56.
この頃になると、時間の流れも速く感じた。人間の現実逃避という『慣れ』は強い。何も考えず、何も感じないように意識を沈めるのにも、段々と慣れてきた。
今日は私とオーランドの結婚式だ。
周囲の喧騒が、まるで分厚い水層を通したかのように遠く、濁って聞こえる。意識の中の思考が、ぐわんぐわんと揺れている。
純白のドレスに身を包まれ、幾人もの手によって飾り立てられていく自分を、私の精神はただ冷めた目で見つめていた。鏡の中にいるのは、本当に私なのだろうか。いや、私ではない。こんなのは私の求めていた生き方じゃない。
「とても綺麗ですよ。花嫁さんのご幸せを祈っています」
化粧や装飾を施してくれた誰かがそう言って微笑み、案内してくれる。その優しささえも、今の私にとっては煩わしく、腹立たしいものに感じていた。
重厚な扉が開くと、眩いばかりの光と、参列者たちの視線が一斉に突き刺さる。バージンロードの先には、白のタキシードに身を包んだオーランドが待っていた。彼はいつも通りの、しかしどこか見透かすような冷徹さを孕んだ瞳で、こちらを見つめている。私には父がいない。だから母とバージンロードを歩んだ。一歩、また一歩と彼へと近づくにつれ、逃げ場のない現実が足元から這い上がってくるようだった。
私の手を取り、祭壇へと導くオーランドの指先は、驚くほどに強かった。ギリギリと骨がきしむほどの強さは、慈しみなどではなく、『もう二度と逃がさない』とでも言いたいようだ。
神父の厳かな声が、高く広い聖堂の天井に響き渡る。愛の尊さ、生涯を共にすることの大切さ。本来であれば幸せいっぱいの恋人同士に贈られるであろうその有難いお言葉も、私の耳を素通りしていく。強い不快感。
そうして、言葉の数々の中で、ついにその瞬間が訪れた。
「……では、新郎オーランド=レッドグルール。あなたは、健やかなるときも、病めるときも、彼女を妻とし、愛し、敬い、生涯を共にすることを誓いますか」
静寂が満ちる。会場中が呼吸を止め、ただ隣に立つ男の次の言葉を待っていた。
神父の問いかけに対して、オーランドは迷いのない、低く滑らかな声で答えた。
「はい、誓います」
その声には、この結婚への躊躇も、不満も不安も混ざっていない。ただ、あらかじめ決められた台本を完璧に音読したかのような、美しい冷徹さだけがあった。何も覆せなかった。
そして、神父の視線がゆっくりと私へと移る。聖堂内のすべての視線が、私の唇の動きを待つようにして一斉に集まった。視線が気持ち悪い。
「新婦リーシャ=スプライント。あなたは、健やかなるときも、病めるときも、彼を夫とし、愛し、敬い、生涯を共にすることを誓いますか」
問いかけが、耳の奥で重く、鈍く響く。
何も考えず、何も感じないように沈めていた意識が、その言葉によって無理やり表面に引きずり上げられるような感覚を覚えた。
私の視線の先で、オーランドがわずかに目を細め、静かに私を見つめている。その瞳は、私がどのような答えを返してくるのか、すべてを理解しているようだった。
私の身体はゆっくりと息を吸い込み、固く閉じていた唇を開こうとしていた。
やめて、やだやだやだやだやだやだ。助けて、誰か。私がどんな悪いことをしたというの?こんな男と結婚なんてしたくない。
誰か助けて。そう強く、強く願った瞬間。
ドガァァァン!!!
