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第六話 傀儡に芽生えた自我

午前十時。参議院第一委員室。予算委員会のテレビ中継。国会内で最も注目を集める第一委員会室は、独特の熱気に包まれていた。テレビ中継のカメラが並び、記者席は隙間なく埋まっている。

雛壇の最前列には、新総理である山屋が、緊張でこわばった表情で座っていた。そのすぐ真後ろの席には石橋が控えている。石橋はいつものように穏やかな、しかし一切の隙がない佇まいで、手元の資料に目をやっていた。石橋にとって、この予算委員会もまた、事前に組み立てられた予定調和の舞台に過ぎなかった。野党の質問に対する答弁書は、完璧に用意されている。山屋がそれを間違いなく読み上げれば、それで終わるはずだった。

質問に立ったのは、野党第一党・正大党の代表であるもはら健太だった。

専は序盤、一般的な経済政策や外交・安全保障政策について山屋を追及した。山屋は石橋の指示通り、手元の答弁書を一言一句違わずに、甲高い声で淡々と読み上げていった。その様子は、事前のリハーサル通りであり、委員会室には退屈な空気が流れ始めていた。

しかし、質問の制限時間が残り五分となった時、専は手元のバインダーから一枚の紙を取り出し、ゆっくりと読み上げた。

「ここで十年前の衆議院総務委員会における、総理のご発言を紹介させていただきます。覚えておいでですか?」

通告にない質問——山屋の身体が、一瞬だけ目に見えて硬直した。

「この中で、総理は非常に興味深いことを仰っている。政治資金の透明性を確保するためには、現行の政治資金規正法は生ぬるい。企業・団体献金の規制を強化すべく、代表者の監督責任を明記する。そして、会計責任者が処罰された場合は、政治家本人も公民権停止とする。さらに、パーティ券購入者の公開基準を五万円超に引き下げるべきだー。我が党の主張とも一致する、実に見事な正論であります」

専は質問席の演壇に両手をかけ、上体をわずかに前方へと傾けた。物理的な距離は殆ど変わらないはずだが、その鋭い眼光は、山屋に対する心理的な間合いを一気に詰めるだけの威圧感を孕んでいた。

「洗井前総理が金銭スキャンダルで退陣し、今まさに国民は政治のクリーンさを求めています。そしてその総理の座に就いたのは、かつて誰よりも熱烈に政治資金の透明化を訴えていた、山屋さん、あなたです。かつて掲げたその熱い理想は、総理の椅子と引き換えに、どこかへ投げ捨ててしまわれたのですか? それとも、今もお気持ちは変わらないのですか?」

委員会の空気が、一瞬で張り詰めた。

秘書官たちが慌てて答弁書を繰るが、そのような質問に対する想定問答など、用意されているはずがなかった。石橋が事前に山屋へインストールしていたのは、「前内閣の件は捜査中であり、コメントを控える」という、想定内の追及を機械的に処理するための画一的な防護プログラムに過ぎなかった。自らの過去の信条という完全に計算外の角度から突きつけられた刃に対し、その汎用的な防壁は何の機能も果たさない。

「山屋内閣総理大臣」委員長の指名に合わせて、山屋が答弁席へと向かい、手元のマイクを見つめた。彼の脳裏に、様々な感情が去来していた。

連日、石橋から「あなたはただ座っていればいい」と言われ続け、自尊心をズタズタにされていた日々。自分は本当に空っぽの人形なのか。いや、違う。自分にも、かつて誰にも見向きもされずとも、日本の政治を変えようと考えた誇り高き瞬間があったはずだ。

極度の緊張と、己の存在意義を証明したいという強烈な衝動が、山屋の理性を上回った。

「……専委員のご質問にお答えいたします」

山屋は顔を上げ、専をまっすぐに見据えた。その声には、これまでの朗読劇にはなかった、奇妙な生気が宿っていた。

「私が十年前、あの委員会で申し上げた信念は、今も微塵も変わっておりません。洗井前内閣の一連の問題を見て、国民の皆様が政治不信を募らせているのは当然のことであります。私は、この内閣の使命として、代表者の監督責任の明記、ならびに政治家本人の公民権停止の厳格化、そしてパーティ券購入者の公開基準の五万円超への引き下げに向け、具体的な議論を開始すべきだと考えております。不退転の決意で、これに臨む所存です」

