北の神獣、玄武
氷結マンモスとの激戦を終えた翌朝。一行はまだ夜明けの冷気が残る雪原を北へ向かって歩みを進めていた。
踏み締める雪は昨日までの柔らかさを失い、靴底の下で乾いた音を立てて響いていた。
吹雪は去り、雲の切れ間から差し込む朝日が果てしなく続く白銀の世界を照らしているものの、その眩しさとは裏腹に頬へ吹きつける風は容赦なく冷たさを湛えていた。
「昨日の吹雪が嘘みたいだな」
武蔵が空を見上げると、小次郎も白く染まる景色を眺めながら穏やかに頷いていた。
「空はこれほど澄んでいるのに、寒さだけは増しているようですね」
「景色は綺麗なんだが……寒いもんは寒いんだよ」
腹巻へ両手を突っ込んだきゅうすけが耳まで真っ赤にして肩を震わせると、しん吉は呆れたように笑いながらその背中を軽く押していた。
「火の力を持っとるくせに何を言っとる」
「そういう問題じゃないよ!」
二匹のやり取りに阿国が吹き出し、ナリアも小さく笑みを浮かべていた。
その笑顔を眺めながら歩くワイチの胸には、明るさとは裏腹の重みが静かに留まっていた。
風雷はまだ戻っていないし、傷跡を残した王都も、奪われた妖刀も、青白い男の行方も何一つ解決していないままだ。
それでも最後の神獣・玄武だけは救わなければならないという思いだけが、一歩踏み出すたび胸の奥で強くなっていた。
「司馬懿さんが話していた大湖も、もう近い頃ですね」
ナリアの問いに晴明が頷いていた。
「ああ、近付くな、見付かるな、必ず迂回しろ――あの方があれほど強く忠告するのは珍しいよ。
それだけでも十分警戒する理由になっているよ」
「そんな相手なら、一度くらい顔を見てみたい気もするがな」
武蔵は苦笑し、刀の柄へ触れたまま離れなかった。
やがて森が途切れ、吹き抜けた風とともに視界が一気に開けていく。
誰からともなく、一行の足が止まった。
目の前には岸が霞むほど広い湖が静かに横たわり、灰青色の水面は朝日を受けるたび細かな波を銀色へ染めながら、まるで空そのものを大地へ映したように果てしなく広がっていた。
「……海みたい」
阿国が思わず漏らした声さえ、広すぎる景色に溶け込むように吸い込まれていく。
その時、ワイチの視線が湖畔の一点で凍りついた。
最初は雪を被った岩に見えていたものが、風に煽られた水面の光の中でゆっくりと首を上げた。
威厳を湛えた姿を現していくと、背筋に寒気が走った。
「……みんな、静かに」
低く落ちたその一言だけで、その場の空気が塗り替えられていく。
武蔵の笑みは消え失せ、小次郎の眼差しは鋭く細まり、晴明はワイチの視線を追って湖の向こうを見据えていた。
阿国とナリアは息を呑み、しん吉はきゅうすけを庇うように半歩前へ出ると、当のきゅうすけもいつの間にかワイチの背中へ身を寄せて震えていた。
湖畔に立つ一頭の獣は、白銀の身体を包む長い鬣が風に逆らうことなく波打ち、天へ伸びる黄金の角だけが朝日を受けて静かに輝き続けていた。
その姿は、周囲の気配をすべて従えるように、孤高の静寂を纏っていた。
――まさしく麒麟だった。
こちらを見ているわけでもなく、殺気も敵意も感じない。
それなのに武蔵は刀を抜こうとはせず、小次郎も柄へ掛けた指をそのまま止め、晴明は扇を開くことすらためらっていた。
阿国は胸元で握った手に力を込め、ナリアは祈るように目を伏せ、普段は陽気なしん吉ときゅうすけでさえ声を潜めたまま動こうとしなかった。
戦えば勝てるかどうかではなく、近付いてはいけないのだ。
