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断罪令嬢のまかない飯が旨すぎて、冷酷王子が厨房から出てこない。  作者: 渚月(なづき)


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第4話 赤いソースの産地を誰も言わない

赤いソースが、王宮の晩餐に出るようになったのは、この三月のことだという。

厨房の棚には、深紅の液体の入った陶器の壺が、整然と並んでいた。

壺はどれも同じ大きさ、同じ封印。

整いすぎた並びは、たいてい、出所を隠している。

厨房の棚は、本来、大きさも形も雑多なのが普通だ。

産地ごとに壺の形が違い、封印の蝋の色も違う。

揃いすぎた壺は、むしろ、中身の均質さを偽装する道具に見えた。


「これは、何の実から」


壺の脇に立ったわたくしの問いに、サーシャは肩を竦めた。


「さあね。卸問屋から来るんだよ。あたしたちに産地を教える義理はない、ってさ」

「産地を知らずに使うのですか」

「文句があるなら、コンラートに言いな」


けれど、コンラートは腕を組んで、難しい顔で首を振るだけだった。


「上から、使えと言われている。それだけだ」


(上、とは。厨房の上なら、宮廷の調度掛。そのさらに上なら——。)


コンラートが、曖昧に首を振る時は、たいてい、答えを知っている時だ。

知っていて、言えない。

言えない理由を、彼は、こちらに向かって、一瞬だけ、目で示してくれていた。

厨房の人間の仲間意識は、言葉でなく、目の動きで交わされる。


壺の蓋を開けて、指先で一滴、掌に落とした。

色は鮮やかな深紅。香りは、甘く、発酵の気配がある。

舌先で、ほんのわずかに含む。


酸味、甘み、ぴりりとした辛み、そして——喉の奥に残る、鉄のような、苦い余韻。


(これは、熟した赤い実をそのまま発酵させた味ではない。火を入れすぎた実と、別の酸を足して作った味。)


わたくしの舌の記憶が、奥で疼いた。

母が生きていた頃、南の領地から届く赤い実のソースを、よく食卓に出してくれた。

あの味は、もっと丸く、もっと優しく、鉄の余韻を引かなかった。

鉄の余韻は、たいていの場合、傷んだ実か、金属の器で長く置いた液体にだけ現れる味だ。


南の三領地の赤い実は、収穫後すぐに木桶で発酵させる。

木桶は、鉄分を液体に移さない。

だから、本物の赤ソースには、鉄の余韻が出ない。

この壺の中身は、どこかの段階で、鉄の器を通過している。

加工場の、大きな鉄鍋で煮詰めた、ということだ。

その一点だけでも、「ノルダの加工場で手を加えた」という仮説は、ほぼ立証できる。


壺の底に、小さな紙片が貼られていた。

指の爪で剥がす。


「ノルダ産」


ノルダ。王都の北の商業地区だ。

けれど、赤い実を育てるには寒すぎる土地のはず。


(ノルダでは、赤い実は育たない。育つのは、南の三つの領地だけ。)


ノルダ産、と書かれているのに、ノルダでは育たない。

これは、産地偽装か、あるいは——加工地の表示か。

加工地を産地と書く。

それは、言葉の上では誤魔化せても、舌の上では誤魔化せない。


紙片の裏に、小さな印が押されていた。

天秤のような、卸問屋ギルドの封印。

封印を見た瞬間、わたくしの指先の熱が、一度だけ引いた。

王都の卸を一手に握る、ベルトランの組織の印だ。


(豆知識よっつ。王都の卸問屋ギルドは、食糧の産地表示に独自の「加工地表記」を認めさせている。本来の産地と、加工場の土地とを、同じ『産地』の欄で記せる仕組み。これが、産地偽装の温床になりやすい。)


