第4話 一番近くにいる、遠い親友
「──ねぇ紬、この前髪やばくない? 完全に終わったんだけど。詰んだよねコレ」
「ちょっと見せて……くくっ、ほんとだ、事故ってる! 思ったよりナナメいってるね!」
「笑わないでよ! 紬が切ってくれるって言ったから任せたのに、これじゃ外歩けないじゃん!」
「ごめんごめん。大丈夫だって、横に流せば全然誤魔化せるから。ほら、貸して」
「もう二度と紬に髪切らせないから!」
「じゃあ次はもっと上手く切れるように練習するね」
「練習台に私を使うな!」
先輩のスマホの画面の中で、動画が再生されている。
前髪を押さえて半泣きで抗議する女子と、お腹を抱えて「ふふっ、ぐふふぅ!」と引きつけを起こしそうになりながら笑っている小鳥遊先輩。
画面の隅には、ドリンクバーのグラスと、半分溶けたアイスの皿。画面の外へと笑いながら逃げていく女子を、小鳥遊先輩が追いかけて動画が終わった。
画面の中で子供みたいに眉を下げて笑っていたのは、橘日向先輩だった。
校内での彼女しか知らなければ、合成動画を疑うような光景だ。
橘先輩といえば、うちの学校では「隙がない」ことで有名な生徒会役員だ。テストは常に学年トップ争い、行事の仕切りも完璧で、先生からの信頼も厚い。男子の間では冗談半分で「攻略難易度SS級」なんて呼ばれている。
今の橘先輩は、人前では口元だけで綺麗に微笑む。だけど動画の中の彼女は、肩を揺らして、目を細めて、ぐしゃぐしゃに笑っていた。
「……橘先輩も、こんな顔するんですね」
「ん?……あー、日向はさ、怒るといつも『もう紬なんて知らない!』って言うの。で、一時間後には忘れて普通に話しかけてくるんだよね。いーちばんくだらないことでさ、一生笑ってたんだよね。あの子といるとさ、ほんと時間溶けるの」
小鳥遊先輩が自分の膝をぽんぽんと叩きながら、懐かしそうに呟く。
……けれど。
『もう、紬なんて知らない!』
LINEのトーク履歴の最後に残された、その短い一文。
二人にとってはいつもの「ケンカの決まり文句」に過ぎなかったはずの言葉を、世界はあくどい精度で、文字通りに実行してしまったらしい。
先輩のスマホの中で、二人の時間はそこで止まったままだった。
*
放課後の校門前。
下校する生徒たちの波から少し離れた木陰で、僕と小鳥遊先輩は並んで立っていた。
先輩はさっきから制服の裾を引っ張ったり、つま先立ちを繰り返したりと、落ち着きなく視線を泳がせている。
「……あ、出てきた」
浮足立ったような、どこか腰のひけた声。
校舎から出てくる橘先輩の背筋はピンと伸びていて、周囲の「橘さん、また明日ね」という声に、完璧な笑顔で応えている。
だけど、そのカバンについた大きな茶色のクマのキーホルダーだけが、どこか彼女の完璧さにそぐわない幼さを残して揺れていた。よく見ると、片方の耳の縫い目が歪に補修されている。
「あ……あれ、昔日向が引っ張ってちぎっちゃったやつだ。まだ付けてるんだ」
小鳥遊先輩がぽつりと呟いた。
「先輩が直したんですか?」
「ううん、私。下手くそだから糸が見えちゃってさ。『下手くそ!』って笑われたんだよね……」
橘先輩は、その不格好なクマを大切そうに指先で撫でていた。
「あの子だよ。……私の、大親友」
自慢気で、でもどこか他人を観察するような乾いた声だった。
*
橘先輩の後ろを少し離れて歩き、辿り着いたのは駅前のファミレスだった。
食器の重なる音、スープバーの電子音、油の匂い。僕と小鳥遊先輩は、橘先輩たちのテーブルから離れたボックス席に滑り込む。
橘先輩はクラスメイトらしき女子ふたりと向かい合って座っていた。
ふと立ち上がった橘先輩がドリンクバーに向かい、慣れた手つきでボタンをいくつか押し、グラスを満たして席に戻ってくる。
「ねぇ日向、なにそれ気持ち悪っ! 何混ぜてんの?」
友人の驚いた声に、橘先輩はハッとした顔で自分の手元を見つめた。
「……え? あ……なにこれ。なんで私、こんなの作ってんだろ……」
自分でも引いたような顔でグラスを見つめる橘先輩。カルピスにメロンソーダと山ぶどうを混ぜた、妙な色の液体。
僕の隣で、小鳥遊先輩が「っくく……!」と肩を揺らした。遠くの席からそのカップを見つめ、ぼんやりと呟く。
「あはは……最初にそれやったの、日向なんだよね。『色合いがカワイイから』とか意味不明な理由でさ……激マズだったのに……」
さらに橘先輩は、皿に乗ったポテトを一本手に取り、無意識の動作でポキリと半分に折ってから二本並べて口に運んだ。
「え、日向、何してんの?」
