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断罪令嬢のまかない飯が旨すぎて、冷酷王子が厨房から出てこない。  作者: 渚月(なづき)


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第3話 冷酷王子は味見の逃走を知らない

殿下の問いが、まだ耳に残っていた。


問いは短く、返答はそれより短くなければいけない。

わたくしは匙を布巾に包み、両手を腿の前で揃えた。


「新入りのアイリでございます、殿下」

「それは聞いた。家は」

「失くしました」


失くしました、という三音の言葉を、わたくしは、今夜、声に出すのに、半拍遅れた。

半拍の遅れは、誠実さの形でもある。

即答する者は、たいてい、準備している者だ。

殿下の睫毛が、ほんの少しだけ伏せられた。

失くしたという言い方を、彼は誤魔化しと取らなかった。

失くした、という語の中身には、嘘をつく余地がない。

失くしたことを「失くした」と言う者は、たいていの場合、嘘の必要がない。


「そうか」


それだけ言って、殿下は二口目を口に運んだ。

コンラートが、目線でわたくしに「下がれ」と告げる。

わたくしは、一礼して竈の裏へ回った。


(冷酷という噂は、どこから生まれたのかしら。)


殿下の銀の匙の動きは、丁寧で、静かで、急がない。

急がない人は、たいていの場合、優しい。

優しさを表に出すのが下手なだけで、芯のところで、柔らかい。

表情を動かさないのは、たぶん、誰かの前でそれを禁じられてきたから。

そういう禁じられ方は、王家の長子の傍に置かれた次子に、よくあることだ。

微笑まない、怒らない、嘆かない。

王太子の影にならぬよう、感情の輪郭を、少しずつ、削っていく。

削りすぎた人が、冷酷と呼ばれることがある。



翌日の朝餉の支度の途中、配膳係の少年リースが、息を切らせて駆け込んできた。


「お嬢さん、いえ、アイリ姉さん。裏口に……」

「裏口に?」

「お手紙を。届けに来たやつが、すぐ消えました」


封蝋のない粗末な紙だった。

広げた瞬間、わたくしの指が、鍋の取っ手を掴む時より強く、紙を握っていた。


父の、筆跡だった。

獄中からの、短い遺書。


——アイリル。家の裏倉を当たれ。月桂の壺の下。お前を守れなかった。父


紙はそこで終わっていた。

乾いたインクの滲みの仕方が、書き手が急いで、そして、手が震えていたことを教えていた。

インクの滲みは、手の震えと、紙の傾きを、そのまま残す。

父は、紙を膝の上で、おそらく横向きにして、書いた。

獄中では、机などないのだ。

膝の上の紙に、震える指で書いた一文は、父の最後の矜持の形そのものだった。


(お父さま。)


胸の奥が、石を落とした水面のように、一度だけ大きく歪んだ。

けれど、歪みはすぐに落ち着いて、あとは、澄んだ水面が残った。

泣くのは、夜。

昼は、手を動かす時間。

父の最後の字は、わたくしに、泣いてよい時間帯を指定していなかった。

だから、父自身が一番忙しい時刻を選んで、泣くことにする。

夜中、厨房の火を落とす、あの静かな時間。

父はよく、ハルシェードの屋敷の厨房に、夜更けにふらりと現れる人だった。

残り湯の湯気を眺めて、ひとこと、ふたこと、ベネディクと話し、また書斎へ戻っていく。

父は、わたくしが母の傍で鍋を握ることを、一度も、止めなかった。

侯爵令嬢が厨房に立つことに、父は、最後まで、誇りすら持っていた。


リースが、声をひそめて言った。


「お気の毒ですが、昨夜、獄で……毒を、盛られたと聞きました」

「……毒の種類は」

「下働きの噂では、セイランソウの抽出液、だと」


セイランソウ。

婚約破棄の夜、わたくしを告発した書面に並んだ毒草だ。


父は、セイランソウで殺された。

そして、わたくしは、セイランソウの管理違反で告発された。


(同じ毒草の名前が、二つの事件に跨っている。使った者が同じでないなら、台本を書いた者が同じ。)


