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断罪令嬢のまかない飯が旨すぎて、冷酷王子が厨房から出てこない。  作者: 渚月(なづき)


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3/10

第3話 冷酷王子は味見の逃走を知らない

殿下の問いが、まだ耳に残っていた。


問いは短く、返答はそれより短くなければいけない。

わたくしは匙を布巾に包み、両手を腿の前で揃えた。


「新入りのアイリでございます、殿下」

「それは聞いた。家は」

「失くしました」


失くしました、という三音の言葉を、わたくしは、今夜、声に出すのに、半拍遅れた。

半拍の遅れは、誠実さの形でもある。

即答する者は、たいてい、準備している者だ。

殿下の睫毛が、ほんの少しだけ伏せられた。

失くしたという言い方を、彼は誤魔化しと取らなかった。

失くした、という語の中身には、嘘をつく余地がない。

失くしたことを「失くした」と言う者は、たいていの場合、嘘の必要がない。


「そうか」


それだけ言って、殿下は二口目を口に運んだ。

コンラートが、目線でわたくしに「下がれ」と告げる。

わたくしは、一礼して竈の裏へ回った。


(冷酷という噂は、どこから生まれたのかしら。)


殿下の銀の匙の動きは、丁寧で、静かで、急がない。

急がない人は、たいていの場合、優しい。

優しさを表に出すのが下手なだけで、芯のところで、柔らかい。

表情を動かさないのは、たぶん、誰かの前でそれを禁じられてきたから。

そういう禁じられ方は、王家の長子の傍に置かれた次子に、よくあることだ。

微笑まない、怒らない、嘆かない。

王太子の影にならぬよう、感情の輪郭を、少しずつ、削っていく。

削りすぎた人が、冷酷と呼ばれることがある。


◇


翌日の朝餉の支度の途中、配膳係の少年リースが、息を切らせて駆け込んできた。


「お嬢さん、いえ、アイリ姉さん。裏口に……」

「裏口に?」

「お手紙を。届けに来たやつが、すぐ消えました」


封蝋のない粗末な紙だった。

広げた瞬間、わたくしの指が、鍋の取っ手を掴む時より強く、紙を握っていた。


父の、筆跡だった。

獄中からの、短い遺書。


——アイリル。家の裏倉を当たれ。月桂の壺の下。お前を守れなかった。父


紙はそこで終わっていた。

乾いたインクの滲みの仕方が、書き手が急いで、そして、手が震えていたことを教えていた。

インクの滲みは、手の震えと、紙の傾きを、そのまま残す。

父は、紙を膝の上で、おそらく横向きにして、書いた。

獄中では、机などないのだ。

膝の上の紙に、震える指で書いた一文は、父の最後の矜持の形そのものだった。


(お父さま。)


胸の奥が、石を落とした水面のように、一度だけ大きく歪んだ。

けれど、歪みはすぐに落ち着いて、あとは、澄んだ水面が残った。

泣くのは、夜。

昼は、手を動かす時間。

父の最後の字は、わたくしに、泣いてよい時間帯を指定していなかった。

だから、父自身が一番忙しい時刻を選んで、泣くことにする。

夜中、厨房の火を落とす、あの静かな時間。

父はよく、ハルシェードの屋敷の厨房に、夜更けにふらりと現れる人だった。

残り湯の湯気を眺めて、ひとこと、ふたこと、ベネディクと話し、また書斎へ戻っていく。

父は、わたくしが母の傍で鍋を握ることを、一度も、止めなかった。

侯爵令嬢が厨房に立つことに、父は、最後まで、誇りすら持っていた。


リースが、声をひそめて言った。


「お気の毒ですが、昨夜、獄で……毒を、盛られたと聞きました」

「……毒の種類は」

「下働きの噂では、セイランソウの抽出液、だと」


セイランソウ。

婚約破棄の夜、わたくしを告発した書面に並んだ毒草だ。


父は、セイランソウで殺された。

そして、わたくしは、セイランソウの管理違反で告発された。


(同じ毒草の名前が、二つの事件に跨っている。使った者が同じでないなら、台本を書いた者が同じ。)


