第2話 存在していると、見えているは違う
「御影くん、今日購買行く?」
「行かないですね」
「えー、昨日も行かなかったじゃん!」
「昼休みは休む時間なんで。わざわざ混んでる時間帯に自分から飛び込む意味が分からないです」
「高校生活の楽しみ半分捨ててない? よくばりツインメロンパン競争に勝ってこそ青春でしょ!」
「あんな果実感溢れるジューシーなソースと、濃厚クリームが奇跡のコラボした冷めたパン食うために怪我したくないんで」
「男子なんて、バカみたいな事して怪我するもんじゃん」
いつものように図書室へ向かう廊下。小鳥遊先輩は僕の斜め前を歩きながら、身振り手振りを交えて勝手に喋っていた。
歩くたびに、軽めのレイヤーが入ったミディアムヘアがふわっと揺れて、ほんのり甘いシャンプーの匂いが鼻をくすぐる。
「冷めてても美味しいんだよ、購買の焼きそばパンは。紅生姜がちょっと酸っぱくてさ」
「……この前、僕それ食べてましたよね」
「見てたからね」
「覗きはやめた方がいいですよ。犯罪です」
「かんさつですー!」
あっけらかんと笑う先輩を見て、僕は密かに息を吐く。
なんだ。昨日よりちょっと元気そうじゃん。消えかけてるだのなんだの言っていたけど、案外大丈夫なんじゃないか。そんな甘い考えが頭をよぎっていた。
図書室の前に差し掛かったときだった。
カウンターの中から、図書委員の女子生徒が返却用のブックトラックを押して出てきた。文庫本を崩れそうなくらい抱えている。
「あ、委員長だ」
先輩が足を止め、なんの前触れもなく、その女子生徒に向かって一歩踏み出した。
「ねえ。これ、返却場所ここで合ってる?」
ポケットから取り出した古い文庫本を差し出し、いつもの気さくな声で話しかける。
でも、その女子生徒は――立ち止まらなかった。
「え?」と振り返ることも、急いでるからと避けることもしない。先輩の手すれすれを、何の躊躇もなく通り過ぎていく。まるで最初からそこに空気しか存在していないみたいに、風を切って横を過ぎていく。
「……そっか。やっぱ駄目かー」
先輩は差し出した手をゆっくり引っ込めると、吐いた溜息を小さく吸い込んだ。そして、くるりと僕の方を振り返って、へらっと笑ってみせた。
「御影くんと、あまりにも自然に話せちゃったからさ。なんかイケる気になっちゃってさ。あはは、マジ恥ずい」
おどけたように肩をすくめて見せる。
でも、短めのスカートをぎゅっと掴む右手だけが、痛いくらいに震えていた。爪が白い生地の上から食い込むほど、強く、強く拳を握りしめている。
「……見えてないんだから、仕方ないでしょ」
思わず、そう口が出た。いつものように流してくれると思った。
「……仕方なくないよ」
ポツリと落ちてきた声は、驚くほど低く、小さかった。
「……御影くんまで、それ言うんだ」
先輩が顔を上げた。
いつものヘラヘラした笑顔は消えていた。大声で怒るわけでもない。ただ、静かで、冷めた瞳で僕を見つめていた。
「私はここにいるのに……『仕方ない』で済ましちゃったら、最初からいないってことじゃん」
喉の奥から絞り出すような声だった。通り過ぎていく他の生徒たちの足音だけが、やけに遠く聞こえた。
「……怒れるなら、大丈夫です」
「……何が」
「まだ、僕に怒る理由があるってことだから」
先輩は毒気を抜かれたように瞬きを繰り返し、それから悔しそうに口唇を噛んだ。
「……御影くんは、私が消えても平気そうだね」
「平気なら、わざわざこんな面倒くさいこと言わないですよ」
即答すると、先輩は固まった。
「名簿見たり、図書カード探したり……僕、忘れるのも面倒くさいですけど、無駄な作業をするのはもっと嫌いなんですよね」
素直じゃない言い方に自分でも呆れる。恥ずかしさを誤魔化すように視線を逸らした。
先輩はポカンと僕の顔を見つめていた。それから、溢れそうになっていた涙を袖でゴシゴシと拭うと、不意にクスッと吹き出した。
「……ホント、ひねくれてる」
「……事実を、ただ言っただけです」
*
険悪になりかけた空気を誤魔化すように、僕らは図書室の中へ入った。
昼休みの図書室には、ちらほらと他の生徒の姿がある。
「御影ー。昨日頼んでたノート、ありがとな」
不意に、クラスメイトの男子生徒が僕の横を通り過ぎざまに声をかけてきた。
「後で返すわ」と言ってひらひらと手を振るあいつに、僕は「ああ」と短く返して振り返る。
