第10章 温泉宿にて
目的の城は、街からひと山越えたところにあった。荷物が思った以上に重くて、石畳の路をなかなか進めない。
街のはずれで、リリイは小柄な男に呼びとめられた。
「お嬢さん。今晩はどちらへ?」
「トラバント城へ行きたくて」
「もう城は閉まっている。今日は無理。うちへ泊っていきな。温泉もある」
男は宿屋の主だった。
「私は城の仕事を求めに来た」
「ならなおさらのこと。明日。明日のほうがいい」
宿主の勧め方が怪しかったが、地元の人間に従ったほうがよさそうだ。リリイはこの宿に泊まることにした。
宿は暖炉をコの字に囲んだソファのあるロビー、食堂、二階が客室という、こぢんまりとした洋館で、彼女はすぐ気に入った。
「温泉の質は確かだから、旅の疲れをいやして。あと混浴だからね」
宿の主は自信たっぷりに言った。
食事のあと、リリイは館内の温泉へ向かった。
脱衣場の壁に大剣が立てかけてある。
「この剣。あいつ……、この宿に?」
彼女はポニーテールをほどき、服を脱いだ。バスタオルにしっかり身を包んで浴室に入った。
「えっ」
女性のシルエットを視認したディータは、身を消すように鼻の下まで湯につかった。お湯は濃い赤茶色の鉄鉱泉だ。
「リ、リリイか。髪がほどけてわからなかった」
「やっぱりディータね」
彼の視線にさらされたリリイは、胸元を手で押さえた。
ディータは動けない。湯からあがるときに、裸を晒すのをためらっている。
「リリイ、入るか」
のぼせたのか、ディータは体を起こして浴槽のふちに両腕を載せた。
浴槽は五、六人用の微妙な広さだ。
「一緒はなんか嫌」
それでも、リリイはふちに座り、足先を湯に浸けた。
鉄鉱の温泉成分が、石畳の路を歩き回った疲れをみるみる飛ばしてくれる。
「けっこう効くね」
「ああ」
のぼせた彼は顔を天井に向ける。
リリイは大柄な彼のたくましい肩と腕と首筋の筋肉を眺めた。そして、お湯をすくって彼の顔にかけた。
「やめろよ。こっちはもう熱くなっているんだから」
彼女は何度も湯をすくっては彼の顔に、肩にかける。
彼の視線が困ったように泳いでいておもしろい。
ディータは大きな手のひらで湯をすくい、リリイにかけ返した。
彼女のバスタオルがみるみる茶褐色に染まってゆく。
「ああ」
「いや、どうせお湯に入ればタオルは赤くなるから」
リリイはまだ浴槽のふちに座ったままだ。
「面接うまくいくといいな」
ディータが言った。
「ええ。ありがと。あなたは、この地でどうするの?」
「観光に来た。と言いたいが、本当は軍の研修があるんだ」
「ハーベ軍」
「そう。この地には大きな駐屯地がある」
「はじめから軍に用があると言っておきなさいよ。私につきまとっているみたいじゃない」
「おまえ。自意識過剰だろう」
そう言われてリリイはどうにかして、ディータを風呂から上がらせてやろうと、頭をめぐらせた。
「ディータ。剣を脱衣場に放置してるでしょ。盗まれたりしたら一大事じゃない? 軍からの貸与品でしょ」
「いけねえ」
一瞬の間にディータは湯船から飛び出して行った。彼も風呂からあがるタイミングを見計らっていたのだ。
「見てやろうと思ったんだけど。ああ、アーリィについてたずねるのを忘れた」
ひとり彼女はゆっくりタオルをほどき、湯に浸かった。
翌朝
宿の一室でリリイは鞄を開け、スーツを出した。
「うん。こういう服装も私は合うな」
ネクタイをしても、丈の短いジャケットとミニスカートで正装にほど遠く、遊びが入っていると思われそうだ。
彼女は部屋のベッドに腰をおろした。
ディータはすでに出発しただろうか。
静かな朝に、遠くから石畳をヒヅメで高々と鳴らす馬車の音が近づいてきた。
宿の主人が彼女を呼んだ。
「リリイ・メディナ様。トラバント城からのお迎えだ」
急いで彼女は階段を降りた。
「マスター、お城に伝えてくれたの?」
「左様です」
「おはよう、リリイ。はりきってこい」
ロビーのソファでディータが新聞を読んでいた。
「おはよう。あんたまだいるの。お城から馬車が来た。あんたも途中まで乗せてもらえば?」
「いや、そういうことにはならないだろう。城はお前のために車を出したんだ。俺は俺でやることをやるから」
「そうか、私だけのための使いが来たってことね」
宿出たリリイは、眩しさに目を奪われた。
銀色の客車は二頭の白馬を繋ぎ、朝の日をきらきら反射した。
車の前に、黒のジャケットと白い手袋をはめた長身の男性が彼女に頭を下げていた。
「おはようございます。錬金術学院生リリイ・メディナ様。私はトラバント城から参りました、クリストファー・ローゼンクライツと申します。以後、お見知りおきねがいたく存じます」




