(8)
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七十歳になろうとしていた蓮殿が老衰により亡くなったことは、その年齢から考えれば、怪しむに足りなかった。彼女の葬儀には、参加したいと思う者だけが参加し、彼女がただの産婆の一人に過ぎないと軽んじる者は参加しなかったが、出産を手助けして貰うなどして彼女に恩義のある者は少なくなく、葬儀は寂しいものにならずに済んだ。
白文や、白林や、墨英や、彼の母など、蓮殿の世話になり、劫を経た彼女に人生相談などして頼りにしていた者たちは、その死に際して悲しみ、哀惜の念のために胸に穴がポッカリ空いたようで、一つの時節の終わりをしみじみ感じた。白文と墨英は十代の半ばに差し掛かり、もはや幼い子供ではなくなろうとしていたし、彼等それぞれの母は、子供の巣立ちへの予感に、安心と不安のないまぜになった難しい感情を覚えるのだった。
白文と墨英は、官僚になるという定めに従うことになっていた。白文は、楊光への引け目のために逆らうことが出来なくなり、そして、彼に湖畔で拒否したいと豪語していた墨英は、彼曰く、楊光との木刀での打ち合いで負け、きょうだいの格差を思い知らされ、忠誠を誓うことを余儀なくされた。
西宮の一室。儒教の経典の開いた机に向かい、筆を持って白紙に写し書きしている白文の少し離れたところで、白林は種々の小道具ののった台のそばの椅子に座り、編み棒で編み物していた。
気乗りしない中で、白文は、筆を止め、「母上」、と呼びかけ、彼女の方に振り向いた。
白林は少し俯けていた顔を上げ、彼と同じように編み棒を持つ手を止めた。
「母上は、後宮にどれくらいおられるのですか?」
「さぁ、どれくらいでしょうね。十五年くらいかしら」
「抜け出したい、なんて思ったことはないのでしょうか」
彼女は「ううん」と悩むように唸ると、「ないと思う」、と答えた。
「だってここ以外に、わたしのいられる場所ってないから」
「墨英には祖父母の暮す村が遠方にあると言うのですが……」
「あぁ、故郷のこと。わたしにもあるけど、わたしの父母は、わたしの赤ちゃんだった頃に悪さして、その咎で死刑になっちゃったみたい。罪状はよく知らないんだけどね」
しんみり語る母の面持ちに、白文は胸が締め付けられる思いになった。
「母上のこと、よく存じているつもりでいましたが、まだ全然ですね。勉強ばかりしていたせいです」
「構わないよ。白文は、将来のためにたくさん勉強して。わたしのことなんて、どうでもいいからさ」
――『ここ以外に、わたしのいられる場所ってないから』
母のそのセリフが、勉強を再開した白文の耳に、悲しい響きと共に残っていた。
事情は自分だって変わらない、と彼は思った。――ここを脱出してみたところで、旅するしかない。どこかに知り合いがいるのではない自分のするあてのない旅など、時間の浪費でしかない愚にも付かない彷徨になるだろう。一芸さえ持っていないけれど、辛うじて眷属の血だけある自分が、唯一やっていけるとしたら、ここ以外、あり得ないだろう。
白文において、考えれば考えるほど、答えは否定の余地がないほど明確になっていった。だのに彼の悩みは、答えがはっきりしているがゆえに、大きくなるのだった。
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