「……え? あ……なんでだろ。折った方が食べやすいかなって……」
首を傾げる橘先輩を見て、小鳥遊先輩の笑みがふっと止まった。
「……それも、私がやってたから真似したんだよね」
橘先輩は不快そうに眉をひそめて、ドリンクのグラスをテーブルの端に追いやった。
「寂しくないんですか」
僕が静かに尋ねると、小鳥遊先輩は少し考えてから、小さく笑った。
「……寂しいよ。でもさ、私がいなくなったせいで日向まで一人になってたら、もっと嫌だったから。……ちゃんと友達と笑えてて、よかった」
自分が忘れられた悲しさよりも、親友が自分なしでも笑えていることを喜んでしまう。その横顔を見ていたら、なんだか急に無性に胸が騒いだ。
*
ファミレスを出た後、立ち寄った駅前のファンシー雑貨屋。
棚に並ぶキーホルダーコーナーの前で橘先輩が足を止めた時、僕は気づいたら声を掛けていた。
「橘先輩……あ、ぼく2年の御影って言います」
「御影くん? 何して──」
「……? 何か用ですか?」
声に気づいた橘先輩が振り返り、不審そうな顔でこちらを見た。整った前髪、冷ややかに僕を射抜く視線。その瞳の焦点は、僕の顔にしか合っていない。すぐ隣にいる小鳥遊先輩の存在を、完全に通り抜けている。
「あの……橘先輩って、同じ学年の小鳥遊って──」
「御影くんっ!……やめて! お願いだから」
袖を力任せに掴まれた。
振り返ると、小鳥遊先輩は下を向いたまま必死に僕の制服を引っ張っていた。顔は見えなかったけど、いつもの強がりで笑っているようにも見えた。でも、声は真剣だった。
「でも──」
「聞かないで……ってば」
袖を掴む指先が激しく震えている。
「もし、日向に訊いてさ……『え、誰ですかそれ?』とか言われたらさ……あの子の目に私が一ミリも映ってなかったら……私、本当に死んでるんだって思っちゃうじゃん。自分で認めちゃうじゃん。だから……お願いだからさ……っ」
腕に食い込む指の痛みに、僕はそれ以上なにも言えなかった。
「……なんだか分からないけど……制服着てるんだから、あまり大きな声出さないようにね」
不審そうに「変なの」と呟き、橘先輩はそのまま店を出て行った。その日は、小鳥遊先輩ともろくに口を利かずに別れた。
*
翌日の昼休み。静まり返ったいつもの図書室。
窓から差し込む陽光の中で、僕と小鳥遊先輩は本棚の影に座り込んでいた。
「……ねぇ、御影くん」
小鳥遊先輩がぽつりと口を開いた。膝を抱え、床の木目をじっと見つめている。
「昨日さ……連れ回しちゃってごめんね。でもまあ、付き合ってくれてありがと。……私さ、もうちょっとメンタル強くなったらさ。いつかちゃんと日向に『ただいま〜』とか言えるくらい図々しくなったら、その時は……ちょっとだけ、背中押してね」
自分に言い聞かせるようなトーン。半ば諦めたような笑顔が痛々しかった。
でも、その時だった──。
パタパタと、図書室にはそぐわない雑な靴音が近づいてきた。
本棚の隙間から姿を現したのは、肩を上下させて息を整えている橘先輩だった。いつもの隙のない立ち振る舞いはどこへ行ったのか、前髪を少し散らし、必死な目で室内を見回している。
僕の姿を見つけると、彼女は迷わずまっすぐに歩み寄ってきた。
「あ、あなた昨日の……っ!」
橘先輩は僕の前で立ち止まり、爪が食い込むほど自分の胸元をぎゅっと服ごと掴んだ。整っていたはずの表情は綺麗に崩れ、今にも崩れ落ちそうな瞳で僕を見つめてくる。
「昨日、私に何か言おうとした『小鳥遊』って……あれは誰かの名前なの? あの後からずっと、頭から離れないの……授業中も、家帰ってもずっと。その名前、誰の名前なの……? 私と……なにか、関係ある人なの!?」
完璧な優等生の顔なんて、どこにもなかった。
自分の記憶の底にポッカリと開いた不自然な隙間と、そこに確かに存在する温かい引力に揺さぶられ、震える声で僕にすがりついてくる。
隣に立つ小鳥遊先輩を見た。
先輩は目を見開いたまま固まり、ボロボロと涙をこぼしながら、震える手で僕の袖をキュッと引っ張った。
「……御影くん。……伝えて」
消えてなんかいない。
世界からどれだけ消去されようと、橘先輩の心には、確かに小鳥遊紬という存在が引っかかったまま残っている。
僕は深く息を吐き出し、まっすぐに橘先輩を見つめ返した。
「……橘先輩の、一番めんどくさい……でも、大親友の人ですよ」
小鳥遊先輩は泣き顔のまま、どこか吹っ切れたような、愛おしそうな笑顔で僕を見ていた。
『忘れちゃったなら、また最初から友達になればいいじゃん』
声にはならない先輩の視線が、そう言っている気がした。




