第3話 冷酷王子は味見の逃走を知らない
殿下の問いが、まだ耳に残っていた。
問いは短く、返答はそれより短くなければいけない。
わたくしは匙を布巾に包み、両手を腿の前で揃えた。
「新入りのアイリでございます、殿下」
「それは聞いた。家は」
「失くしました」
失くしました、という三音の言葉を、わたくしは、今夜、声に出すのに、半拍遅れた。
半拍の遅れは、誠実さの形でもある。
即答する者は、たいてい、準備している者だ。
殿下の睫毛が、ほんの少しだけ伏せられた。
失くしたという言い方を、彼は誤魔化しと取らなかった。
失くした、という語の中身には、嘘をつく余地がない。
失くしたことを「失くした」と言う者は、たいていの場合、嘘の必要がない。
「そうか」
それだけ言って、殿下は二口目を口に運んだ。
コンラートが、目線でわたくしに「下がれ」と告げる。
わたくしは、一礼して竈の裏へ回った。
(冷酷という噂は、どこから生まれたのかしら。)
殿下の銀の匙の動きは、丁寧で、静かで、急がない。
急がない人は、たいていの場合、優しい。
優しさを表に出すのが下手なだけで、芯のところで、柔らかい。
表情を動かさないのは、たぶん、誰かの前でそれを禁じられてきたから。
そういう禁じられ方は、王家の長子の傍に置かれた次子に、よくあることだ。
微笑まない、怒らない、嘆かない。
王太子の影にならぬよう、感情の輪郭を、少しずつ、削っていく。
削りすぎた人が、冷酷と呼ばれることがある。
◇
翌日の朝餉の支度の途中、配膳係の少年リースが、息を切らせて駆け込んできた。
「お嬢さん、いえ、アイリ姉さん。裏口に……」
「裏口に?」
「お手紙を。届けに来たやつが、すぐ消えました」
封蝋のない粗末な紙だった。
広げた瞬間、わたくしの指が、鍋の取っ手を掴む時より強く、紙を握っていた。
父の、筆跡だった。
獄中からの、短い遺書。
——アイリル。家の裏倉を当たれ。月桂の壺の下。お前を守れなかった。父
紙はそこで終わっていた。
乾いたインクの滲みの仕方が、書き手が急いで、そして、手が震えていたことを教えていた。
インクの滲みは、手の震えと、紙の傾きを、そのまま残す。
父は、紙を膝の上で、おそらく横向きにして、書いた。
獄中では、机などないのだ。
膝の上の紙に、震える指で書いた一文は、父の最後の矜持の形そのものだった。
(お父さま。)
胸の奥が、石を落とした水面のように、一度だけ大きく歪んだ。
けれど、歪みはすぐに落ち着いて、あとは、澄んだ水面が残った。
泣くのは、夜。
昼は、手を動かす時間。
父の最後の字は、わたくしに、泣いてよい時間帯を指定していなかった。
だから、父自身が一番忙しい時刻を選んで、泣くことにする。
夜中、厨房の火を落とす、あの静かな時間。
父はよく、ハルシェードの屋敷の厨房に、夜更けにふらりと現れる人だった。
残り湯の湯気を眺めて、ひとこと、ふたこと、ベネディクと話し、また書斎へ戻っていく。
父は、わたくしが母の傍で鍋を握ることを、一度も、止めなかった。
侯爵令嬢が厨房に立つことに、父は、最後まで、誇りすら持っていた。
リースが、声をひそめて言った。
「お気の毒ですが、昨夜、獄で……毒を、盛られたと聞きました」
「……毒の種類は」
「下働きの噂では、セイランソウの抽出液、だと」
セイランソウ。
婚約破棄の夜、わたくしを告発した書面に並んだ毒草だ。
父は、セイランソウで殺された。
そして、わたくしは、セイランソウの管理違反で告発された。
