第35話 戦がはじまる
九月の下旬。
高い空に君臨していた太陽は日を追うごとに穏やかになり、木々の葉色も薄くなりつつあった。
リリイ・メディナはディータ・ラウズから用件があると連絡を受けた。彼に会うのは、夏にキーンを追いかけた事件以来だ。
何度も足を運び、なじみになったトラバントの街。とあるカフェで彼と待ち合わせた。
ディータは緑色のハーベストランド軍の制服で店に現われ、小さな椅子に窮屈そうに納まった。あいかわらず背中に大剣を差している。
「ごきげんよう。調子はどう?」
「ああ」
久しぶりに会っても、彼はずっと神妙な面持ちを保っている。
「『カリキ』がまた店を始めたみたい」
リリイが言うと、ディータは片眉を上げて、カリキの音の意味を頭で探った。
「あ、ああ。あの店か」
「店の娘さんが戻ってないわ」
リリイはカルアが西管区行政府に捕まっていることを話した。
「そうか」
気の毒そうな顔を彼はつくる。
「ディータは軍の人間なら、情報を掴めないかしら」
「調べてみる」
「気のない返事ね。あんたは組織の人間だから、カルアのことを嗅ぎまわれたりできる?」
「組織は縦割りだから……、難しいな」
「やっぱり組織よね。私はあまり束縛されたくないから、組織とか苦手」
「だろうね、リリイらしいわ。紅茶を」
ディータは店員に注文した。
「紅茶なんて飲むの?」
「紅茶でいいんだよ。軍で毎晩酒盛りさ。酔っ払うと頭がクリアじゃなくなるから、俺は飲みたくないけどな」
「頭をはっきりさせていないといけないほど、あんた、繊細な脳みそしてたっけ?」
「これでも、錬金術師だからな」
ディータはリリイの瞳をじっと見た。
彼女の澄んだ聡明そうな瞳、薄くかかるグレーの虹彩はイングリードランド人の特長でもある。
ディータ・ラウズが低く小さな声で切り出した。
「戦争が始まりそうなんだ。イングが攻めてくる」
「イングが……」
リリイの声が途中で詰まった。
ディータは明日、ハイダカ山脈の要塞へ向かうのだという。西管区にいる兵は二千人、そのうちの八百が国境警備のために送られ、彼はその内に入ったと説明した。
「大変なことになるわね」
リリイは、どう行動すればよいのか分からなかった。自分はその侵略国のイング人であることはまぎれもない事実で、ディータ・ラウズはそのことを知っている。
「今日は俺のことを告げに来ただけじゃないんだ。学院からリリイあての文書を預かっている。コルホズ先生から、お前に渡すように言われた」
そのような配慮は、西管区の検閲を避けるためだろう。彼女は文書を受け取った。
『リリイ・メディナに告ぐ。
ハーベストランド軍と連携し、軍の命令および作戦に従事せよ。この働きをもって卒業試験に代える。
軍の命令を拒否した場合は、相応の処罰を与える。
ハーベストランド錬金術学院長』
「どうやら私たち、卒業試験どころじゃなくなったみたい。そろそろ家庭教師の休暇をもらって、学院に戻ろうと思っていたのだけど」
リリイにショックはなかった。
古い知恵と新しい技術がせめぎ合う時代に、このまま錬金術師として平穏に暮らしていけると、はじめから思っていない。
「どうするんだ」
「どうするって、侵略者と戦うしかないでしょ」
「従わなくたっていいんだぞ。どこかにバックレてもいいんだぞ」
「それって、逃げじゃない」
「逃げてもいいんだぞ」
だって、お前はイング人じゃないか。と、ディータは言いかけた。
「私は……、城の人たちを守るわ。まず攻められるのは城でしょう」
「はっきり言う。いまのトラバント城に守るべき価値はない。西管区行政府のほうが重要拠点だ」
「レミー・ラ・トラバントはハーベにとって必要ないだって……、ふざけてるわね。西管区とやらは」
「追って軍が迎えに来る。錬金術師が、第一に頼られる戦力になるからな。ハーベはこういう国なんだ」
ディータは席を立ち、リリイの肩に軽く手を置いたあと、店を出て行った。
ディータは唇をかみしめながら、軍の宿営地への歩みをすすめた。
『国を守ること、命をかけて敵と戦うこと。それは、自分の生まれた地を守るため、愛する人を守るためだ。そのためなら、命をかけられるさ。リリイ。俺にとって、その、守りたい人として、俺がまっさきに思い描くのが、お前だ。でも……、お前はイング人だ。リリイ、お前はどうする? 俺はイングと戦わなければならない。こんなことって、あるだろうか』




