第5話 世界にふたりきりみたいな街で
「御影くん! 昨日のお礼するからさ、ちょっと放課後付き合ってよ」
図書室の窓際で、小鳥遊先輩が唐突にそんなことを言い出した。
僕が振り返ると、先輩はいたずらっぽく小首をかしげる。
「それとも、デートって言った方が良かったかな。御影くん断らなそうだからさ」
冗談めかして笑ってみせるけれど、その指先が少し短いスカートの裾をぎゅっと掴んでいるのを、僕は見逃さなかった。断る理由も、断る気も最初からなかった。
*
放課後の駅前。制服のまま二人で歩く街は、なんだか妙にそわそわする。
「ねえ、あそこのクレープ食べたい。チョコバナナ。なんか女子高生っぽくない?」
はしゃぐ小鳥遊先輩に流されるまま、駅前のスタンドに並ぶ。僕の番になり、「チョコバナナ二つで」と注文した。
店員さんは僕の後ろを見た。誰かを探すように、視線の置き場に困っている。
「……お連れ様は?」
「いますけど」
即座に答えると、店員さんの表情が不審そうに曇った。
「……すみません、おひとりで二つのご注文でよろしいでしょうか」
気まずい沈黙が流れる。後ろで先輩が「ごめんごめん、やっぱり私が頼むとややこしくなっちゃうね……」と小声で困ったように笑った。
「……はい、僕が両方とも食べます」
僕は二つのクレープを受け取り、代金を支払った。ベンチに腰を下ろし、一つを先輩の差し出す手のひらの上にそっと重ねる。
「太ったら……御影くんのせいだからね?」
「先輩のせいです。……先輩、それ普通に食べられるんですね」
「食べるよ! 美味しい……っ、やば、チョコバナナ最高。……ん? なんで?」
「いや……この間の弁当は先輩が自分で作ったので分かりますけど、物体に触れないわけじゃないんだなって」
「うん。食べる分には全然平気なんだよね。よかったよ、食べれないと死んじゃうもん」
「あとは、私のもともとの制服とかスマホとか、昔からの持ち物も普通に使えるよ」
先輩はクレープを一口噛み締めながら、どこか客観的に自分を分析するように呟いた。
その一口が身体の中に消えていくのを見ながら、僕は歪なルールの不気味さに、密かに背筋を凍らせていた。
気を取り直すように立ち上がると、そのまま賑やかな音の鳴り響くゲームセンターへと向かった。
「あ、見て御影くん! あのクマ可愛くない? 取ってよー!」
景品が入った大型筐体を指さして、先輩がはしゃぐ。
「嫌です。あれって設定金額に達するまでアームが強くならない仕組みです」
「だから結局、確率の奴隷になるだけですよ……ってか、どんだけクマ好きなんですか」
「相変わらず夢のないこと言うなー、御影くんは! 一回だけ! 後輩の甲斐性見せてよ!」
「後輩の甲斐性」ってなんだよと思ったけど、あまりにしつこいので、僕は半ば呆れながら100円玉を投入した。レバーを操作し、アームをぬいぐるみの頭上へ運ぶ。ボタンを押すと、アームは思いのほかガッチリとクマの首元を掴み、そのまま持ち上げて穴へと落とした。
ットン、と軽い音が響く。
「えっ、取れた!? すごっ! 御影くん、やればできる子じゃん!」
取り出し口からクマのぬいぐるみを取り出し、僕は「……どうぞ」と先輩に差し出した。先輩は嬉しそうに両手を伸ばして、しっかりと抱え込む。僕の目から見れば、先輩はちゃんとぬいぐるみを腕の中に収めていた。
ところが──僕が手を放した、次の瞬間だった。
バサッ。
クマのぬいぐるみは、先輩の腕から滑り落ちるようにして地面へ叩きつけられた。
「……あれ?」
「先輩、落ちましたよ」
「え、嘘……ちゃんと抱えてたよ?」
先輩は首を傾げながら、僕はもう一度拾い上げて渡すと両腕でぎゅっと抱きしめる。しかし、僕の手が離れると同時に、やっぱりバサッと足元に落ちた。