議場が、一瞬の静寂の後に、大きなどよめきに包まれた。

野党席からは驚きと称賛の入り混じった声が上がり、与党席の重鎮たちは一斉に顔を見合わせた。誰への根回しもない、総理大臣単独での、あまりにも具体的な「政治資金規正法改正」の表明。それは、裏金や政治資金の処理を生命線とする政友党の主流派に対する、事実上の宣戦布告に等しかった。

その瞬間、テレビ中継のカメラは、洗井の席の真後ろの席に座る石橋の姿を大画面で捉えていた。

石橋は、微動だにしていなかった。その表情は相変わらず能面のように冷ややかだった。しかし、ほんの一瞬、わずか数ミリほど、彼の右の眉間に深いシワが刻まれた。

それは、どれほど鋭い政治記者であっても見落とすような、微細な変化だった。だが、石橋のすべての計算が、自らが選んだ最も安全なはずの操り人形の手によって、完全に狂わされたことを示す、決定的な綻びの瞬間だった。


委員会が休憩に入った昼過ぎ。再び、首相官邸の総理執務室。

「石橋長官! 私は、私はただ……!」

山屋は、デスクにしがみつくようにして、石橋に向かって声を震わせていた。委員会室でのあの高揚感は完全に消え去り、今の山屋は、自分がしでかした事の重大さに気づき、極度の恐怖でパニックに陥っていた。

「私は、専さんにああまで言われて、党のクリーンさをアピールするチャンスだと思って……決して、石橋さんに逆らうつもりなんて……!」

石橋は、デスクの前に静かに立ったまま、山屋を見下ろしていた。その目は、もはや人間を見るものではなかった。故障して勝手に動き出した、出来損ないの玩具を見るような、絶対的な拒絶の光が宿っていた。

「総理」

石橋の声は、低く、静かだった。しかし、それがかえって山屋の恐怖を倍増させた。

「公開基準の五万円超への引き下げ……公民権停止……それが、我が政友党の集金基盤にどれほどの壊滅的な打撃をもたらすか、一秒でも考えられたのですか?」

「そ、それは……しかし、国民の支持を得るためには……」

「国民の支持など、我々がいくらでも作って差し上げる」

石橋は一歩、山屋に近づいた。その距離感だけで、山屋は息が詰まりそうになった。

「あなたがやるべきことは、私共が書いた原稿を、ただ正確に音読することだけだった。過去のつまらぬ感傷に浸って、なぜ余計な真似をしたのです。あなたが総理の椅子に座っていられる理由を、もう忘れてしまったのですか?」

「申し訳ございません……撤回します、今日ぶら下がりをやって、あれは個人的な見解で、政府の方針としては慎重に議論するということだったと、すぐに訂正します!」

山屋は涙目になりながら、プライドも何もかも投げ捨てて懇願した。

「手遅れです」

石橋は冷酷に言い放った。「スマートフォンをお持ちなら、今すぐニュースをご覧になるといい」

山屋が慌ててデスクの上の端末を操作すると、主要メディアの見出しが画面を埋め尽くしていた。

『山屋首相、企業献金規制に「不退転の決意」表明』

『公開基準5万円へ引き下げ明言、政友党の闇に切り込むか』

『SNSでは絶賛の声、「これまでの総理とは違う」「山屋無双」』

洗井前内閣の泥泥とした醜聞と、旧態依然とした政友党の体質に対し、世論の嫌悪感はすでに飽和点に達していた。出口のない閉塞感に苛まれていた大衆にとって、山屋の計算なき即興の言葉は、乾ききった砂に染み込む一滴の水だった。人々はそれを、待ち望んでいた清新なリーダーの息吹として熱狂的に迎え入れようとしていた。

「皮肉なものですね」

石橋は、冷たい笑みを浮かべた。「あなたが勝手に喋ったせいで、内閣の支持率が上がってしまった。今、あなたがその発言を撤回すれば、国民は『やっぱり政友党の黒幕に潰されたんだ』と気づく。そうなれば、支持率は再び底なし沼に落ちる。つまり、今の私は、あなたのその愚かな発言を、政府の方針として認めざるを得ない状況に追い込まれたわけだ」

石橋は、ゆっくりと山屋から視線を外した。その顔には、これまで決して見せることのなかった、深い屈辱と怒りが滲んでいた。自分の描いた完璧なプロットが、無能な役者のアドリブによって書き換えられたのだ。