隣を見ると、紬先輩が足を止め、その生徒の背中をじっと見つめていた。
「……いいな」
ぼそりと、小さな呟き。
「何がですか」
「名前、呼ばれて……ちゃんと振り返ってもらえるの」
さっきまでの怒りも消えて、ただただ自分のつま先を見つめながらぼやいていた。
僕は少しだけ考えてから、わざとらしくため息をついた。
「……先輩も、僕のこと呼べばいいじゃないですか」
「え?」
「僕なら、ちゃんと振り返ります。何回呼ばれてもうざがらないで返事しますから……いや、やっぱり3回くらいまでで」
先輩は目を丸くし、数秒固まったあと――ぱぁっと顔を輝かせた。
「えっ! 今なんて言った!? 『僕なら死ぬまで振り返ります』って言った!?」
「言ってないですね。勝手に誇張しないでください」
「言った言った! うわー、なにそれデレ期? 御影くんのデレ期到来しちゃった!?」
「言わなきゃよかったです」
「あはは! 撤回は不可でーす! じゃあ試すね! 御影くん!」
「なんですか」
「御影くん!」
「今、返事しましたよね?」
「御影くん御影くん御影くん御影くん!」
「うるさいです。3回までにしてください」
僕が本当に毎回ちゃんと返事をすると、先輩は「うわぁ、本当に返事してくれる……!」と感激したように自分の頬を両手で押さえた。いつものテンションの高さを取り戻して、ぴょんぴょんと跳ねるように本棚の奥へ走っていく。
「あ、これこれ! これ借りたかったんだ〜!」
高所にある棚の前で立ち止まり、爪先立ちになって手を伸ばしている。背伸びをしても、目的の本には全然届いていない。
「……」
見かねて後ろから手を伸ばし、背表紙を指で引っかけて取り出してやる。
「どうぞ」
「……あ、ありがとうございます」
「普通に自分で取れないなら頼んでください」
「ふふ〜ん、これでこそ頼れる後輩くん! なんか今のすごくアオハルっぽかったよ!」
「ちょっと意味が分からないです」
照れくさそうに本を受け取った先輩は、嬉しそうに文庫本をひっくり返した。巻末のポケットから紙の図書カードを引き抜き、褪せたインクの『小鳥遊 紬』の名前を誇らしげに見せてくる。
「見て見て、私の名前! 一年の時によく借りててさ、昔はこれ借りる時、司書さんが『またそれ読むの?』って笑ってくれたんだ〜」
「……それ、先輩のなんですね」
「そう! 覚えていてほしいとかじゃなくてね、忘れられたくないだけなんだ」
「……特別になりたいとかじゃなくて、ただ『最初からいなかった』ことにされるのが、ちょっとだけ怖いだけで」
誰に聞かせるでもなく独り言のように言うと、先輩は完全にいつものノリに戻り、手に持った本を抱えて貸出カウンターへ向かった。
「よーし! じゃあ今日も借りていこうかな! 司書さ〜ん、これお願いします!」
いつもの快活な声で、カウンターの中にいる図書委員の前へ差し出す。
……当然、生徒は反応しない。パソコンの画面を見つめたまま、微動だにせず手元を動かしているだけだ。
「……あ」
差し出された本が、宙で止まる。
「あ……そっか。そうだった」
数秒の静寂。
さっきまであんなに高く跳ね上がっていた先輩の声が、一瞬でか細い吐息に変わった。
へらっと自嘲気味に笑い、差し出した本を胸に抱え直す。
「昔はさ、ここで『またこれ読むの?』って言われてたから……なんか、癖で普通に話しかけちゃった。あはは……うわー、恥ずかし」
無理に作った笑顔が、痛々しいほど引きつっていた。
無視されるのとは、違う。
無視なら、まだ相手の世界に自分がいる。
でもこれは、最初から計算に入っていないのだ。
「……忘れるって、そういうことなんですね」
「え?」
「記憶が頭から消えるだけだと思ってました」
「でも、身体が覚えてることまで、急に変えられるわけじゃないんだなって」
先輩は抱えた本をぎゅっと抱きしめ、少しだけ目を伏せた。
「……そうだね。急には、やめられないや」
*
放課後、下駄箱で靴を履き替えてから、ふと振り返る。
校門へ向かって歩く先輩の背中を見つめながら、僕はポケットの中の折りたたんだ紙切れに触れた。
その日から、僕は先輩の変化を気にするようになった。
声の大きさ。
歩く速さ。
笑うタイミング。
そんなものを覚えるつもりなんてなかった。
ただ、忘れたあとに思い出すのが面倒だった。
……たぶん、それだけだと思う。きっと。




