第5話 見習いの腕と紋章のない匙
子の刻、西の小書庫は、蝋燭一本の明かりだけが灯っていた。
フェリクス殿下は、壁の棚から、分厚い台帳を三冊、机の上に静かに重ねた。
「赤いソースの仕入れ台帳だ。直近三月分」
「拝見いたします」
わたくしは、頁を繰った。
産地欄には、三冊すべてに「ノルダ」とだけ書かれていた。
けれど、納入量の増減と、支払額の増減が、噛み合っていない。
量が減っても、額は増えている月がある。
量が増えても、額が変わらない月がある。
(産地偽装だけではない。値を、あとから書き換えている。)
目を凝らすと、数字のインクの乾き方が、周囲の文字と違う欄がいくつもある。
書いた時期が、違う。
「殿下。この台帳、書き直しの痕がございます」
「……どこだ」
「この月と、この月。インクの馴染みが、周りより新しく見えます」
殿下は、台帳に顔を近づけ、そっと息を吹きかけた。
書き直した欄の文字だけが、ほんのわずかに、周囲の文字より浮いて見える。
紙が、後から上書きされた箇所だけ、繊維が乱れていた。
「……見えるな。確かに」
「この書き換え、同じ人物の筆跡と存じます。字の癖が一致しております」
「根拠は」
「『三』の字の、横棒の長さと角度が同じでございます。これは、書き癖で、特に隠しにくい箇所と申します」
(豆知識いつつ。人の筆跡は、長い横画や跳ねに個人の癖が一番よく出る。『三』の字の三本の横棒の角度は、無意識の筆癖がそのまま現れる箇所。)
殿下は、低く息を吐いた。
その息は、安堵にも、怒りにも、聞こえた。
「お前、筆跡も見るのか」
「家の帳面を、長く見ておりました」
「家名を、捨てたと言ったな」
「はい」
「だが、腕は捨てていない」
「……腕は、わたくし自身でございますので」
殿下は、こちらの顔を、蝋燭の光越しにじっと見た。
冷酷と呼ばれる目が、蝋燭の炎の形に、ほんの少しだけ、温まっていた。
炎は揺れるものだから、目も、少しだけ揺れていた。
揺れている目は、だいたいの場合、人に何かを告げかけている目だ。
「アイリ。見習いの腕と、紋章のない匙に、俺は敬意を払う」
「……勿体なきお言葉にございます」
「勿体なくはない。事実だ」
殿下は、懐から、小ぶりの銀匙を取り出した。
柄に、紋章は彫られていない。
「俺の味見用の匙だ。貸す。味が決まらぬ時に使え」
「お預かりいたします」
匙は、ずしりと重かった。
家名より、ずっと重かった。
家名は、他人が付けてくれる重さ。
この匙は、殿下が自分で握って温めた重さ。
温度の種類が、違う。
蝋燭の炎が、机の上で一度、伏せるように揺れた。
その揺れに合わせて、殿下の銀髪の端が、ほんの少しだけ金色に染まった。
この人は、冷酷という名前を貼り付けられているだけで、本当は、火の傍が似合う人だと思った。
◇
朝の下拵えの時間、サーシャが竈の隣に立った。
昨夜、皿を割った人だ。
「新入り。昨夜、どこに行ってた」
「……塩の棚の整理を」
「嘘が下手だな」
「……はい」
「あたしも、嘘が下手なんだよ」
サーシャの手は、いつもより乱暴に玉葱を刻んでいた。
包丁の先が、俎板に、いつもより深く刺さっている。
怒りより、もう少し奥の、長年溜め込んだ何かの色だ。
「半年前、消えた先輩って、あたしの姉弟子だ。名はミレネ」
「ミレネ様」
「姉弟子は、赤いソースの産地が変だって、コンラートに上申した。次の日、賄賂の疑いで解雇された」
「……証拠は」
「ない。銀の匙が盗まれていた、って話だけが残った。姉弟子は、銀の匙を盗むような人じゃない」
銀の匙が盗まれた、という話。
わたくしの袖口の、母の形見の銀の匙が、ほんの少し、熱を帯びた気がした。
「サーシャ様。姉弟子さまは、今、どちらに」
「分からない。王都から消えた。生きているかも」
サーシャの肩が、細く震えていた。
意地悪に見えた仮面の下に、守りたかった人の形があった。
守りたかった人を守れなかった者は、次に来た者に、意地悪を装うことが多い。
それは、自分を二度傷つけないための、最後の鎧だ。
(サーシャ様は、わたくしを試していたのではなく、測っていらした。姉弟子の二の舞にならない、信じられる手かどうかを。)
わたくしは、玉葱の山を、こちらの俎板に半分引き寄せた。
「半分、お引き受けいたします」
「……いいよ、自分でやる」
「サーシャ様。半年前のことを、お話しくださってありがとうございました。必ず、役立てます」
サーシャは、こちらを見ず、玉葱を刻み続けた。
涙は玉葱のせいだと、彼女は言うだろう。
言わせてあげるのが、礼儀というものだ。
玉葱のせい、と言い張れる涙ほど、本当のところ、本気の涙が多い。
わたくしは、サーシャ様の俎板の脇に、冷たい水の入った小鉢を、そっと置いた。
玉葱を刻む時、刃先を一度だけ水に潜らせると、香りが鼻に届きにくくなる。
涙のふりを、続けやすくなる小道具だ。
サーシャ様は、小鉢を見て、一度だけ、唇を噛んだ。
午後、最古参の料理人ベネディクが、静かにわたくしの傍に立った。
父の代から、ハルシェード家の厨房を守っていた老人だ。
王宮に復帰したと聞いてはいたけれど、ここで会うのは初めてだった。
「お嬢さま」
「ベネディク。わたくしは、アイリでございます」
「左様でございましたね、アイリ様」
老人は、目尻の皺を深めて、静かに笑った。
「奥様が、最後に仕込まれた塩漬けの月桂、まだお持ちで」
「袖口に」
「大切に。それは、奥様の遺言のようなものにございます」
「遺言、と仰いますと」
「塩漬けの月桂の壺の底にだけ、奥様が隠された覚書がございます。家の裏倉の、月桂の壺」
家の裏倉の、月桂の壺の下。
父の遺書と、同じ場所だ。
母と父は、同じ場所に、何かを隠していた。
それは、最後の段で、示し合わせていたということ。
侯爵夫妻は、別室で眠るような貴族の慣習を守っていたけれど、台所の壺の中だけは、二人きりの引き出しだったのだ。
そう思うと、胸の奥が、少しだけ、柔らかく痛んだ。
ベネディクは、わたくしの肩に、老いた手を置いた。
「お嬢さま。わたくしは、長くは生きられませぬ。最後に、お嬢さまに、スープを一椀、お仕込みしておきとうございます」
「……ベネディク」
「どうか、壺を、取り戻してくださいませ」
老人の手は、乾いていて、温かかった。
乾いた手に、まだ温度が残っているということは、体の芯に、強い灯がある、ということだ。
けれど、その灯が、どれだけ保つのか、わたくしには、もう、分かってしまっていた。
料理人が自分の寿命を告げる時、たいていの場合、すでに決まった日程を、口にしている。
竈の火が、ぱちり、と爆ぜた。
その音は、わたくしの胸の奥で、もう一度、静かに爆ぜた。




