青龍の洞窟
「ま、まさか……青龍の洞窟か?」
森を抜けた先に現れた岩壁は、近づくほどに大きさを増し、上を見ても岩肌の終わりは霧に隠れ、中央には黒々とした穴が開いていた。
風が洞窟の奥から吹き抜け、湿った土と冷えた石の匂いを運んでくる。
「噂だけだと思ってたんだがな。こんなもん、目の前に出されると笑えねぇな。」
「ハロルド殿は、強く入るなと言っていましたよ。調べるのは周辺だけにしておいた方がいいでしょう。聖域と言われている場所に踏み込めば、後で言い訳が立ちませんからね。」
「言い訳で済めばいいがな。」
ワイチは洞窟の奥へ続く闇を見つめた。
昨日、空を横切った青い影が頭に浮かんだ。
速く、美しく、それでもどこか苦しそうに見えたあの姿が、この洞窟と関係しているのだろうか。
その時だった。
――こっちだ。
ワイチの耳に、かすかな声が届いた。
風の音でも獣の鳴き声でもない。
――こっちへ来い。
「……今、聞こえた?」
「何がだ?」
「声だよ、洞窟の中から、こっちへ来いって。」
「そんなの聞こえなかったぞ。」
「私も聞こえませんでした。」
「風が抜ける音じゃねぇのか?」
――こっちだ。
三度目の声が洞窟の奥から響いた。
ワイチはその声を追うように洞窟へ向かった。
「おい、ワイチ、待て!」
「入るなと言われたのを忘れたか、聖域だぞ!」
「忘れてないよ、でも、呼ばれてるんだ。」
「だから、誰にだよ?」
「分からないけど、俺を呼んでるんだ、ずっと。」
「止めても行く気だな、その顔は。」
「長居はできませんから、何かあればすぐ戻りましょう。」
「分かったよ! 勝手に走るなよ! 先頭は俺が行くからな!」
武蔵を先頭に、一行は洞窟へ入った。
◇
洞窟の中は外よりもずっと冷たく、濡れた石を踏むたびに足音が奥へ響いた。
壁には水が伝い、ところどころ青白く光る苔が張り付き、奥へ進むほど外の鳥の声も風の音も消えていった。
やがて、声とは別の音が聞こえてきた。
グゥゥゥゥ……。
獣の唸りにも似た低い声が洞窟全体を震わせていた。
「今のは聞こえたぞ。」
「この奥だ。」
ワイチが足を速めると、通路の先で洞窟が大きく開けた。
そこには全長十メートルほどの巨大な青い龍が横たわっていた。
胴だけでも二、三メートルはあり、横たわっているだけで洞窟の一角を埋め、青い鱗は青白い苔の光を水面のように返し、長い髭が床へ垂れていた。
その巨体が浅く震え、息を吐くたびに鱗の隙間から黒い煙のようなものが滲み出していた。
ワイチには黒い流れが体表へ漏れ出し、青い流れを濁らせているのが見えた。
「青龍様、しっかりして!」
甲高い声が響き、青龍の傍らにいた狐が青い炎を放った。
狐火が鱗の上へ広がった黒い邪気を焼き、ちりちりと音を立てながら消していく。
反対側では狸の爪先が淡く光り、鱗の上をなぞるたびに青龍の荒い呼吸がわずかに静まっていった。
二匹がワイチたちに気付いた瞬間、狐火が一気に膨れ上がった。
「ん?誰だ!」
狸も青龍の前へ回り込んだ。
「貴様ら青龍様に近づくんじゃない!」
「俺たちは敵じゃないよ。」
「敵じゃないなら出ていけ! ここはお前らが来ていい場所じゃないだからな!」
「我々は東の異変を調べに来ました。洞窟へ入るつもりはありませんでしたが、彼にだけ声が聞こえたのです。」
「何、声だと?」
「こっちへ来いって聞こえたんだよ。だから来たんだ。この青龍が呼んだのかは分からないけど、ここへ来なきゃいけない気がしたんだ。」
青龍が低く喉を鳴らした。
「青龍様……?」
返事の代わりに青龍の身体から黒い邪気が滲み出した。
「くそっ、まただ!」
狐はすぐに青龍へ向き直った。
狐火が鱗の上を走り、表へ出た邪気を焼き消していく。
「しん吉、そっちだ!」
「分かってる、分かってるよ!」
しん吉が青龍の腹側へ回り込み、光る爪で鱗の流れをなぞると、荒れていた呼吸が少しずつ静まっていった。
それでも黒い煙は別の場所から滲み出してくる。
「クソっ!また出てきた……!」
「表に出た分は消えてるけど、奥が残ってるんだ。何度やっても、奥から湧いてくるんだ。」
ワイチは青龍の身体へ目を凝らして見ると、黒い流れは体内で細く枝分かれしながら広がり、その全てが身体の奥深くにある黒い塊へ繋がっていた。