「……御影くん。私、かかえてたよね?」
「かかえてましたね……目の前でしっかり掴んでました」
「じゃあ、なんで御影くんが手を放す落ちるの……?」
不気味な現象に、僕はふと思いついて「先輩、ちょっとそのまま手を出してください」と言った。
僕がぬいぐるみを持つ。普通に持てる。その上から、先輩が両手を添えて包み込む。先輩の体温と柔らかい触感が手に伝わる。
──だが、僕が指の力を緩めた瞬間。
スルリと、僕の手から抜け落ちるようにして、ぬいぐるみが床へ落ちた。
「……あっ」
触れてはいる。触ることも、持ち上げようと力を行使することもできている。
「……そっか。触れないんじゃなくて、『私のかわいいぬいぐるみ』にすることができないんだ……」
落ちたクマを見つめながら、先輩は悲しそうに手を開閉させていた。なにかしらの物理法則ではなく得体の知れないルールのせいで、自分のものになれないという現実が、余計に切なく胸に刺さっていた。
「まっ、持てないなら……しょうがないか! じゃあ、次はプリクラ! 撮ろ撮ろ!」
寂しさを振り払うみたいに、先輩がゲームセンターの奥を指さした。
「……僕、そういうの入ったことないですし、そもそも写真に写るんですか?」
「あー、そっか。じゃあさ、入る前に普通のカメラで試してみようよ」
先輩はポケットから自分のスマホを取り出し、二人で並んで画面を覗き込んだ。カシャ、とシャッター音が鳴る。画面を確認すると、そこには僕と、ピースサインを作って笑う小鳥遊先輩が並んで写っていた。
「ほら! ちゃんと二人いるじゃん!」
「……まあ、先輩のスマホで撮ったんですから当然じゃないですか」
「この間も夜中に変なメッセージ送って来ましたし、先輩の持ち物だとセーフなんじゃないですかね」
「でしょ? ほら、入ろ!」
半ば引っ張られるようにして、ピンク色のカーテンをくぐる。
派手な効果音の鳴り響く狭い空間で、カメラの前に二人で並んだ。
『ポーズを決めてね! 3、2、1──』
パシャリとシャッターが切られる。
撮影を終え、落書きコーナーのモニターに表示されたプレビュー画面を見て、先輩の顔からスッと色が引いた。
そこに映っていたのは、一人でぽつんと立っている僕の姿だけだった。
よく見ると、僕の隣の空間だけが、テレビの砂嵐のようなノイズで覆われている。
「……そっか。プリクラも、自分の持ち物じゃないから……ダメなんだ」
それから『落書きをしてね!』という機械のアナウンスに従い、僕はタッチペンで画面に『放課後』と書き込み、先輩も楽しそうにその横に『デート with 御影くん』とハートを描いた。
しかし、画像を保存してプリントされたシールを見ると、僕が書いた『放課後』の文字だけが残り、先輩が書いたはずの『デート with 御影くん』とハートは綺麗に消え去っていた。
「写真だけじゃなくて、私が残そうとした痕跡まで消されるんだ……なんか、地味にショックかも」
小鳥遊先輩はへらりと笑って、画面から視線を逸らした。さっきまでの楽しそうな声が一転して、か細く乾いた音になる。
その時だった。カーテンの外から、ヒソヒソ声が漏れてきた。
「ねえ、あそこのブースさ……男一人で入っていかなかった?」
「え、男子だけってダメだよね? ほら、足も一人分しかないし……とりま、店員さん呼んどく?」
薄いカーテンを突き抜けて届く声。
先輩の肩が小さく跳ね、下唇を強く噛みしめた。
「……出よっか。御影くん」
先輩が絞り出すような声で呟き、カーテンをくぐろうとした瞬間、外から男性店員がカーテンを大きく捲り上げた。
「君、困るよ。男子のみの立ち入りはお断りしてるんだけど」
自分でも驚くほど、荒い声が出た。
