第3話 秘密のランチタイム
「今日は、屋上だからね」
翌日の昼休み。図書室へ向かおうとした僕の腕を引っ張り、小鳥遊先輩は当然のような顔で階段を上り始めた。手には保冷バッグを大事そうに抱えている。
「なんで今日は、図書室じゃないんですか」
「んー……なんか今日、日差しがちょうどいい感じだから。日光浴。植物も光合成するし」
こちらの都合なんて初めから考慮にないようなテンポで、そのまま屋上へ連れ出された。雲ひとつない快晴だった。錆びついたフェンスの向こうに、青空が広がっている。
ベンチに並んで座ると、先輩は保冷バッグから二段重ねのプラスチック容器を取り出した。
「じゃーん。これ、私が作ったやつ。すごいでしょ。感動して泣いてもいいよ?」
「……先輩も、料理するんですね。意外です」
「失礼だなあ。女子高生だよ? 料理くらいするよ。まあ、たまにだけど。本当にたまにだけど」
先輩はおどけて見せたが、お弁当箱を抱える手には少しだけ力が入っていた。
「……なんかさぁ、残したかったんだよね」
ポツリと、風に消えそうな声。
僕が意味を測りかねて黙っていると、先輩はどこか遠くを見る目をして、自分の爪先をボケッと見つめながら呟いた。
「昨日さ、スーパーで卵買ったらさ。レジのおばちゃん、お釣りだけカチャンって置いてさ。私の手じゃなくて、なんか私とレジの間の虚空を見ててさ。袋詰めコーナーも混んでたのに、私の横だけ誰も来なくて、すごいスペース広かったんだよね」
「……」
「だからさ。なんか、一人で食べるの嫌だなって。一人で食べたら、昨日の買い出しも、今朝早起きしたことも、全部なかったことになりそうだから。誰かが食べてくれたら……今日ちゃんとお弁当作ったって、証拠になるかなって」
誰に聞かせるでもなく、自分に言い聞かせるように言葉を並べる。
そうして、先輩はお弁当箱のフタをそっと開けた。
中には、不揃いな形をした卵焼きと、少し焦げ目のついた唐揚げ、盛り付けが絶妙に不器用な白飯が詰まっていた。
「……いただきます」
割り箸を割り、まずは卵焼きを一口かじる。
「どう?」
「……塩が多いです」
「あー、やっぱり? なんか途中からどれくらい入れたか分かんなくなっちゃってさ。まあ塩分補給ってことで」
間髪入れずに唐揚げをつまむ。
「裏側、焦げてます」
「焦げは旨味だよ。香ばしいって言いなよ」
何を食べても、どこか味が極端だった。
「あ、それ私の唐揚げ」
「僕の領域に入ってたやつです」
「いいじゃん一個くらい。あ、やっぱりそっちの卵焼きちょうだい」
「嫌です。先輩が味付け失敗したやつじゃないですか」
「失敗言うな。個性的って言いな」
僕の反応に一喜一憂しているようでいて、先輩の意識はどこか別の場所を漂っているようだった。
「不味い」とは言わずに最後まで食べ進める僕を見て、先輩はどこか安堵したように息を吐いた。
「ふぅー。完食完食」
「あ、まだあるよ」
空になったお弁当箱を閉じようとすると、先輩は思い出したように保冷バッグから小さなアルミカップを取り出してきた。
「りんご。うさぎさんにした。耳片方取れたけど」
「これ……甘くないですか?」
差し出された爪楊枝で一切れ口に入れた瞬間、果物の甘さではない、暴力的で人工的な甘みが口いっぱいに広がった。
「砂糖かけたからね」
「りんごって、普通そのまま食べますよね」
「そのまま食べるのに飽きたら、砂糖かけるでしょ」
「かけません」
「小鳥遊家は、かけるんだよ」
先輩は膝の上で手を組み、ぽかぽかとした空を見上げた。
「甘いものとか、しょっぱいものってさ。なんか、後から喉乾くじゃん。喉乾くと、あーさっきあんなの食べたなーって思い出すじゃん。そういうのがいいんだよね。舌に残る感じ」
「……」
「明日になって、舌の裏あたりが『あ、しょっぱ』とか『甘っ』ってなったら、今日のことも一緒に思い出せるでしょ。だから砂糖ドバドバ掛けといた」
独り言のように淡々と語られる理由。
強烈な塩気と、過剰な砂糖の甘さ。それは、彼女が自分の存在を世界に縫い付けるために打った、不格好な杭のようなものだった。
黙って、もう一切れりんごを口へ運ぶ。
「……やっぱり甘いです」
「でしょ?」
「でも、この甘さは忘れません」
「……え?」
