疾風の剣、剛腕の剣
夜露を抱いた草原を渡る冷たい風が銀色の穂先を鋭く鳴らして二人の頬を凍りつくように撫でていくなか、
その風が運ぶ王都外周の匂いと草の擦れる乾いた音が重なり合い、見張り台の灯が滲む闇の中を武蔵と小次郎は歩き続けた。
「なあ小次郎」
「何です」
「ワイチから聞いた話さ、いまだに信じられないんだよな」
「巌流島の話ですか」
「俺とお前が殺し合ったというのがさ、考えられん」
武蔵が足元の小石を蹴り、その石が草むらへ転がり消えていく中、小次郎が僅かに口元を緩めて応じた。
「考えられませんね」
「だろうな。お前を斬るくらいなら酒でも飲んでる方がいい」
「私も同感です」
二人の笑い声が夜気へ溶けていった余韻の中で草が一筋深く沈み込み、露の粒が左右へ弾け飛んだ。
月光を鋭く引き裂いた一本角が獣の脂臭い気配を纏って武蔵へ襲い掛かり、小次郎の親指が鍔を弾いてカチッという硬質な金属音が夜の静寂を突き抜けていく。
空間を切り裂く刃の震えが小次郎の掌へ伝わり、銀色の軌跡が夜を横切ったものの何事もなかったかのように走り続けた角ネズミが前足へ踏み込みを強めた刹那、
小次郎の手首がしなやかに返って刃が毛並みに触れ、それは熱した刃が冷たいバターをなぞるように抵抗という言葉を忘れた滑らかさで角ネズミの首元を通り抜けていった。
切り裂かれた首筋から噴き出たばかりの熱い血が霧となって宙へ舞い、静まり返った夜の冷たい空気を一瞬で鉄の匂いで塗り替えていく中、
流れる刃は止まることなく初撃の終わりをそのまま次の斬撃へと繋げて月光を浴びた銀色の軌跡が円を描くように返り、着地した獲物が崩れ落ちていった。
「相変わらず速えな」
「速いだけですよ」
小次郎が死骸の向こうにある見えない敵の鱗の質感や踏み込んだ地面の重さを反芻した横で武蔵も同じ景色を見たのか、
いつもの癖で腕を組もうとした手を途中で止め、獲物を狩る本能に導かれるように太刀と脇差の柄を掴み抜いて荒い呼気に殺気を混ぜた。
「強くならなきゃならねえな」
「そうですね、これからも強敵が現れる可能性は高いですからね」
「少し別れてやるか」
「お互い修行ですね」
「周りを見回りしながらな、お前は右、俺は左に行く、真ん中で落ち合おうぜ」
「分かりました」
そのまま二人が背を向け、揺れる草原の中へ消えていく。
小次郎は闇の中に佇み、次々と飛び出す角ネズミを斬ることをやめて跳躍の軌道をただ見守り続けた。
長刀が空を裂き、躱され、空を切る動作を三度、四度と繰り返す、その間も小次郎の眼は草むらの沈み込みとネズミの足裏の角度を追い続け、獲物が地を蹴るたび
決まって同じ場所へ深々と草が押し潰される様を焼き付けるように見守った末に。
次なる獲物が宙に舞った刹那、小次郎は長刀を振るう代わりに切っ先を沈み込んだ草の先へ静かに置いた。
獲物が無防備に地へ着地した瞬間その首筋が刃と交差して鮮やかな赤い線が走り、獲物が前足から崩れ落ちていく様子を見届けて小次郎の口元が僅かに緩んだのだった。
一方、森へ入った武蔵は湿った土の匂いを嗅ぎながら毒棘竜との戦いで腕に残った痺れを揉みほぐし、眼前に聳える古木を見上げて表皮の堅牢さを値踏みし、毒棘竜の鱗ならこの幹よりもさらに硬いだろうと思いを巡らせながら積もる木屑を足で均して太刀を抜いた。