セイランソウは、王都の薬草園にしか、扱いがない。

入手には、必ず記録が残る。

その記録を、辿れば、書面を用意した者の名前に、いつか辿り着く。

今すぐではない。

けれど、必ず。


わたくしは、紙を胸に収め、袖口の月桂の葉にそっと触れた。

哀しみは、後で、湯気の裏でゆっくりと。

今は、仕事の時間だ。


リースの肩に、軽く手を置いた。

少年の肩は、思ったより細かった。


「リース。あなたに危険が及ばぬよう、この紙のことは、二度と口にしないで」

「……はい」

「聞いたことは、忘れる。見たことは、覚えておく。それで十分」


リースは小さく頷いて、持ち場へ戻った。

少年の背中が、朝の光の中で、昨日より一回り大人びて見えた。

十九歳という年齢は、大人びる速度が一番早い年齢だ。

昨日までの自分と、今日の自分が、違うことに、まだ戸惑える年齢。

リースはその戸惑いごと、この厨房で、毎日、脱皮していた。


竈の前に戻り、スープの灰汁をすくう。

その、三度目の灰汁取りのとき、コンラートが後ろから低く囁いた。


「アイリ。調理場の奥の棚、塩の管理を任せる。塩は厨房の命だ」

「承知いたしました」

「それから、殿下が、お前のまかないをもう一度所望なさった」

「……殿下がお越しに」

「時間は決まっていない。来たら、味見の一皿を出せ」


冷酷王子の、味見の不意打ち。

つまり、いつ来るか分からない。

わたくしは頷いた。

塩の管理を任されるということは、厨房の信用を半分預けられたのに近い。

コンラートは、無口な男なのに、こちらを随分と買っている。

塩の壺には、鍵がかかる。

鍵は、厨房長とわたくしの二人しか持たない。

それは、ささやかな、しかし確かな昇格だった。

厨房の昇格は、肩書きではなく、鍵の数で、測られる。


(殿下、逃走しない味見をご存じないみたい。)


その日の午後、殿下は来た。

昼餉の片付けの最中、勝手口の布がそっと捲れ、銀髪が覗く。


「一口で構わぬ」

「今ございますのは、屑野菜の皮のスープでございます」

「それでいい」


皮のスープは、きちんと引けば澄む。

玉葱の皮、人参の皮、根菜の端、香草の軸。

水からゆっくり煮出して、灰汁を丁寧に取り、布で漉す。

黄金色の、甘みのある汁だ。


(豆知識みっつ。玉葱の皮にはたんぱく質と結びつく苦みの成分があるけれど、水から弱火で煮出すと甘みのほうが先に溶け出して、澄んだ出汁になる。)


殿下は、小鉢を受け取って、一口だけ含んだ。

そして、目を伏せて、静かに言った。


「お前の出汁は、嘘を引かない」

「……と申しますと」

「台帳に合わせて誤魔化した出汁ではない、という意味だ」


台帳に合わせた出汁、という言葉が、耳の奥で引っ掛かった。


(台帳に合わせた出汁?)


殿下は、こちらに小鉢を返す時、匙の柄で卓の端を一度、こつん、と叩いた。

何かの合図のように。

二度は叩かない。

一度だけ、合図の重さを、置いた。

合図を一度で終わらせるのは、見ている者が少ない時、あるいは、見ている者のうち一人にだけ届けばよい時だ。

今、この厨房で、殿下の一打ちを受け取れるのは、わたくしと、コンラートだけ。

コンラートは、既に、卓の向こう側で、小さく頷いていた。


去り際、殿下は独り言のように、低く言った。


「半年前、ここの先輩がひとり、消えた。王都の卸の調書と引き換えに」


言い置いて、殿下は出ていった。


サーシャが、遠くで皿を磨く手を、一瞬だけ、止めた。


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