第7話 失われた先輩と、最後のスープ
ベネディクの胸は、まだ、ほんのわずかに上下していた。
竈の前の石床に、古い料理人は、静かに身を横たえていた。
石床は、夜通し竈の熱を受けて、まだほのかに温かい。
それが、老人の体の冷えを、少しだけ、遅らせていた。
「ベネディク」
「……お嬢さま」
「喋らないで。お医者様を」
「呼ぶ、暇はございませぬ」
皺の寄った手が、わたくしの手首を、思いのほか強い力で握った。
老いた料理人の指は、鍋の柄を握る指のまま、そこにあった。
鍋を握るための指の形は、人の手首も、同じ形で握れる。
料理人は、何かを持つ時の指の形を、長年のあいだに、一つの「型」として体に刻む。
握られた手首に残るのは、その型の記憶だ。
「スープを……鍋の底を、ご覧くださいませ」
「鍋の底」
「昨夜、仕込みましたスープ。お嬢さま、底まで、きちんと匙を」
ベネディクは、そこで、息を細くした。
それは、呼吸というより、遠くの風の音に近かった。
「お嬢さま、最後に、一言」
「はい」
「お召し上がりくださいませ。奥様のかわりに」
皺の寄った手から、力がゆっくり抜けた。
竈の火が、朝の明るみにかき消されていく。
わたくしは、手を握ったまま、長く、息をしなかった。
(ベネディク。お母さまの、手の届かなかったところまで、あなたが繋いでくれた。)
母が病で逝った日、ベネディクは厨房の竈の前で、夜通し火を守っていた。
翌朝、彼は何も言わずに、母の好物だった根菜のスープを、一椀だけ作って卓に置いた。
あの日の一椀を、わたくしは、今日の一椀まで、忘れていなかった。
そして、ベネディクもまた、あの日の一椀を、今日まで、覚えていてくれたのだ。
涙は、後で。
今は、鍋の底を見なければいけない。
ベネディクの最後の指示は、哀しみより、先に、鍋に行けと言っていた。
料理人の遺言は、料理人の作法で受け取るのが、いちばんの弔いだ。
老人の唇の端に、白い粉が、ほんのわずかに残っていた。
指先で掬って、鼻先に寄せる。
塩には似ているけれど、塩よりきめが細かく、塩より、かすかに苦い。
(豆知識ななつ。粉末毒は、塩や砂糖に混ぜると最も発見が遅れる。けれど、粒の大きさの違いで、舌の上の溶け方が僅かに違う。ベネディクは、最後の味見で、それに気づいたのだと思う。)
ベネディクは、毒を気づいたうえで、舐めた。
気づかないふりをして、毒の出所を、もう少しだけ、見届けようとした。
そして、わたくしに鍋の底を指示するだけの時間を、確保して、逝った。
それは、老料理人の、最後の「仕込み」だった。
◇
昨夜ベネディクが仕込んだ大鍋は、竈の弱火の上で、まだ静かに湯気を立てていた。
匙を入れ、底の方まで、ゆっくりと掬い上げる。
底に、重みがあった。
スープの具に混ざって、油紙で何重にも包まれた、小さな包みが沈んでいた。
油紙を解くと、中には、銀の匙が一本。
柄に、小さく「M」の文字が彫られていた。
(ミレネ様——サーシャ様の姉弟子の、匙。)
サーシャが、駆け寄って、息を呑んだ。
「姉弟子の匙だ。姉弟子が、失くしたって言われて、盗みの濡れ衣を着せられた……」
「ベネディクが、預かっていらしたのね」
「どうして、今まで」
「渡す相手を、お選びになっていたのでしょう」
匙の下に、さらに折り畳んだ紙が一枚。
ミレネ様ご本人の筆跡の、短い手記だった。
——半年前、赤ソース台帳の改竄を発見。コンラートに上申。翌日、身の危険を感じ、ベネディクに匙を託して逃亡。生きていれば、王都南の修道院にあり。ミレネ
ミレネ様は、生きている。
そして、王都南の修道院に。
厨房の奥で、コンラートが、両手で顔を覆っていた。
彼の肩が、見たことのない細さで、震えていた。
「コンラート厨房長」
「……俺は、あの時、ミレネの上申を、上に回せなかった」
「と、仰いますと」
「卸問屋ギルド長ベルトランから、直接、圧がかかっていた。厨房長の首を飛ばすと。俺は、自分の首と引き換えに、ミレネを切った」
「……」
「俺は、卑怯者だ」
コンラートの告白は、厨房の湯気より重く、床に沈んだ。
けれど、わたくしは、この人を責める気にはなれなかった。
彼は、自分の首を守っただけの男ではない。
守った首で、半年後のわたくしを、厨房の奥に匿った。
匙の取り扱い方を教え、まかないの場を用意し、殿下の味見の合図を受け渡した。
卑怯者の続きで、彼は、少しずつ、勇気のほうへ歩いていた。
勇気は、一息に出せるものではない。
小さな選択の積み重ねで、少しずつ、首の後ろに溜まっていく。
「コンラート厨房長。一つだけ、お尋ねいたします」
「何だ」
「ベネディクの最後のスープの仕込みを、昨夜、見ていらしたのは、どなたですか」
「……俺と、もう一人」
「もう一人」
「王太子殿下の側近。夜半に、下見と称して厨房を覗いた」
ベネディクの死は、偶然ではない。
側近が、昨夜、厨房を覗いた。
その翌朝、老人は倒れていた。
スープに毒は見当たらなかった。
けれど、香辛料の棚、塩の壺、油紙の下——どこにでも、毒は忍ばせられる。
ベネディクは、それを、全部、承知で舐めたのだ。
フェリクス殿下が、扉を押して入ってきた。
一言も発さず、ベネディクの傍に膝をつき、その手の甲に、自分の額を、一度だけ触れた。
「……爺。世話になった」
「殿下。ベネディクを、ご存じで」
「幼い頃、ここの厨房で、焼き林檎を焼いてくれたのは、爺だ」
殿下の声は、乾いていた。
乾いている声ほど、中に、湿ったものを抱えている。
殿下は、立ち上がり、わたくしに短く言った。
「王太子殿下の側近、名はジュナス。今宵、捕える」
「殿下。側近一人で終わらせてはなりません。黒幕が、逃げてしまいます」
「では、どうする」
「晩餐の席を、お借りしとうございます」
「……晩餐」
「王家の晩餐に、三者を、招いてくださいませ。王太子殿下、兄シルヴェスト、ギルド長ベルトラン」
「卸問屋ギルド長まで、王家の晩餐に呼べると」
「王太子殿下の、口添えであれば、呼べます。殿下に、兄上へ、お願いしていただきとうございます」
「兄上に……お前の名で、晩餐の献立を、出せと」
「はい。わたくしの、見習いの献立で」
見習いの献立を、王家の晩餐に出す。
それは、身分の序列を、卓の上で、一度だけ、入れ替えることになる。
見習いの腕が、黒幕の舌を、叩く。
料理の場で、料理の作法で、決着をつける。
それが、ベネディクの最後のスープに応える、最もふさわしい形だと思った。
殿下の目が、長く、こちらを見た。
「承知した。献立は、任せる」
「ありがとうございます」
「アイリ。お前を、厨房から外へ出すのは、俺は、少し怖い」
「……殿下」
「いや。手は、伸ばすと言った。晩餐の広間の扉は、俺が開ける」
勝手口の外で、朝の鳥が、短く鳴いた。
ベネディクの皺の寄った手は、まだ、竈の温もりを少しだけ、抱いていた。




