第8話 厨房の外で、王太子は微笑んでいた
王家の晩餐の間は、天井が厨房の四倍高かった。
白い卓布、銀の燭台、硝子の杯。
その中心に、金の髪の王太子アレクシス殿下が、穏やかに微笑んで座っていた。
右手に、異母兄シルヴェスト。
左手に、卸問屋ギルド長ベルトラン。
末席に、元婚約者オズマリオ。
フェリクス殿下は、王太子の向かいに、背筋を伸ばして座っている。
そして——わたくしは、配膳見習いとして、扉の内側に立っている。
髪は低く結い、黒の前掛け。
誰の目にも、第二厨房の一人の見習いにしか見えない。
それが、今夜の一番の武装だった。
貴族のドレスを纏って挑めば、場の空気はこちらに向く。
けれど、向いた空気は、こちらを賓客として扱うぶん、こちらの言葉の重みを、減らす。
配膳見習いの一言は、軽く見えて、いちばん重い。
それは、誰にも「予想されていない一言」だからだ。
「本日の献立は、第二厨房の新しい見習いが整えました」
コンラートが、落ち着いた声で告げた。
わたくしの名は、まだ呼ばれない。
それは、申し合わせだった。
「ほう。第二厨房の新入りが、か」
王太子の微笑は、崩れない。
崩れない微笑は、仮面と変わらない。
献立は、四皿。
第一皿は、澄んだ出汁の、皮のスープ。
第二皿は、塩漬け肉の牛乳煮。
第三皿は、赤いソースを使わない、月桂の焼き物。
第四皿は、南の三領地の、真正の赤い実の、本物のソースを添えた甘煮。
(第三皿と、第四皿で、偽と本物を、並べる。)
シルヴェストが、第三皿の月桂の焼き物に匙を入れた。
一口含んで、眉を寄せた。
「赤いソースが、ないな」
「本日は、月桂を主役にいたしました」
「……普段の赤いソースは、美味いぞ。なぜ出さぬ」
異母兄は、赤いソースがないと落ち着かない。
それは、彼が、いつもの「商売の味」を確かめないと、場に居られないからだ。
自分の取り分が、いつも通りあるかを、舌で確認する癖がついている。
それは、後ろ暗い商売人の、持病のようなものだった。
わたくしは、音もなく、配膳車を押し出した。
第四皿が、順に配られる。
ベルトランが、第四皿のソースを口に含んで、一瞬、動きを止めた。
彼の舌は、本物の味を知っていた。
本物の味を知っている者ほど、偽物を売って成り上がってきたのだと、その硬直が教えた。
「これは、ノルダ産の赤いソースか」
「いいえ。南の三領地の、真正の赤い実のソースでございます」
コンラートが、書面を広間に運び込んだ。
赤いソースの仕入れ台帳。
母の帳面の写し。
父の書付。
ミレネ様の手記。
そして——先刻、厨房で捕縛された、王太子の側近ジュナスの、自白。
「ギルド長ベルトラン殿。ノルダ産と表示された赤いソースは、南三領地の等外品を、ノルダの加工場で酸と甘味料を足して再製したもの。利幅は三倍。この事実、台帳とご自身の舌が、一致をお認めになりますでしょうか」
わたくしの声は、いつもの配膳見習いの声だった。
大きくもなく、高くもなく、震えてもいない。
声を張らないことが、この場では、一番の刃になる。
張った声は、反論されるだけの場所を相手に与える。
低い声は、相手に反論の足場を渡さない。
落ち着いた事実の羅列だけが、この広間で、もっとも強く響く言葉だった。
ベルトランは、杯の水を一口含み、それから、ゆっくりと首を垂れた。
「……認める」
「シルヴェスト様。ハルシェード家の帳面の横領欄の改竄、こちらは、この字と、この字。『三』の字の横棒の角度が、お手元の署名の『三』と、一致しております」
「……っ」
「筆跡比較は、この場で、宮廷書記官にお任せ申し上げます」
シルヴェストの手が、匙を取り落とした。
銀の匙が、卓布の上で、乾いた音を立てた。
彼の唇は動いたけれど、声にならなかった。
言い訳の準備を、彼は、していなかった。
家を簒奪する人間は、簒奪の後の言い訳を用意する余裕がない、ということだ。
簒奪は、熱に浮かされて行われる。
冷めてから、弁明を考えても、もう遅い。
「オズマリオ様。毒草の管理違反、というご告発書。ルノー草を毒草の欄に加えた者が作成しております。ルノー草は、香草でございます。毒草と香草の区別のつく方が書いた告発書ではございません」
「それは、わ、私は、兄君から送られた書面を、そのまま……」
「つまり、この告発の草案は、シルヴェスト様からのもの。左様でございますね」
「……はい」
オズマリオは、最初から、台本を読んでいただけの男だった。
書き手の手を、あっさりと売った。
彼は、そういう男だ。
わたくしが婚約していたのは、そういう男だった、という事実を、もう、恥じる段階ではない。
見抜けなかった自分に対しては、別の場所で、別の手当てをすればいい。
広間の空気が、静かに重くなった。
そして——王太子アレクシス殿下だけが、まだ、微笑んでいた。
その微笑は、少しだけ、澄んでいた。
仮面、ではなかった。
澄んだ水は、底が見える。
底の石の形まで、今夜、初めて、見えた気がした。
「見事だ、アイリル・ハルシェード嬢」
王太子は、わたくしを、本名で呼んだ。
(ご存じだった。最初から。)
「殿下、わたくしは」
「いや、いい。私が、この晩餐の招集に応じたのは、君の勝ちを、確かめたかったからだ」
「……と、仰いますと」
「ジュナスは、私の側近でありながら、三年、私を欺いていた。ベルトラン、シルヴェスト、ジュナスの密約、私が気づいたのは、半年前だ」
「半年前」
「ミレネの上申と、同じ月だ。ミレネを逃したのは、私の手の者だ」
フェリクス殿下の目が、大きく開かれた。
「兄上……」
「フェリクス。お前に、証拠固めを任せたかった。私が動けば、相手が身を固める。だから、私は、微笑み続けた。鏡のように、こちらの手を見せなかった」
「なぜ、俺に、一言」
「一言があれば、お前は、直情で動いた。私は、お前の直情が、まだ好きだ。だから、黙った。すまなかった」
敵と思っていた王太子は、最初から、味方だった。
微笑の水底は、清かった。
(この方は、微笑で身を守り、微笑で弟を守っていた。)
王太子は、銀の杯を掲げた。
「アイリル嬢。ハルシェードの名と、家領、並びに、無罪の宣告を、王家の名において返還する」
「……勿体なきお言葉にございます」
「加えて、王宮第二厨房の、顧問料理人の席を、君に贈りたい。見習いの匙で、王家の卓を救った者に、ふさわしい席だ」
シルヴェストは、椅子から崩れ落ちていた。
ベルトランは、既に、両脇を衛士に支えられていた。
オズマリオは、袖口で目頭を押さえる仕草だけが上手だった。
フェリクス殿下が、席から立ち上がり、広間を横切って、わたくしの前に立った。
銀髪の殿下は、右手を、そっと差し出した。
「アイリル。席に、着け」
「……殿下」
「見習いの席ではなく、俺の、隣だ」
広間の燭台の炎が、一度、静かに揺れた。
殿下が広間を横切るあいだ、王家の従者たちは、誰一人、止めなかった。
王子の足の運びを止めるのは、王太子の意思のみ。
その王太子は、兄の席で、もう一度、静かに微笑んでいた。
わたくしの呼吸が、初めて、今夜、少しだけ、乱れた。