「あなたを、買い被っていたようだ。何もできない無能だと思っていたが……まさか、これほど質の悪い爆弾だったとはな」

石橋はそれだけ言い残すと、山屋の謝罪の言葉を遮るように、乱暴に執務室を出て行った。残された山屋は、自分の命を救ってくれたはずの「世論の絶賛」という名の鎖に縛られながら、ただガタガタと震え続けるしかなかった。


同日午後七時。参議院議員会館、天馬の自室。

夕闇が永田町の無機質なビル群の輪郭を侵食し始める時刻。桂東が淹れたコーヒーのほろ苦い香りが、密室に漂う微かな緊張を中和するように満ちていた。

「シミュレーション通りでしたね、天馬さん」

八村が安堵の息を吐きながら言った。

「まだ、喜ぶのは早いわ」

天馬はマグカップを両手で包み込みながら、静かに首を振った。

「石橋はこのまま黙っているような人じゃない。世論の風が山屋総理に吹いているうちは動けないだろうけど、必ず裏で別の手を打ってくる」

「だけど、これで舞台は整ったわね」

桂東が、窓の外に広がる永田町の夜景を見つめながら言った。

「山屋が『規正法改正の議論を始める』と言明した以上、国会に特別委員会が設置されるわ。そこで法案の具体的な中身を議論することになれば、嫌でも『政治資金の裏ルート』について突っ込まざるを得なくなる。それはつまり——」

「ええ」天馬は強く頷いた。「政友党の『闇の資金源』。そこに繋がるルートが、大義名分を持って白日の下に晒されることになる。石橋がどれだけ隠蔽しようとしても、総理大臣が『やれ』と言った議論を合法的に止めることはできない」

「石橋さん。あなたは私を閣内に取り込んで、牙を抜こうとしましたね」

天馬は、街灯やビルの窓明かりが人工的な星空を作り出し始めた窓外に向かって、静かに、しかし物理的な重さを持った確かな声で呟いた。

「でも、残念でした。あなたの作った最高の人形は、もう自分の意志で踊り始めてしまったわ。これから始まるのは、あなたの書いたシナリオにはない、本当の政治よ」

完璧だった支配者の足元に、決定的な一本の亀裂が入ったかに見えた。


同日深夜。

都内某所にある、看板のない高級会員制サロンの奥の個室。

分厚い防音扉によって外界から完全に隔絶されたその空間には、二人の男だけが静かに向かい合っていた。

一人は内閣官房長官、石橋裕雄。もう一人は、内閣情報官の古井明夫である。

一九九一年に警察庁に入庁して以来、古井という男は、喜怒哀楽といった人間的な感情を自身の内面から完全に削ぎ落とすことに心血を注いできた。一見すると何処にでもいるうだつの上がらない中年公務員。しかしその平凡さこそが、彼の最大の武器だった。彼は風景に溶け込み、誰の記憶にも残らず、ただ冷徹に国家のインテリジェンスを収集し、選別し、処理する。

かつて洗井内閣において、古井は形の上では洗井の部下として動いていた。しかし、それはあくまで表向きの指揮系統に過ぎない。諜報のプロフェッショナルである彼は、永田町における真の権力の所在、すなわち“誰の命令に従うことが最も合理的か”を、細胞レベルで理解していた。

「……例の件、やはり洗井は最後まで気づかなかったようですね」

石橋がグラスの氷を揺らすと、古井は抑揚のない、まるで気象情報を読み上げるかのような声で口を開いた。

自身の保身で頭がいっぱいだった洗井の意を汲み、阿田が『竜燕會』という非合法の暴力装置を起動させ、戸頃を物理的に排除した一件。古井は、警察庁の後輩である小柳と共に官邸の忠実な歯車として機能するフリをしながら、阿田が水面下で構築した暗殺プロセスの全容を、秘書を通じてリアルタイムで石橋に転送し続けていたのだ。

「洗井は、阿田が裏で手配したヒットマンの動きも、戸頃の最期も、すべて自身の権力によってシステムが作動した結果だと錯覚していました。彼が『これで完全に隠蔽できた』と安堵するたびに、その情報はすべて長官のデスクに上がっていたわけですが」

「人間というものは、自分の描いた計算式を盲信する生き物だからね」

石橋は薄く笑った。

「都合の悪い変数は存在しないものとして扱い、解が自分の望むものになると信じ込む。洗井の最大の欠陥は、自分が盤上のプレイヤーではなく、駒の一つに過ぎないという物理的な事実に気づけなかったことだ」