踏み込んだ太刀が幹の表皮を割って食い込むものの硬い抵抗が腕に跳ね返り、三度四度と叩きつけてもガァンという乾いた衝撃音が森の湿気を弾き飛ばすだけであった。
木は揺れず、痺れる腕で太刀の重みを憎らしく感じた五度目、太刀を幹に突き立てたまま荒い息を吐いた武蔵は視界の端で月光を冷たく反射する脇差に目を止め、思考を捨ててそれを抜き放ち、突き立てた太刀の背を脇差の峰で渾身の力で叩きつけた。
ガァンッという先ほどとは比較にならぬ重い破砕音が森の奥まで轟き、幹の奥で繊維が絶望的に砕けて巨木が軋みを上げて傾いていく手応えを武蔵は全身で受け止めた。
夜が更けて月が傾いた頃、再会した二人の呼吸が夜気の中で混じり合った。
常軌を逸した巨大な角ネズミが二匹、殺意を剥き出しにして牙を剥いた。
地を蹴り、宙を舞った角ネズミへ向け、小次郎が動いた。
抜刀の気配すら感じさせぬ、神速の閃光が角ネズミを捉える!
「飛燕返し」
小次郎の刃が空をなぞった瞬間、角ネズミの咆哮は断ち切られた。
重力に従い、獣の首が空中に舞い、胴体は寸分違わず真っ二つに分かたれ、地に伏れした。
残る一匹が、狂乱の形相でその巨大な角を槍の如く突き立て、武蔵へと突撃してきた。
武蔵は一歩も引かず、その剛勇を以て正面から迎え撃った。
「天魔剛衝斬」
武蔵の大刀が唸りを上げ、角ネズミの槍角へと激突した。
火花が散る刹那、間髪入れず重ねられた脇差が太刀の衝撃を押し込み、角ごと獣の命を絶ったのだった。
裂帛の気合とともに、角ネズミの躰は角ごと押し潰され、体が左右に裂け飛んだ
静寂が戻った荒野には、二人の口元には、あまりに鮮やかな笑みが溢れていた。
「……お前、まだ何か隠してるだろ」
武蔵が木屑だらけの拳を握りしめると小次郎は口元をわずかに緩め、長刀を静かに鞘へ収めた。
「武蔵さんこそ。……一つ、試してみますか」
二人が草むらの群れへ同時に駆けていき、風が唸って月光が切っ先を銀色に染め上げた中で森の奥から轟音が響き、鳥の群れが一斉に飛び立つとともに一本の大木が軋みながら地響きを立てて倒れ伏し、静まり返った森の中で互いに荒い息を整えながら笑い合った。
「おいおい……これは予想以上ですね」
「これ結構いいじゃねえか」
「思った以上に凄い、痺れました」
武蔵が倒れた大木を見ながら小さく笑った。
「名前付けるか」
「そうですね」
「巌流なんてどうだ」
「私達の決闘した場所からですか、それは面白い!」
月明かりの下で二人の高揚した笑い声が夜空へ響き、揺れる草原の向こうで倒れた大木だけが新たな剣の誕生を鮮烈に物語っていた。
次回予告
小次郎
「武蔵さん」
武蔵
「なんだ?」
小次郎
「まさか本当に技を作ってしまうとは思いませんでした」
武蔵
「お前だって似たようなもんだろ」
小次郎
「私は少し閃いただけですよ」
武蔵
「その閃きで角ネズミ真っ二つにしてたじゃねえか」
小次郎
「武蔵さんこそ、木まで倒していたでしょう」
武蔵
「あれは気分が良かったな!」
小次郎
「嬉しそうですね」
武蔵
「当たり前だろ。強くなったんだからよ!」
小次郎
「ふふっ、それは否定できませんね」
武蔵
「おい、その笑い方は何だ」
次回
第36話 北方調査開始




