第6話 鍋の底にだけ沈む真実がある
ハルシェードの屋敷は、封鎖されていても、裏倉の戸口だけは壊されていなかった。
差し押さえの札が貼られていたけれど、札の貼り方が雑で、風の出入りで紙の端がめくれていた。
雑な差し押さえは、たいていの場合、本気で調べる気のなかった証拠だ。
本気で隠したいものがある側だけが、本気で差し押さえる。
非番の日、リースとサーシャが、王都の北市場の用事を装って、道を逸れてついてきてくれた。
フェリクス殿下は、正面を避けて、別の用向きの馬車で北へ出たという。
集まらないほうが目立たない、という殿下の判断だった。
「月桂の壺」
裏倉の奥、塩と香草の棚の一番下、陶器の壺が三つ並んでいた。
月桂、乾燥セイランソウ、そして——ルノー草の壺。
セイランソウの壺は空だった。
父を殺した毒の材料は、もう、この家にはない。
空の壺の底に、薄く粉の跡だけが残っていて、その粉の色は、本来のセイランソウのそれよりも、ほんの少し、青みがかっていた。
抽出液にする時の、ひと手間の痕だ。
ルノー草の壺は、底が二重になっていた。
軽く叩くと、中央が妙に響く。
「二重底ね」
「妙だな。こんな壺、普通は仕込まない」
「母の仕事でございます。母は、料理の壺を、よく文箱代わりに」
(豆知識むっつ。陶器の壺は、底を二重に焼くと、湿気から乾いた紙を守れる。地下の香草蔵で、書状を保管する工夫として昔から使われていた。)
ゆっくり、慎重に、中身の草を一束ずつ抜く。
底の薄い蓋を、爪先で持ち上げる。
出てきたのは、薄い紙の束と、蝋紙に包まれた一枚の書付だった。
紙束は、ハルシェード家の帳面の写しだった。
わたくしが婚約破棄の夜に告発された、横領の項目。
その全てが、母の几帳面な筆跡で、正しい数字に書き直されていた。
母は、生前から、誰かが家の帳面に手を入れていることに気づいていた。
そして、正本を隠していた。
母が存命中に、既に「偽装の兆し」を感じ取っていた、ということは、家の簒奪の企ては、三年以上前から始まっていたことになる。
異母兄シルヴェストの執念は、想像していたより、ずっと長く、静かに、育っていた。
蝋紙の書付は、父の字だった。
——王都卸問屋ギルド長ベルトラン、王太子殿下側近、そしてシルヴェスト。三者の密約あり。王宮晩餐に納入する『ノルダ産』赤ソースは、南の三領地の等外品を、ノルダの加工場で酸と甘味料を足して再製したもの。利幅は本来の三倍。父、証拠を掴む途中にて拘束。アイリルに家を託す。
父。
ノルダ産。
王太子側近。
シルヴェスト。
ベルトラン。
名前が、全部、繋がった。
繋がった瞬間、胸の奥ではなく、指の付け根が、一度だけ、冷たくなった。
怒りの熱より先に、恐ろしさが通った、ということだ。
(王太子の側近、ということは、王太子殿下ご自身の関与までは、まだ証拠として確定していない。)
わたくしは、紙をそっと胸に収めた。
目頭は熱くなかった。
熱いのは、指先のほうだった。
「アイリ。これ、どうするんだ」
「写しを取り、原本は別の場所に。原本は、一箇所に置いてはなりません」
「物騒だな」
「失くすものは、一度に失くしませぬ」
サーシャが、低く口笛を吹いた。
「新入り。あんた、本当に厨房の人間か」
「はい。厨房の人間でございます」
「なら、あたしは、厨房の人間の言うことを聞くよ」
リースが、壺の蓋を元に戻し、床の塵を整えた。
少年は、こういう細かな痕跡の消し方が、妙に上手かった。
王都の裏路地で、伝言の仕事を請け負った経験があるのかもしれない。
彼はこの家に来た時、ちょうど元の位置に戻る塵の形まで気を配っていた。
塵の位置を覚えて、元に戻す、というのは、相当な場数を踏まないと出来ない。
少年は、わたくしたちが思っているより、ずっと多くの顔を持っている。
ただし、その顔のどれも、今は、わたくしたちの味方の顔だ。
◇
厨房に戻った夜、殿下が、勝手口の布の陰で待っていた。
紙束を受け取り、殿下は目を通した。
「兄上の、側近」
「ご存じの方で」
「……知っている。幼い頃、俺の剣の稽古をつけてくれた男だ」
殿下の声が、ほんのわずか、掠れた。
幼い自分に剣を教えてくれた男が、毒を仕込んだ側にいた。
それは、思想の裏切りより、体の記憶の裏切りに近い痛みだ。
体の記憶は、頭より深いところで、人を支えている。
そこを揺さぶられた時の痛みは、すぐには表に出せない。
殿下の喉が、一度、上下した。
それが、彼の感情の表れだと、もうわたくしは知っていた。
大きな感情ほど、彼の場合、喉でだけ、動く。
顔では、動かさない。
「兄上ご自身は、まだ白とも黒とも」
「はい。側近の独断である可能性、王太子殿下の黙認である可能性、ご主導である可能性、三通りございます」
「黙認以上であれば、王家の根を揺らす」
「左様でございます」
殿下は、長い指を、書付の縁に置いた。
「アイリ。俺は、兄上を、庇わぬ。ただし、罪の重さだけは、きちんと量る」
「はい、殿下」
「お前の断罪を、俺の手で返させてくれ」
家名のない女の手を、家名のある殿下が、正式に握ろうとしている。
拒む理由は、本当はない。
けれど、わたくしは、一歩だけ下がった。
「殿下。お気持ちは、ありがたく頂戴いたします。ただ、わたくしの名の返還は、わたくしの鍋が、わたくしの手で成し遂げとうございます」
「……自分で、か」
「殿下のお手を、お借りする場面は、必ず参ります。その時に、伸ばしてくださいませ」
殿下の口の端が、ほんのわずかに、持ち上がった。
冷酷、と呼ばれる顔が、その時だけ、少年のようになった。
「伸ばす。お前が、手を要ると言うなら」
勝手口の外で、風が、湯気と同じ方向に流れた。
湯気と風が、同じ方向に揃うことは、厨房では珍しい。
普段は、風が外から吹き込み、湯気を押し戻す。
今夜は、湯気と風が、並んで外へ出ていった。
それは、何か、この家と外の世界の境界が、少しだけ、開いた兆しのようにも見えた。
その夜、ベネディクは、厨房の片隅で、わたくしに最後のスープの仕込みを教えてくれた。
澄んだ出汁を、二度濾し、三度目は、静かに置く。
置いた時間の分だけ、味が深まる。
「お嬢さま。スープは、待つ料理でございます」
「ベネディク、わたくしは」
「待つことと、動くこと。見極めてくださいませ」
老人の手は、鍋の縁を撫でる時、何か、祈るように動いた。
祈りの手は、調理の手と、ほとんど同じ形をしている。
どちらも、見えないものに対して、控えめに、丁寧に、触れている。
翌朝、ベネディクは、竈の前で倒れていた。