石橋はグラスをテーブルに置き、その冷ややかな眼差しを古井の眼鏡の奥へと向けた。

「だが、計算違いを起こしたのは私も同じだったようだ。……山屋太郎。あの無害な人形が、自らの意思で歩き出すとはね」

石橋の言葉に、古井はわずかに顎を引いた。

「内調の総力を挙げて、山屋を解剖しろ。手段は問わない」

石橋の声は静かだったが、その奥には、これまで決して見せることのなかった絶対的な殺意が冷たく横たわっていた。

「交友関係、カネの流れ、親族、過去の女。何でもいい。アイツの首に巻き付け、完全に息の根を止めるための『致命的な欠陥』を探し出せ。無菌室で育ったような顔をしているが、人間である以上、必ずどこかに綻びがあるはずだ」

「承知いたしました。すぐに動かします」

古井は無駄な所作を一切省いた一礼を残し、音もなく部屋を後にした。


深夜の冷気に沈む裏通り。街灯の死角に同化するように息を潜めていた公用車、レクサスLS600hl(品川 956 き 1227)の分厚いドアを閉め、外界の音を完全に遮断した車内で、古井はすぐさま内調の極秘ラインを起動させた。標的は、現職の内閣総理大臣。国家の治安維持機構が、その最高権力者の背中を冷酷に狙い撃つという、およそ法治国家の建前を根底から覆す暗闘が、静かに幕を開けた。


それからの数日間、内調は文字通り昼夜を問わず、手段を選ばず、山屋太郎という人間のすべてを洗い直した。

彼らが用いる手法は、遊軍記者などが足で稼ぐようなアナログなものではない。国家のデータベースへの直接アクセス、通信傍受、金融機関の非公式な照会、さらには彼が過去に接触した数百人に及ぶ人物の行動履歴の交差検証。デジタルとアナログを組み合わせた、網の目から水一滴すら漏らさない完璧な包囲網だった。

だが、調査開始から一週間が経過した深夜。

古井は自身のデスクで、部下たちが積み上げた分厚い報告書の束を前に、奇妙な感覚に陥っていた。

(……何もない)

古井は眼鏡を外し、眉間を揉んだ。

報告書に並ぶ文字列は、あまりにも無味乾燥だった。東京都文京区の裕福な家庭に育ち、地味な学生生活を送り、親の地盤を継いで政治家になった。事務所の会計記録は、一円の狂いもなく透明。企業からの怪しい献金は皆無。夜の街での遊興歴もなく、妻以外の女性の影も存在しない。

最初は、山屋が極めて巧妙に証拠を隠滅しているのではないかと疑った。しかし、調査を深めれば深めるほど、古井はある一つの結論に達せざるを得なかった。

山屋太郎は、聖人君子だからクリーンなわけではない。彼には、政治家としての「執着」や「欲望」そのものが、根本的に欠落していたのだ。

権力欲、金銭欲、色欲。他者を蹴落としてでも上に這い上がろうとする、政治家特有のドロドロとした熱量。それらが一切ないからこそ、彼は何も裏工作をする必要がなかった。ただの「空っぽの器」。だからこそ石橋は彼を神輿に選んだのだが、その空っぽさが今、内調の鋭利なメスをすべて空振りさせていた。

「人間には必ず裏がある、か……」

古井は報告書をパラパラと捲りながら、無感情に呟いた。山屋という男の人生は、まさに何もない真空だった。叩けば埃が出るのが永田町の常識だが、山屋は叩くべき肉体すら持たない幽霊のような存在だ。


翌朝、古井は再び石橋の元へ赴き、事実のみを淡々と報告した。

「……スキャンダルは、皆無です」

「皆無?」

石橋は、山のように積まれた党の決裁書類へ機械的なリズムで象牙の印鑑を打ち下ろしていた右手を、紙面の数ミリ上でピタリと静止させ、怪訝そうに眉をひそめた。

「文字通り、何もありません。過去三十年に遡って資金の流れを追い、親族の口座まで洗いましたが、不正蓄財の痕跡はゼロ。交友関係も、環境問題関連のNPO法人との地味な交流があるのみ。愛人はおろか、行きつけのクラブすら存在しません。彼は、我々の想像以上に『何もない男』でした」