「違います」
「一人じゃないです。……二人で撮ってました」
「……いや君、どう見ても一人でしょ。なに言ってんの?」
店員は呆れたように鼻で笑った。僕の隣には、青ざめた顔で「御影くん、もういいから……」と僕の袖を引っ張る小鳥遊先輩がいる。ここに、確かに立っている。
「ここにいます! ほら、ここです! 見えませんか!?」
「御影くん、やめて……っ」
引き止めようとする先輩の手を、僕は思わず強く振り払ってしまった。
「よくないです! ここに先輩がいるのに……!」
「……あのさ、そういう迷惑系の配信? とか面白くないからさ、さっさと出ていってくれる?」
言葉を失ったまま、僕は店から押し出されるようにして解放された。
*
駅前のロータリー。大きな街路樹を取り囲む円形のウッドベンチに、僕たちは並んで腰を下ろしていた。
夕暮れの人波が、僕たちの前を通り過ぎていく。誰も僕たちを見ようとしない。
「……なんか、ごめんね」
ポツリと、隣から小さな声が降ってきた。
「私ね……御影くんに普通の放課後をあげたかったんだ」
「友達とクレープ食べて、ゲームセンター行って、プリクラ撮って……そういう、普通の高校生みたいなやつ」
「なのに、私と一緒にいると、御影くんまで変な人扱いされちゃうんだね……っ」
頭を下げた小鳥遊先輩の目からポロポロと涙がこぼれ落ち、制服のスカートに小さな黒い染みを作っていく。
僕はその姿を見つめながら、思わず言葉を落とした。
「……僕、今日すごく腹が立ちました」
「御影くん……?」
「先輩がそこにいるのに、いないことにされてるのも……先輩の物だったものまで奪われていくのも。あんなの、おかしいですよ」
僕は膝に置いた自分の手を、ギュッと力任せに握りしめた。
「クレープ食べて、ゲームの景品見て、プリクラ撮って……全部楽しかったのに、世界が全部なかったことにしようとしてくるなんて、絶対に納得がいきません。だから──」
「こんなおかしな状態、さっさと元に戻しましょう……僕も協力しますから」
先輩は目を丸くし、涙で濡れた睫毛をパチパチと揺らした。
「協力って……でも、御影くん。無駄なことするの、嫌いじゃなかったっけ? 本当に……いいの?」
「……先輩のためじゃないです。僕が困るからです。僕の日常までバグらされるのは御影家の尊厳に関わります」
勢い任せに呟いた強がり。
隣を見ると、小鳥遊先輩はポカンとした後、目尻に涙を浮かべたまま「ふふっ」とおかしそうに口元を緩めた。
「なにそれ……御影家の尊厳なら仕方ないね」
先輩は涙の痕を袖でゴシゴシと拭うと、ゆっくりと立ち上がり、ぎゅっと両手を握りしめた。世界に抗うように、自分の存在を確かめるみたいに。
「じゃあ、可愛い後輩にこれ以上迷惑かけないためにも、絶対に元に戻らなきゃね」
夕闇が二人を包み込み、街灯がぽつぽつと灯り始める。
先輩がベンチから立ち上がり、街路樹の影の下で振り返った。
「それじゃあ、御影くん。……バイバイ」
ひらひらと手を振って、背を向けようとする。
「……違いますよ」
「それ、もう会えない人に言う言葉みたいだから嫌です」
僕が苦々しく言い捨てると、先輩はふっと切なそうに視線を落とした。
「……御影くんが明日も見つけてくれる保証、ないよ? 私、いつまでここにいられるかも分かんないし……」
「見つけます。僕だけは絶対に見つけますから」
僕が即答すると、先輩は目を見開き、それから今日一番の確かな光を宿した瞳で微笑んだ。
「……うん。じゃあ、また明日ね。御影くん」
「……また明日、図書室で」
背中が見えなくなるまで、僕はその場から動けなかった。
あした。そのたった三文字の言葉が、今まで聞いたどんな約束よりも重く感じられた……。