「この龍は……?」
「東を守る青龍様だ。」
狐火を放ちながら、きゅうすけが続けた。
「先代はいなくなったせいで、今はこの方が青龍様なんだ。まだ代わったばかりなのに、こんな邪気に侵されて……。」
「だからおいら達が治してるんだ。でも、表は楽にできても奥へ届かないし、おいらの癒し爪がそこまで届けば、もっと楽になるはずなのに。」
「俺の炎もだ。表に出た邪気は焼けるけど、中に残ってる奴には届かないんだ。この前も消えたと思ったら急に暴れ出して、洞窟から飛び出して行ったんだ。」
「昨日の青い影か。」
「あれは青龍様が悪いんじゃない! 中に残った邪気が暴れさせたんだ。東を守る方なのに、あんな姿で外へ出してしまった。」
しん吉は癒し爪を止めなかった。
「止めたかった!でも止められなかったんだよ。俺たちはここで守るしかできないのに、その守る相手を苦しませたままなんだ。」
ワイチが前へ出ると、きゅうすけが振り返った。
「おい、貴様、近づくなと言っただろ!」
「頼む、触らせてくれ。」
「何をする気だ!」
「見えてるんだ。黒い流れが奥へ集まってるのが。だから、触ればもっと分かるかもしれない。」
「見えてる……?」
「きゅうすけ……少しだけだ。」
「変なことしたら焼くからな。」
ワイチは青龍の横へ立ち、冷たく湿った鱗へ手を当てた。
ドクン――。
鼓動が伝わり、そのさらに奥で、別の何かが脈打っていた。
ドクン――。
黒い流れの先で塊がうごめき、そこから伸びた細い筋が青龍の青い流れへ絡みついていた。
きゅうすけの狐火は表へ出た邪気を焼き、しん吉の癒し爪は青龍の流れを整えていた。
「どうだ、何か分かったのか?」
「奥にある黒い塊みたいなのが原因で、そこから全身へ広がってるみたいだ。」
「クソッやっぱりそうか……。」
「じゃあそこを焼けばいいんだろ! どこだよ! 俺の炎をどこへ向ければいい!」
「届かないんだ。場所は分かるが、奥すぎるんだよ、表からじゃ届かないんだ。」
「そんなの分かってたよ、チクショー。」
「ごめん、今は、どうすればいいか分からないです、力になれなくてごめん。」
誰もすぐには言葉を返せず、きゅうすけは出てくる邪気を焼き続け、しん吉も癒し爪を止めなかった。
晴明が床に落ちた黒い欠片を拾った。
「皆さん、一度戻りましょう。ここで考え続けても、今ある手段では届きません。外の異変も報告しなければなりません。」
「なんだ。帰るのかよ。」
「必ず戻ってくるよ。」
「本当か?」
「助け方を考えるよ。今は分からないけど、原因は見えたんだ。何か方法があるはずだ。」
「嘘だったら許さねぇぞ。」
「約束するよ。」
「なら早く考えてくれ。俺たちだけじゃ、これ以上は無理なんだ。」
苦しそうな呼吸のたびに黒い流れが鱗の隙間から滲み出していた。
ワイチたちは洞窟を出た。
◇
王都へ戻る道中、袋の中で小さな黒い結晶と剣虎から出てきた大きな黒い結晶がぶつかり、硬い音を立てていた。
その音を聞くたびに、青龍の体内で感じた脈動が蘇った。
王都へ着くと、一行はそのままハロルドのもとへ向かい、武蔵が袋を机へ置いた。
小さな欠片と魔物の体内から出た結晶が転がり出た。
「……東の奥まで広がっているのか。」
ワイチは東の奥で剣虎が三体現れたこと、同族を襲っていたこと、倒した身体から黒い結晶が出てきたことを話した。
ハロルドは話を聞きながら地図へ印を付けていき、剣虎と遭遇した場所まで来たところでペンが止まった。
「街道沿いだけではないな。」
「森の奥にも広がっています。小さい結晶を魔物が食べているなら、回収しなければ増える一方です。」
「東の街道からその奥までを調べさせる。魔物は討伐、結晶は全て回収だ。すぐに兵士を向かわせる!」
ハロルドは地図を睨み、
「王にも報告しないわけにはいかないな。青白い男の件も含めて、これは冒険者だけで抱える話ではなくなってきた。」
「こりゃ大事だな。」
「すでに大事だ。問題は、どこまで撒かれているかだ。」
「あのー……まだあるんだが。」
「何があるんだ?」
「怒るなよ、頼むから。」
「お前ら、まさか……。」
「実は、洞窟を見つけたんだ。」
「まさか、入ってないだろうな?」
「ちと、入った。」
バンッ!!