遠くで何かが思い切りぶつかり合うような音が異音が聞こえた。
何の音だろう。会場が軽くざわついた。
私の思い通りに動いてくれないこの身体も、この時ばかりはまるで凍てついたように動きを止めてくれた。
「リーシャ!!」
聞こえたのは、とても聞き覚えがある声。これは――
「聞こえるか!!単刀直入に言う。お前はオーランドの魔法の中にいる」
クレイヴ先生だ。
魔法の中にいる。その言葉でピンときた。私はきっと、この今の地獄はきっと、『魔法』なのだ。
ああ、そうか、やっぱりそうだったんだ。この理不尽な絶望も、友人たちを傷つけたあの最低な言葉も、動かない身体も、すべてはオーランドが仕組んだ、卑劣で独りよがりな『魔法』の世界だったのだ。その事実が、分かった瞬間に、涙が出そうなほどに嬉しかった。私は狂っていなかった。私は、こんな絶望的な未来の中にいなかった。
「俺たちは干渉できない。だから、お前自身で魔法を撃ち破るんだ!!」
神聖な結婚式場に響き渡る、先生の不躾で、けれど泥臭いほどに必死な叫び。
けれど、そんなことを言われても、身体はまだ指一本動かせない状況なのだ。どうしろと言うのだ。せっかく見えた希望の光だったが、余計に今の無力さを際立たせて、胸が引き裂かれそうになる。無理難題にもほどがある。
「自分に自信を持て!お前なら出来る!……お前は、この俺が、世界で一番才能があると認めた最高の弟子なんだ!!」
心臓が、跳ねた。
「自分を信じて、進め!!!俺は、他の誰が疑おうと、世界中の誰もがお前を否定しようと――誰よりもお前のことを信じている!」
お前のことを信じている。
その言葉で、頭を殴られたような感覚に陥った。そうだ、私にはたくさんの味方になってくれた人がいる。
私はずっと自分に対して失望して、自分は好きなこともない空虚な人間だと自信なく生きてきた。きっとそれは、複合魔法やスタチュエットに出会って、周囲に認められた後も、ずっと心の奥底に澱のように残っていた卑屈さだった。
でも、違う。クレイヴ先生は、最初から私自身を見てくれていた。私の努力を、私の苦悩を、私の魔法を、誰よりも近くで信じて、導いてくれた。
自分を信じる。本当の意味で、自信を持つ。
やったことがないが、確かに私は自分の努力を認めて、自分を信じてみても、信頼してみても良いのではないのだろうか。自信を持っても良いのだ。
なんだかお腹の中心から熱い何かが込み上げてくるような感覚があった。
「なんだったんだ、今のは。まあ、いい。誓いの言葉を再開してくれ」
オーランドは何かとぼけたような、怒っているような様子で神父に再度言葉を促した。
「新婦リーシャ=スプライント。あなたは、健やかなるときも、病めるときも、彼を夫とし、愛し、敬い、生涯を共にすることを誓いますか」
目を見開く。
私は明確に、私自身の意志で、私自身の身体が動くことを信じ、勝利を確信していた――。
「誓う――わけねえだろ!!このボケが!!」
令嬢に似つかわしくない、今まで放ったことのないような乱暴な言葉。
そして、私からの誓いの言葉を待ってキス待ちをしていたオーランドのその間抜けな顔に思い切りビンタをした。
聖堂内に、肉と肉が激しくぶつかる快音が響き渡る。オーランドの顔が文字通り歪み、綺麗な体勢が崩れる。
「私は、貴方のことが大っ嫌い!!何が、関心を引くために婚約解消の話を出していた、よ!自意識過剰で都合の良い脳味噌してんじゃないわよ!花でも咲いてるわけ?私は本気で、心の底から貴方と縁を切りたかったの!!!他にも色々と私の大切な人たちを愚弄して、勝手なことばかり言って!!私はあんたのことが、本当に本当に、反吐が出るほど大っ嫌いなのよ!!!」
今まで溜め込んできた、そしてこのおぞましい魔法世界で積もりに積もった地獄のような恨みを全て吐き出すように、床に倒れこんだオーランドの胸ぐらを掴み、容赦なく連撃を仕掛ける。令嬢の平手打ちではない。拳を固めたグーでのパンチだ。
「この最低男!」
「人の人生を弄ぶな!」
もう、ボコボコにして、その綺麗な顔を二度と人前に出せないようにしてやるという猛烈な怒りで、どれだけ自分の手に痛みが走ろうとも、今までのすべての怒りと呪いをぶつけながら、大嫌いだと言いながら、彼の顔面を何度も何度も殴り続けた。オーランドが驚愕と恐怖に目を見開くのを見下ろしながら。躊躇いはなかった。
そして目の前が、今度は真っ白な光に包まれる。
目に映る景色が、あの闘技場に切り替わっていた。