セイランソウは、王都の薬草園にしか、扱いがない。

入手には、必ず記録が残る。

その記録を、辿れば、書面を用意した者の名前に、いつか辿り着く。

今すぐではない。

けれど、必ず。


わたくしは、紙を胸に収め、袖口の月桂の葉にそっと触れた。

哀しみは、後で、湯気の裏でゆっくりと。

今は、仕事の時間だ。


リースの肩に、軽く手を置いた。

少年の肩は、思ったより細かった。


「リース。あなたに危険が及ばぬよう、この紙のことは、二度と口にしないで」

「……はい」

「聞いたことは、忘れる。見たことは、覚えておく。それで十分」


リースは小さく頷いて、持ち場へ戻った。

少年の背中が、朝の光の中で、昨日より一回り大人びて見えた。

十九歳という年齢は、大人びる速度が一番早い年齢だ。

昨日までの自分と、今日の自分が、違うことに、まだ戸惑える年齢。

リースはその戸惑いごと、この厨房で、毎日、脱皮していた。


竈の前に戻り、スープの灰汁をすくう。

その、三度目の灰汁取りのとき、コンラートが後ろから低く囁いた。


「アイリ。調理場の奥の棚、塩の管理を任せる。塩は厨房の命だ」

「承知いたしました」

「それから、殿下が、お前のまかないをもう一度所望なさった」

「……殿下がお越しに」

「時間は決まっていない。来たら、味見の一皿を出せ」


冷酷王子の、味見の不意打ち。

つまり、いつ来るか分からない。

わたくしは頷いた。

塩の管理を任されるということは、厨房の信用を半分預けられたのに近い。

コンラートは、無口な男なのに、こちらを随分と買っている。

塩の壺には、鍵がかかる。

鍵は、厨房長とわたくしの二人しか持たない。

それは、ささやかな、しかし確かな昇格だった。

厨房の昇格は、肩書きではなく、鍵の数で、測られる。


(殿下、逃走しない味見をご存じないみたい。)


その日の午後、殿下は来た。

昼餉の片付けの最中、勝手口の布がそっと捲れ、銀髪が覗く。


「一口で構わぬ」

「今ございますのは、屑野菜の皮のスープでございます」

「それでいい」


皮のスープは、きちんと引けば澄む。

玉葱の皮、人参の皮、根菜の端、香草の軸。

水からゆっくり煮出して、灰汁を丁寧に取り、布で漉す。

黄金色の、甘みのある汁だ。


(豆知識みっつ。玉葱の皮にはたんぱく質と結びつく苦みの成分があるけれど、水から弱火で煮出すと甘みのほうが先に溶け出して、澄んだ出汁になる。)


殿下は、小鉢を受け取って、一口だけ含んだ。

そして、目を伏せて、静かに言った。


「お前の出汁は、嘘を引かない」

「……と申しますと」

「台帳に合わせて誤魔化した出汁ではない、という意味だ」


台帳に合わせた出汁、という言葉が、耳の奥で引っ掛かった。


(台帳に合わせた出汁?)


殿下は、こちらに小鉢を返す時、匙の柄で卓の端を一度、こつん、と叩いた。

何かの合図のように。

二度は叩かない。

一度だけ、合図の重さを、置いた。

合図を一度で終わらせるのは、見ている者が少ない時、あるいは、見ている者のうち一人にだけ届けばよい時だ。

今、この厨房で、殿下の一打ちを受け取れるのは、わたくしと、コンラートだけ。

コンラートは、既に、卓の向こう側で、小さく頷いていた。


去り際、殿下は独り言のように、低く言った。


「半年前、ここの先輩がひとり、消えた。王都の卸の調書と引き換えに」


言い置いて、殿下は出ていった。


サーシャが、遠くで皿を磨く手を、一瞬だけ、止めた。


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