「たぶん、しばらく」
先輩は瞬きをして、それから急に自分の発言の意図に追いついたみたいに、言葉を詰まらせた。
風が吹き抜け、彼女の耳元がゆっくりと朱色に染まっていく。
僕は平静を装って立ち上がった。
「……喉乾きました。飲み物買ってきます」
「あ、自販機? 私も行くー」
「先輩は座っててください」
「え、なんで? 一人だけ座ってたら偉そうじゃん」
「……弁当作った人を歩かせるほど、鬼じゃないです」
先輩はまた丸くした目で立ち止まった。
「……なにそれ。なんか生意気」
「効率の話です」
「はいはい。じゃあお茶。緑茶ね」
照れ隠しに視線を逸らして自販機へ向かい、二人分の缶お茶を買って戻る。
ベンチに腰を下ろし、冷えた缶を渡すと、先輩は「ありがと」と受け取った。
静かな、少し乾いた風が屋上を吹き抜けていく。
缶の表面についた水滴を指でなぞりながら、先輩がポツリと言った。
「ねえ。今日のお弁当……美味しくはなかったよね」
「塩と砂糖の味がしました」
「ふふ、最悪な感想」
先輩は自虐的に笑うと、缶の口に唇をつけた。
「でもまあ……思い出にはなったかな」
答えを求める問いかけではなく、自分で自分に言い聞かせるような呟き。
僕は缶お茶のプルタブに指をかけたまま、少しだけ考えた。
「……明日も覚えてたら」
「覚えてたら?」
「思い出になった、ってことです」
先輩は一瞬だけ口を半開きのまま固まり、「……変な言い回し」と小さく毒づいてお茶を飲んだ。
その時だった。
ヒュッと、一段と強い風が駆け抜けた。
「あっ──」
先輩の手から力が抜け、お弁当箱がベンチから滑り落ちそうになる。
それと同時に、お箸を持っていた先輩の指先が、光を透かしてうっすらと透明に揺らぎ始めた。
「先輩」
返事がない。先輩の瞳は焦点が合っておらず、僕の姿すら映していないみたいにぼんやりと空を眺めている。
「──先輩!」
自分でも驚くほど、大きな声が出た。
ガシッ、と。
思考より先に体が動き、僕は身を乗り出してその腕を強く掴んでいた。
静寂の中、風の音だけが耳の横を過ぎていく。
掴んだ手応えはある。だが、いつになく冷たい。息が届くほど近くに僕の顔があって、急激に顔を真っ赤にしていく。
「……冷たいですね」
「……そこ? いま完全に私、消えかかってたよね? 感想それ?」
「事実を言っただけです。あと……お弁当箱、落ちなくてよかったですね」
「……ほんと、御影くんってマイペースだよね。情緒どうなってんの」
パッと手を離すと、先輩は「もうっ」と不満そうに腕を組んだ。
でも、その顔にはもう、どこにも消えそうな儚さはなかった。
*
放課後、自宅の台所でカバンから先輩のお弁当箱を取り出し、スポンジに洗剤をつける。
水道の水で流そうとして、ふとお弁当箱の底に目が留まった。
そこには、小さなネームシールが貼られていた。角が少し擦り切れた、可愛らしいキャラクターのシールだ。
だが、『遊』の文字が綺麗さっぱり消えている。『紬』も糸の部分しか残っていない。
胸の奥が、ほんの少しだけ冷たく冷える。
言葉もなく、ポケットからスマートフォンを取り出した。
カメラアプリを起動し、裏返したお弁当箱にピントを合わせる。
カシャ。
保存された画像を開く。
掠れた文字を、少しだけ拡大する。
『小鳥──』
そこまでしか読めない。
「……証拠くらい、残しておくか」
そう呟いた僕は、写真アプリのライブラリを開いた。
新規アルバムを作成する。
タイトル入力画面に、フリック入力で文字を打ち込む。
『小鳥遊先輩』
撮影した写真をそのアルバムへ移動させ、保存した。
その時だった。
手のひらの中で、スマホがブッと短く震えた。
画面を見つめる。小鳥遊先輩からだった。
『お願いがある!』
先輩にしては、珍しい切り出し方だと思った。
タップして開く。
『明日』
『一緒に会ってほしい人がいるの』
続けて、静かに画面が上に流れていく。
『高校で、一番仲良かった子』
『……たぶん、もう私のこと覚えてないと思う』
『一人じゃ』
『その時たぶん、笑えないから』
僕は、その画面をしばらく閉じられなかった。
蛇口から流れる水だけが、静かな台所に響いていた。
何度水をかけても、シールの文字が戻ることはなかった。