ハロルドが机を叩き、
「馬鹿者!」
「やっぱりそうなるよな。」
「当たり前だ! あれほど入るなと言っただろうが! 聖域だぞ! 何かあったらどうするつもりだった!」
「実は、声が聞こえたんです。」
「声?」
「俺にだけ聞こえました。こっちへ来いって。奥へ行ったら青龍がいました。」
「青龍……本当にいたのか?」
「十メートルくらいの青い龍です。東を守る青龍様だって、そこにいた狐と狸が言っていました。」
「狐と狸?」
「きゅうすけと、しん吉と名乗ってました。青龍を治療していたんですが、邪気が奥に残っていて、表に出た分しか治療できなくて困っていたんです。」
「いいから全部話せ。」
ワイチは青龍のことを話した。
表へ出た邪気はきゅうすけの狐火で焼けること、しん吉の癒し爪で一時的に楽にはなること、それでも身体の奥に黒い塊が残り、そこから黒い流れが全身へ広がっていること、昨日暴れて外へ飛び出したのも、その邪気が原因だったこと。
「……聖域に入ったことは褒められんが、青龍が本当にいるとなると話は変わるな。しかも東の守りが邪気に侵されているなら放置できんな。」
ハロルドは地図の東端を見た。
「王への報告内容が増えたな。」
原因は見えたが、治す方法が分からず、その重さを抱えたままワイチはハロルドのもとを後にした。
◇
その夜、ワイチは風ちゃんと雷ちゃんを訪ね、青龍が洞窟にいたこと、きゅうすけとしん吉が治療を続けていること、身体の奥にある邪気へ届かないことを話した。
「中にある邪気か。表に出たものを焼いても、元が残っているなら戻るな。」
「場所は分かるんだよな?」
「見えるし、深さもなんとなく分かるんだけど、そこへどうやって届かせるのかが分からない。」
「風で押し込むのは違うか?」
「炎を奥へ送る道がなきゃ、押し込んでも散るだけじゃないか?」
「邪気だけに届かせないと……。」
ワイチの頭には何度も青龍の巨体と、その奥にある黒い塊が浮かんだ。
「どうやって届かせればいいんだ……。」
一人と二匹で話をしたが、答えは出なかった。
◇
帰り道、村正宗の工房の前を通ると声が飛んできた。
「ワイチ、どうした、そんな顔して。」
「村正宗さん、実はちょっと悩んでいて……聞いてもらってもいいですか?」
「まあ、入れよ、そんな顔で立ってられると、こっちまで落ち着かねぇ。」
ワイチが工房へ入ると炉の熱が頬に当たり、作業台には革や金具、細い道具が並んでいた。
「で、どうした?」
ワイチは青龍の身体の奥にある黒い塊と、そこから全身へ広がる黒い流れ、きゅうすけの狐火もしん吉の癒し爪も表へ出た邪気には効いているのに、奥までは届かないことを話した。
「青龍様だって? マジか、いたんだな。まあ、それはいい。で、場所は見えるんだな?」
「俺にはしっかり見えるんですよ。流れも深さも、ただそこへ届ける方法が思いつかなくて。」
「炎も爪も届かない。届けば何かできるかもしれない。」
「そこなんです。きゅうすけの炎が弱いわけじゃないし、しん吉の癒し爪が効いてないわけでもないです。ただ、届いてないだけなんです。」
「届いてないだけ、か。」
「青龍様だからな。下手なことはできねぇし、答えはすぐには出ねぇな。」
「ですよね……。」
「でも、風ちゃんと雷ちゃんは最後まで話を聞いてくれて、一緒に悩んでくれたんですよ。いつも心配してくれて、ありがたいんですよね。」
「あいつら、怖い顔してる割にいい奴らだな。」
「本当にいい奴らですよ。いつも助けてもらってばかりなんです。今回もそうだし、最初からずっと。」
「なら、何か形にしてやればいい。」
「形?」
「何かしてあげれば、あいつら喜ぶぞ、きっと。」
ワイチの目が作業台に置かれた革へ向いた。
「首輪……とか?」
「守り獣なら悪くねぇな。それ、いいかも!」
「風ちゃんと雷ちゃんに似合いそう。」
「名前も入れるか?」
「入れたいです。風ちゃん、雷ちゃんって。」
「全部入れるより、風と雷の方が締まるぞ。」
村正宗は革を作業台へ置き、細い鏨を手に取った。
「見てろ。」
トン――。
小さな鉄槌が鏨を叩き、その先が革へ沈んだ。
トン、トン――。
乾いた音が工房へ響き、叩かれるたびに狙った線だけが深く刻まれていく。
強すぎれば革が裂け、弱すぎれば跡が残らない。
村正宗の手はそのぎりぎりを外さず、革の上に少しずつ文字が浮かび上がった。
風――トン、雷――トン。
「すごい……。」
「深く入れるほど慎重にやらねぇとな。狙いがずれたら直せねぇからな。」
トン――。
「細いのに、そんなに深く入るんですね。」
「細いから入るんだ。太けりゃ周りを壊すだろ? 細すぎれば曲がるしな。狙った場所へ、曲がらず深く入る硬さがいるんだ。」
トン、トン――。
ワイチの頭に青龍の身体が浮かんだ。
太い胴、その奥にある黒い塊。
届かない狐火、届かない癒し爪。
届いていないだけだ。
そこまで道があれば。
そこまで届くものがあれば、細くてもいい。
真っ直ぐ、深く、必要な場所へ届けば。
トン――。
最後の音が、やけに大きく聞こえた。
「村正宗さん!」
次回予告
ナリアです。
青龍様は、とても苦しそうでした。
私たちに何ができるのか、まだ分かりません。
それでも、諦めたくありません。
次回、『闇を砕いて、この一撃』