(同じ毒草の名前が、二つの事件に跨っている。使った者が同じでないなら、台本を書いた者が同じ。)
セイランソウは、王都の薬草園にしか、扱いがない。
入手には、必ず記録が残る。
その記録を、辿れば、書面を用意した者の名前に、いつか辿り着く。
今すぐではない。
けれど、必ず。
わたくしは、紙を胸に収め、袖口の月桂の葉にそっと触れた。
哀しみは、後で、湯気の裏でゆっくりと。
今は、仕事の時間だ。
リースの肩に、軽く手を置いた。
少年の肩は、思ったより細かった。
「リース。あなたに危険が及ばぬよう、この紙のことは、二度と口にしないで」
「……はい」
「聞いたことは、忘れる。見たことは、覚えておく。それで十分」
リースは小さく頷いて、持ち場へ戻った。
少年の背中が、朝の光の中で、昨日より一回り大人びて見えた。
十九歳という年齢は、大人びる速度が一番早い年齢だ。
昨日までの自分と、今日の自分が、違うことに、まだ戸惑える年齢。
リースはその戸惑いごと、この厨房で、毎日、脱皮していた。
竈の前に戻り、スープの灰汁をすくう。
その、三度目の灰汁取りのとき、コンラートが後ろから低く囁いた。
「アイリ。調理場の奥の棚、塩の管理を任せる。塩は厨房の命だ」
「承知いたしました」
「それから、殿下が、お前のまかないをもう一度所望なさった」
「……殿下がお越しに」
「時間は決まっていない。来たら、味見の一皿を出せ」
冷酷王子の、味見の不意打ち。
つまり、いつ来るか分からない。
わたくしは頷いた。
塩の管理を任されるということは、厨房の信用を半分預けられたのに近い。
コンラートは、無口な男なのに、こちらを随分と買っている。
塩の壺には、鍵がかかる。
鍵は、厨房長とわたくしの二人しか持たない。
それは、ささやかな、しかし確かな昇格だった。
厨房の昇格は、肩書きではなく、鍵の数で、測られる。
(殿下、逃走しない味見をご存じないみたい。)
その日の午後、殿下は来た。
昼餉の片付けの最中、勝手口の布がそっと捲れ、銀髪が覗く。
「一口で構わぬ」
「今ございますのは、屑野菜の皮のスープでございます」
「それでいい」
皮のスープは、きちんと引けば澄む。
玉葱の皮、人参の皮、根菜の端、香草の軸。
水からゆっくり煮出して、灰汁を丁寧に取り、布で漉す。
黄金色の、甘みのある汁だ。
(豆知識みっつ。玉葱の皮にはたんぱく質と結びつく苦みの成分があるけれど、水から弱火で煮出すと甘みのほうが先に溶け出して、澄んだ出汁になる。)
殿下は、小鉢を受け取って、一口だけ含んだ。
そして、目を伏せて、静かに言った。
「お前の出汁は、嘘を引かない」
「……と申しますと」
「台帳に合わせて誤魔化した出汁ではない、という意味だ」
台帳に合わせた出汁、という言葉が、耳の奥で引っ掛かった。
(台帳に合わせた出汁?)
殿下は、こちらに小鉢を返す時、匙の柄で卓の端を一度、こつん、と叩いた。
何かの合図のように。
二度は叩かない。
一度だけ、合図の重さを、置いた。
合図を一度で終わらせるのは、見ている者が少ない時、あるいは、見ている者のうち一人にだけ届けばよい時だ。
今、この厨房で、殿下の一打ちを受け取れるのは、わたくしと、コンラートだけ。
コンラートは、既に、卓の向こう側で、小さく頷いていた。
去り際、殿下は独り言のように、低く言った。
「半年前、ここの先輩がひとり、消えた。王都の卸の調書と引き換えに」
言い置いて、殿下は出ていった。
サーシャが、遠くで皿を磨く手を、一瞬だけ、止めた。