司馬懿の忠告を思い出したからではなく、その場に立つ全員が本能でそう悟り、身動きを封じられていた。
「静かに行きましょう、今は玄武様が先です」
ワイチの言葉を合図に、一行は湖を大きく迂回するように森へ入っていった。
麒麟の姿が木々の間へ消えてもなお、誰も振り返ろうとはしていなかった。
麒麟の姿が木立の向こうへ完全に消えると、一行はようやく張り詰めていた息を静かに吐き出した。
歩幅は自然と揃い、さっきまで笑っていた武蔵でさえ辺りへ目を配りながら雪を踏み締めていた。
靴底が雪を軋ませる音だけが、静かな森へ乾いた音を残していた。
あの麒麟は最後までこちらへ視線を向けることすらなかったのに、森へ入った今も背中を見られているような感覚だけが消えずに残っていた。
「司馬懿さんの言葉を信じて正解でしたね」
ナリアが小さく呟くと、晴明も周囲の気配を探りながら頷いていた。
「ええ、あの方は理由を語りませんでしたが、近付くべきではないという一点だけは間違っていなかったようです。」
「ま、俺でもあれは喧嘩を売る気になれねぇな」
武蔵は肩をすくめて笑ったものの、その表情には先ほどまでの豪快さは戻っていなかった。
「武蔵さんがそんなことを言うなんて珍しいですね」
阿国が少し安心したように微笑むと、武蔵も苦笑しながら頭をかいていた。
「勝てる勝てねぇじゃねぇんだ。あれは……何て言やいいのかな。手を出しちゃいけねぇ相手って感じがした」
「私も同じです、強い相手なら斬る方法を考えますが、あの麒麟から感じたのは強さではなく、この土地そのものを見ているような感覚でした」
小次郎が視線を落としながら話した。
ワイチは、気の流れを見る限り、麒麟の周囲には黒い結晶も邪気も見当たらなかった。
むしろあの一帯だけは澄み切り、周囲の冷気さえ穏やかに感じられたのだ。
「ワイチさん?」
ナリアが不思議そうに声を掛けて、
「どうかしましたか?」
「……ううん。何でもない」
今まで出会ってきた神獣は皆、黒い結晶に侵され苦しんでいた。
青龍も、朱雀も、白虎も、それなのに麒麟だけは、まるで何事もなかったかのように静かだった。
その違いが、胸のどこかへ引っ掛かったまま離れずにいた。
考え込むワイチの横を、しん吉が雪の上へしゃがみ込んだ。
「止まれ」
短い声に全員が足を止めた。
しん吉の視線の先には、小さな黒い結晶が雪の上へぽつりと転がっている。
「黒い結晶だ。」
きゅうすけも駆け寄り、その周囲を見回した。
「あっちにもあるよ」
さらに十数歩先、そのまた奥へと雪の中へ黒い欠片が点々と散らばっていた。
「誰かが撒いたのか……?」
武蔵が眉をひそめた瞬間、森の奥で雪を踏み砕く重い音が響いていた。
ズシン、ズシン。
枝に積もった雪が震え、木々の間から大きな牙猪という魔物がゆっくり姿を現した。
武蔵が刀へ手を掛け、小次郎も長刀を静かに構えた。
家ほどではない巨体、額から伸びる巨大な牙は雪を削りながら前へ突き出され、全身の毛並みには小さな黒い結晶が幾つも絡み付いていた。
「来るぞ!」
誰もが身構えた。
牙猪は立ち止まり、鼻を鳴らしながら雪の匂いを嗅ぐように辺りを見回すと、一行へ視線を向けたまま首をゆっくり傾けた。
「……あれ?」
阿国が思わず声を漏らした。
襲ってこないし、殺気もない。
牙猪はそのまま近くへ落ちていた黒い結晶を踏み越え、森の奥へゆっくり歩き去っていった。
「あれ? 来ない……なんでだろ?」
きゅうすけが目を丸くしていた。
