き、二人は腰を下ろした。先輩はポケットを探り、お気に入りの茶色のクマのキーホルダーを取り出した。カバンについているやつの色違いだ。
「じゃあ、さ……これが本当に最後ね。落とし物はどうなるか」
先輩はそれを、目の前の廊下にぽとんと落とした。
少し待つと、部活終わりらしき男子生徒が通りかかり、足元に転がったキーホルダーを拾い上げた。彼のすぐ前には小鳥遊先輩が立っているが、男子生徒の視線は彼女を通り過ぎ、僕の顔で止まった。
「あ、御影。これ落ちてたぞ。……お前、こんな可愛いキーホルダー持ってたんだな。意外だわ」
「違っ――」
「ほらよ! もう落とすなよー」
手元にキーホルダーを握らせると、彼は爽やかに手を振って去っていった。
手元に残されたクマのキーホルダーを見つめながら、先輩はぽかんと口を開けていた。
「……御影くん」
「……なんですか」
「ファンシーなクマちゃん、めちゃくちゃ似合ってるよ」
そっぽを向いて肩を小刻みに揺らしたあと、先輩は「ふふっ」とおかしくてたまらないように笑った。
「ひどいなぁ、私のクマなのに御影くんのモノになっちゃった。完全に泥棒じゃん」
「先輩が落としたからでしょうが。僕のクラスでの硬派なキャラクターが壊れました」
「ごめんごめん! でもさ……」
先輩は目元を袖で拭い、僕の手からキーホルダーをそっと受け取った。
先輩が触る分には落ちないが、これを誰かに「私の」と主張することはもうできない。
「触ることもできなくて、声も届かなくて、名前も読まれなくて……」
「自分の持ち物すら、誰かのモノに書き換えられちゃうの……か」
ポツリと呟いた先輩の顔から、少しだけ笑みが消えた。
そのまま僕をじっと見つめ、確かめるような声で問いかけてくる。
「……でもさ、幽霊じゃないなら」
「私、まだ生きてるって事で……とりあえずは、いいんだよね?」
僕は一切の迷いなく、即座に答えた。
「先輩は、ちゃんと生きてますよ」
「僕には見えてますし、声も聞こえてます。壁も抜けないし、体温も36.4度ある。先輩は間違いなく生きてます」
僕が視線を逸らさずに言い切ると、それからほっと胸を撫で下ろすように笑った。
「……そっか。うん、御影くんが言うならそうか」
いつもの調子を取り戻した先輩が、ベンチから勢いよく立ち上がる。
「よし! じゃあ明日は『授業中に先生の目の前で踊ったらどうなるか』の検証ね!」
「絶対にやりませんからね。ひとりでやってください」
「えー、冷たいなぁ。段差扱いされた私の舞い、見たくないの?」
なんだかんだ言い合いながら歩く二人の影が、オレンジ色の廊下に長く伸びていく。
世界からどれだけスルーされようが、僕の隣でくだらないことを言って笑う彼女は間違いなく生きている。
そして僕が覚えている限り、その事実は絶対に揺らがない。




