第9話 献立表は静かに告発する
晩餐の翌々日、王都は静かだった。
騒がしい街というものは、本当に大きなことが起きた時、数日は息を潜める。
まるで、鍋の火を止めた直後の厨房のように。
ハルシェード家の家領は、正式に返還された。
ただし、父侯爵は、既にこの世にいない。
わたくしは、家名を、名乗る場所ではなく、継ぐ場所として、受け取り直すことになった。
シルヴェストは、貴族位を剥奪され、北の辺境の修道院送り。
ベルトランは、卸問屋ギルド長を解任、私財没収の上、裁判。
オズマリオのカナリア家は、家格を二段降格。
ジュナスは、毒殺と偽証の罪で、独房。
過度な処罰ではない。
罪の重さの分だけ、量られた。
フェリクス殿下の言葉通り、彼は、兄王太子を庇わず、罪の重さだけを、きちんと量った。
量った分だけを執行する、という節度は、実は、感情的な大処罰より、ずっと恐ろしい。
情に流されない処罰は、二度と、同じ手口で甘えようとする者を、黙らせる。
◇
王宮第二厨房には、顧問料理人の札が、わたくしの名で掲げられた。
アイリル・ハルシェード。
家名のついた札は、裏口を通らなかった。
けれど、わたくしは、下拵えの時間、相変わらず竈の前に立っている。
顧問という肩書は、仕事をしなくていい免状ではない。
仕事の責任が、少し重くなっただけだ。
「アイリル様」
「アイリで結構でございます、リース」
「でも、顧問料理人様に、名前呼び捨ては」
「厨房では、わたくしは、まだ見習いの心づもりです」
リースは、嬉しそうに頬を赤らめた。
十九歳の少年は、この半月で、背が少し伸びたように見える。
王都の噂をよく拾うこの少年は、新しい配膳頭補佐に昇格した。
サーシャは、わたくしの一番下の助手として残った。
「あたしは姉弟子の後ろを歩いたことがないから、あんたの後ろを歩くよ」と、彼女は笑った。
その笑いは、半年前のミレネ様への、彼女なりの挨拶のように聞こえた。
王都南の修道院から戻ったミレネ様は、わたくしの副顧問に就任した。
痩せて、顔色は青白かったけれど、目の光は衰えていなかった。
「あなたの匙、私の匙より、少しだけ軽いですね」と、彼女は言った。
「……重いほうが、よろしいのですか」
「いいえ。若い手には、軽いほうが動きやすい。私も、あなたに合わせます」
ミレネ様の一言で、厨房の匙の並びが、整いなおした。
先輩と後輩の順番ではなく、仕事の動きやすさの順番に、配列が変わった。
それは、小さな変化のようで、厨房の「格」の根っこを、一つ入れ替える変化だった。
コンラートは、厨房長の職を自ら辞した。
けれど、宮殿は彼を手放さず、厨房監査役という新しい役目を授けた。
仕入れの真贋を見極める役目は、かつて卸の圧に屈したコンラートにこそ向いていた。
贖罪のためではなく、経験のために。
フェリクス殿下は、下拵えの時間に、勝手口から覗きに来るようになった。
「味見だ」と言って、まかないの一皿をつまみ食いしていく。
「殿下。王子殿下が、味見のために厨房に入ってはなりません」
「入らぬ。俺は、勝手口の外に立っている」
「足の先が、中に入っております」
「それは、風に押されたのだ」
無風の廊下で、殿下の足は、自分から動いているのだけれど、それは指摘しないでおいた。
サーシャが鍋の向こうで笑いをこらえていた。
ミレネ様は、殿下に小皿を差し出しながら、「殿下、次の風は、強めに吹かせておきます」と、真面目な顔で言った。
厨房の空気が、少しずつ、以前の「命の綱渡り」から、「職人たちの小さな冗談が許される場所」に戻ってきていた。
王太子殿下が、午後、第二厨房に、直々にお越しになった。
手に、一枚の献立表を持って。
「アイリル嬢。これを、見てくれるか」
「拝見いたします」
それは、五年前の、ある公式晩餐の献立表だった。
赤いソース、ノルダ産——と、書かれていた。
五年前。ノルダ産の赤いソースの流通は、既にあの頃から始まっていた。
「五年前の、晩餐。私が臨席した、最後の父上の晩餐だ」
「先代国王陛下の」
「父上は、晩餐の翌日、体調を崩された。そのまま、快復せず」
「……殿下、それは」
「確証はない。だが、再調査を命じた」
王太子の微笑は、少しだけ、疲れを帯びていた。
先代国王の死に、赤いソースが関わっているかもしれない。
それは、王太子自身の、父を失った傷の問題でもあった。
「アイリル嬢。君の舌と、君の目を、再調査に貸してくれ」
「……王家のことにございますれば、わたくしごときが」
「違う。王家のことだからこそ、王家の外の舌が要る」
王家の内側の舌は、王家の味に慣れてしまう。
慣れた舌は、慣れた毒を、見抜けない。
王太子殿下のご判断は、理に適っていた。
わたくしは、一礼して、献立表を受け取った。
紙は、五年分の厨房の湿気を吸って、指に柔らかかった。
献立表は、静かに、告発していた。
赤いソースの一行が、五年前の晩餐から、ずっと、そこにあったことを。
殿下とわたくしは、厨房の勝手口の軒先に、並んで立っていた。
厨房から漏れる灯りが、二人の足元をほんのわずかに照らしていた。
「アイリル。顧問料理人の、次の話をしてもいいか」
「次の話、と仰いますと」
「お前と、これから先の厨房の話だ」
「……はい」
「今すぐの話では、ない。お前は、家領の立て直しがある。厨房の改革がある。五年前の再調査がある」
「左様でございます」
「いつか、俺のために、毎日一皿、作ってくれればいいと、思っている」
殿下の肩が、こちらの肩と、ほんの少しだけ近くなった。
近づいた距離は、言葉より、ずっと、温かかった。
(殿下のお言葉は、いつも、料理の味のように、じんわりと効く。)
わたくしは、ほんの半歩、殿下のほうへ、歩幅を寄せた。
「殿下。わたくしの定席は、まだ、厨房の竈の前でございます」
「そうか」
「ただ、殿下のお味見に、あと数年、お付き合いいただけますれば」
「喜んで」
軒先の二人の肩が、少しだけ、寄り添うようになった。
裏庭の木の上で、夜鳥が一声、短く鳴いた。
一声が、長く尾を引いた。
尾を引く鳴き声のあいだに、わたくしは、明日の献立の、最初の一行を、心の中で、静かに書き始めていた。