石橋は印鑑を朱肉の横へコトリと置き、深く息を吐いた。

弱みがない。それはつまり、脅すためのカードが存在しないということだ。恐怖による支配を原則とする石橋にとって、これほど扱いづらい存在はない。

「厄介なことになったな」

石橋の呟きは、重く、淀んでいた。


時を同じくして、永田町の空気は、石橋の思惑とは正反対の方向へと、猛烈なエネルギーを伴って吹き荒れていた。

予算委員会での山屋の「企業・団体献金の規制強化」「公開基準五万円超への引き下げ」という発言は、洗井政権の裏金スキャンダルに辟易していた国民の心に、強烈なカタルシスをもたらしていたのだ。

『ついに本物の政治家が現れた』

『身を切る覚悟を持った、孤独な改革者』

メディアは連日、山屋の過去の発言や地味な実績を掘り起こしては、彼を「永田町の闇に立ち向かうヒーロー」として持ち上げた。SNS上では彼を礼賛する言葉が爆発的に拡散し、山屋内閣の支持率は、発足直後の四十パーセント台から、わずか数週間で七〇パーセントを超えるという異常な数値を叩き出していた。

世論というものは、一度熱を帯びると、もはや論理や理性では制御できない物理現象に変わる。巨大な質量の岩が斜面を転がり落ちるように、その勢いは誰にも止めることができなかった。

そして、その圧倒的な世論の熱狂を背景に、野党だけでなく、天馬をはじめとする政友党の若手議員たちまでが同調し、国会は一つの大きな決定を下した。

衆参両院における『政治資金規正法改正に関する特別委員会』(通称『政改特』)の設置である。

山屋が独断でぶち上げた法改正を、具体的な議論としてテーブルに載せるための公式な舞台。それが設置されるということは、政友党がこれまでひた隠しにしてきた『裏の集金システム』を、白日の下に晒して解剖することに他ならない。


院内参議院幹事長室。

石橋は、自席のデスクに置かれた一枚の決裁書類を、無表情で見下ろしていた。

『政治資金規正法改正に関する特別委員会の設置に関する合意書』

野党側が突きつけてきたこの要求に対し、与党の参議院を束ねる石橋がハンコを押せば、委員会は正式に発足する。

もしこれが一ヶ月前であれば、石橋は鼻で笑って握り潰していただろう。「時期尚早」だの「他党との調整が必要」だの、適当な理由をつけて委員会そのものを空転させることなど、彼にとっては造作もないことだった。

しかし、今は違う。

山屋のあの発言と、熱狂する七十パーセントの世論。もしここで石橋が特別委員会の設置を拒否すれば、メディアは一斉に「政友党のドンが改革を潰した」「石橋こそが抵抗勢力だ」と書き立てるだろう。そうなれば、怒れる民意の矛先は石橋自身へと向き、次の選挙で党は壊滅的な打撃を受ける。

(……合理的ではない)

石橋の脳内で、冷徹な計算式が弾き出されていた。

感情論で動く大衆を敵に回すのは、下策中の下策だ。ここは一旦、引くしかない。

石橋はデスクの引き出しを開け、朱肉を取り出すと、一切の躊躇なく書類に印を押し当てた。

「よろしいのですか」

傍らに控えていた秘書が、不安げに声をかけた。

「構わん。建前上、ここで首を縦に振らない理由がないからな。……それに、議論の場を与えられたと野党が喜んでいるうちは、彼らも大人しい」

スキャンダルという致命的な『自爆装置』が欠落した山屋という特異点。そして、彼が偶然引き起こした異常な世論の熱狂を巨大な梃子として振るい、党のブラックボックスを力技でこじ開けようと躍起になる天馬や野党たち。彼らは今、政改特という輝かしいステージを手に入れ、自分たちの計算式が石橋を完全に追い詰めたのだと錯覚しているだろう。

だが、石橋の目は笑っていなかった。

法で裁けない相手。世論を味方につけた相手。それらを盤上から排除するためには、もはや「政治」というルールの内側で戦う必要はない。

「……古井には引き続き、山屋の監視を命じておけ」

窓ガラスに反射する石橋の顔は、完全な暗黒に染まっていた。

光の当たる委員会室で正義の議論が始まろうとしているその裏側で、国家という巨大なシステムを維持するための、最も凶悪な防衛本能が静かに作動し始めていた。


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