わたくしは紙片を、袖口の月桂の隣に、そっと挟み込んだ。

証拠は、薄い紙から始まる。

厚い紙の証拠は、たいてい、遅れてやってくる。

急いで厚い証拠を求めると、見落とす。

薄い紙を、一枚、また一枚、丁寧に重ねていくのが、最も確かな道だ。



その夜、殿下は来なかった。

代わりに、配膳係のリースが、息を弾ませて走り込んできた。


「アイリ姉さん、食堂に、王太子殿下がお越しです」

「王太子殿下、と仰いますと——フェリクス殿下のお兄さま」

「はい。アレクシス殿下です」

「なぜ、厨房にではなく食堂に」

「お食事を、お一人で」


王太子アレクシス殿下が、第二厨房の食堂で、一人で食事をする。

異例のことだと、リースは言う。

王太子はいつも、主厨房の晩餐の間で、客人とともに食卓に就くはず。

異例のことは、誰かへの合図であることが多い。


コンラートが、わたくしに目配せした。


「アイリ。配膳を手伝え。皿を置くだけでいい」

「承知いたしました」


食堂の扉を押す。

金の髪の男が、卓に片肘をついて、微笑んでいた。

微笑の形は、湖面のように静かで、水底が見えない。


「新入りか」

「はい、殿下」

「名を」

「アイリ、と申します」

「アイリ。いい名だ」


王太子の視線は、わたくしの目と、手と、袖口を、順番に、丁寧になぞった。

値踏みされている感覚が、背骨をそっと撫でた。

ただし、嫌な撫で方ではない。

見る、という行為に、敬意が混じっていた。


(この人は、わたくしが誰なのか、もう気づいている。)


背筋の寒気を、呼吸で鎮める。

皿を置き、匙の位置を整え、一礼して下がる。

扉に手をかけた瞬間、王太子が言った。


「そういえば、この赤いソース、美味いだろう。弟の好物だ」

「……左様でございますか」

「産地は、ノルダだ。覚えておくといい」


ノルダ、と彼は確かに言った。

紙片に書かれていたのと、同じ言葉。


(ノルダで育たないものを、ノルダ産だと、王太子殿下みずから、わざわざ念を押す。)


「弟の好物」と彼は言ったけれど、フェリクス殿下がこのソースを好んでいる様子は、一度も見たことがない。

殿下は、むしろ、赤いソースの壺の前を通る時、わずかに顔を逸らしていた。

つまり、王太子の言葉は、文字通りの意味ではない。

何かの、鍵のかかった箱を、わたくしに見せている。

箱の中身は、まだ分からない。

けれど、箱の存在だけは、確かに示されている。

王太子という立場は、言葉の表と裏を、常に使い分けざるを得ない立場だ。

表の言葉は、卓を囲む全員に向けて発せられ、裏の言葉は、ただ一人、受け取るべき者の耳にだけ、届くように調律される。

今夜、裏の言葉を受け取ったのは、わたくしだった。


扉を閉め、廊下を歩き、厨房に戻る。

わたくしの背中に、微笑みの残像が貼りついていた。


厨房の勝手口で、銀髪の気配がした。

フェリクス殿下が、壁に背を預けて立っていた。


「兄上の、合図を受けたか」

「……合図、と仰いますと」

「産地の名前を、向こうから、わざわざ告げた」

「はい。ノルダと」

「ノルダでは、赤い実は育たない」

「……存じております」


殿下の銀色の目が、ほんの少しだけ、驚いたように揺れた。


「お前は、何者だ」

「失くした者でございます」

「失くして、取り戻したい者だな」


息が、止まった。

取り戻したい、という言葉を、自分でも口にしていなかったのに。


(見抜かれている。けれど、この人の目は、告発する光ではない。)


殿下は、一歩近づいて、低く言った。


「赤いソースの仕入れ台帳を、お前にだけ見せる」

「……宜しいのですか」

「厨房の命は塩、王都の命は卸だ。卸の嘘を暴くのに、台帳だけでは足りぬ。舌が要る」

「舌」

「お前の舌が、要る」


勝手口の外で、夜風が鳴った。


殿下の差し出した手のひらに、小さな鍵が乗っていた。


「今夜、子の刻。西の小書庫へ」


背後で、サーシャが、静かに皿を一枚、割った。


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