黒い結晶を宿しながらも、魔物は荒ぶることなく遠ざかっていった。
その時、今度は木の根元から三つの角を持つ、三角ネズミという魔物が姿を現した。
こちらも身体へ黒い結晶を付けているものの、やはり牙猪と同じように一行へ視線を向けると、慌てて逃げることも襲い掛かることもなく、落ちていた木の実をくわえて雪原の奥へ走り去っていった。
武蔵は刀から手を離して
「どういうことだ、なんで襲ってこない?」
ワイチは雪の上へ散らばる黒い結晶と、去っていく魔物たちの姿を見つめながら小さく呟いた。
「黒い結晶はあるのに、なんか今までの魔物とは何かが違うな。」
その違和感だけを胸へ抱えたまま、一行はさらに北にある村を目指して歩き始めた。
雪道を抜けるにつれ、道は人の手で踏み固められ、やがて丸太で組まれた柵が見えてきた。
二十軒ほどの家々が並ぶその集落は、北へ来て初めて見る穏やかな日常の光景となっていた。
「魔物が出る土地とは思えませんね」
ナリアが呟くと、一人の老人が一行へ気付き、驚いたように目を丸くしていた。
ワイチが老婆へ声を掛けた。
「この辺りで、黒い結晶を付けた魔物を見かけませんでしたか?」
老婆は返事をする前に、一度だけ北の山へ目を向けた。
「見るとも……最近はよう見掛けるよ」
「でも、不思議と襲われんのじゃ」
その言葉へ被せるように、近くで薪を抱えていた若い女が足を止めた。
「それだけじゃないよ。」
「数日前、気味の悪い男も来てた。」
「青白い肌で、刀を三本背負ってて……山へ黒い石を撒きながら歩いてた。」
若い女は肩を震わせるように腕をさすった。
「ずっと何か独り言を言ってた。……なぜ黒く染まらない、って。」
その言葉に、一行は滝のある北の山を見つめていた。
老婆は滝を見ながら話した。
「昔から霊滝と呼ばれ、穢れを洗い流すと語り継がれるその水は、魔物たちがその滝壺で水を飲んでいるからこそ狂わずにいるのではないか」
黒い結晶の気配はあるが、邪気だけが広がらない。
滝のほとりに佇むであろう玄武様が、その力で結晶を抑え込んでいるのではないだろうか?
一行は村の奥へ続く山道を歩き進んでいった。
踏み固められた雪道はやがて細くなり、左右を覆う杉林が昼間だというのに薄暗い影を落としていた。
耳に届くのは風が梢を揺らす音と、自分たちが雪を踏む足音のみが響いていた。
少し歩くと一歩進むたび空気が少しずつ変わっていくのをワイチは感じ取っていた。
「気が……澄んでる」
自然と漏れた言葉に、晴明が横へ並んでいた。
「分かりますか」
「うん。森で感じた違和感が、どんどん強くなってる」
黒い結晶の気配は確かにあったのに邪気だけが広がらない。
まるで目に見えない何かが、その力を押さえ込んでいるかのようとなっていた。
「水だな」
しん吉が鼻をひくつかせ、
「さっきより濃くなっとる」
冷たい風へ混じって澄み切った水の香りが運ばれてきた。
ほどなくして、遠くから低く響く轟音が聞こえ始めた。
最初は風の音かと思われたが、一歩進むごとにその音は大きくなり、やがて山全体を揺らすような水音へ変わっていった。
「滝ですね」
ナリアが呟くと、木々の隙間から白い水煙が立ち昇り、陽の光を受けて虹が淡く浮かんでいた。
最後の木立を抜けた瞬間、一行は思わず足を止めた。
切り立った岩壁を流れ落ちる巨大な滝は、砕け散った水は白い霧となって辺りを包み、その手前には鏡のように静かな池が広がっていた。
先ほどまで見ていた雪景色とはまるで違っていた。
空気そのものが澄み切り、胸いっぱいに吸い込むだけで身体の奥まで洗われるような感覚に満たされている。
「だから魔物は暴れなかったんですね……」
阿国が静かに呟き、晴明も頷いていた。
「この霊気が黒い結晶を抑えているのでしょう」
老人が池のほとりを見つめながら、小さく頭を下げていた。
「玄武様……旅のお方をお連れしました」
池の水面へ幾重もの波紋が広がった。
霧の向こうから、深い緑色の甲羅がゆっくりと姿を現していく。
長い首が静かに持ち上がり、黄金色の瞳が一行を見つめた。
これが玄武様か。
深い緑色の甲羅、長い首、穏やかな黄金色の瞳をしている。
青龍や白虎より一回り小柄な身体は、まだ若い神獣であることを物語っていた。
「玄武様……」
阿国が思わず声を漏らした。
その姿を見たワイチの表情はすぐに硬くなり、玄武は立ち上がろうとしても力が入らず、池の縁へ身体を預けるようにぐったりとうずくまっていた。
息は荒くなく、苦しそうに暴れる様子もない。それでも、一目で弱っていることだけは誰の目にも分かった。
ワイチはゆっくり近付き、玄武の全身へ視線を走らせた。
気の流れを追った視線が首元で止まり、右前脚、左後脚、そして甲羅の下へと静かに動いていく。
「……見えた。」
武蔵たちの空気が一気に張り詰める。
「結晶は四つです。」
「首に一つ。右前脚に一つ。左後脚に一つ。そして甲羅の裏にあります。」
ワイチは順番に指差した。
晴明が静かに息を吐いて、
「やはり黒い結晶はありますか」
「玄武様」
ワイチは穏やかに微笑んだ。
「安心してください。これなら助けられます」
玄武はゆっくり目を閉じ、小さく頷いた。
「……頼む」
その声は弱々しい。
それでも、ワイチたちを信じる力だけは残っていた。
鉄槌が静かに構えた。
「ナリアさんは回復の準備を」
「はい」
「阿国さん、様子がおかしくなったらすぐ知らせてください」
今まで何度も繰り返してきた治療、だから迷いはない。
ワイチは霊杭を握り締め、最初の結晶がある首元へ近付いた。
「いきます」
霊杭が打ち込まれ、甲高い音とともに黒い結晶は砕け散り、黒い霧が立ち昇っていた。
「きゅうすけ!」
「任せろ!」
浄化の炎が黒い霧を包み込み、跡形もなく焼き尽くした。
続いて右前脚、左後脚。二つの結晶も危なげなく砕け、玄武の表情へ少しずつ力が戻り始めていた。
「あと一つです」
ワイチは甲羅の横へ回り込んで、
「甲羅の裏……少し失礼します」
武蔵と小次郎が力を合わせ、玄武の身体をわずかに持ち上げた。
暗くなった甲羅の裏、そこに最後の黒い結晶が静かに埋まっていた。
「これで終わりです」
ワイチは深く息を吸い込み、霊杭を構えた。
狙いを定め、一気に突き出した。
――キィンッ!
乾いた金属音が滝壺へ響き渡った。
霊杭は結晶へ届くことなく、何か見えない壁へ弾かれたように跳ね返され、地面の上へ転がった。
「なっ、なんだと……!」
ワイチは転がった霊杭と、傷一つ付いていない最後の結晶を見つめたまま息を呑んでいた。
「どうしてだ……」
武蔵と小次郎は思わず顔を見合わせた。
晴明は最後の結晶を見据えたまま、静かに眉を寄せていた。
滝の轟音だけが、静まり返った池へ響き続けていた。
次回予告
ナリア
「玄武様の最後の結晶だけが、どうしても砕けませんでした……」
「霊杭さえ弾いてしまう甲羅。その理由とは、一体何なのでしょうか」
「諦めかけたその時、小さな治療が新たな道を示します」
「気の流れ――その先にある答えとは」
次回 『弾かれる霊杭』




