第2話 裏口で働く者は名を問われない
銀髪の男は、厨房の入口で三歩進んで、また止まった。
まるで、湯気の匂いが見えない鎖のように、彼の踵を掴んでいるようだった。
「殿下。厨房にはお下がりいただいております」
コンラートが、布巾で手を拭きながら短く言う。
殿下、と呼ばれた男は応えず、鼻先だけをこちらに向けた。
「……牛乳で塩を抜いている者がいる。誰だ」
声は、薄氷を踏むような静かさだった。
冷酷王子と呼ばれるフェリクス・エルスタイン第二王子。
噂ではいつも顔色を変えない人だと聞いていた。
けれど、彼の鼻先は、匂いに対して、確かに正直に動いている。
鼻先は、顔の中で、一番嘘のつきにくい場所だ。
目は誤魔化せても、鼻は誤魔化せない。
匂いに反応した鼻を、反応していないふりで隠そうとしても、人の鼻孔は、わずかに開いてしまう。
殿下の鼻孔は、今、確かにわずかに開いていた。
わたくしは、竈の前で背筋を伸ばし、匙を置いた。
「新入りのアイリと申します。塩気の急ぎ抜きでしたので、牛乳を」
フェリクス殿下の眉が、ほんのわずかに上がった。
表情が動いたというには小さすぎる動きで、けれど確かに動いた。
その眉の動きは、昨日の夜会で見た貴族たちの、示し合わせた震えとは、正反対の動きだった。
「それは、家で習う技だな」
「田舎の祖母に、でございます」
嘘を一つ、小さく差し込んだ。
田舎の祖母などいないし、教えてくれたのは母とベネディクだ。
けれど、ここで家名を出すわけにはいかない。
殿下の目は、嘘を見抜く目だった。
見抜いたうえで、あえて追及しない目でもあった。
殿下は少しだけ視線を下げ、塩抜きの鍋の縁をじっと見て、それから踵を返した。
静かな足音が遠ざかり、扉が閉まる。
「殿下がご自分から厨房へいらっしゃるのは、半年ぶりだ」
コンラートが、呟くように言った。
独り言に近い声だったけれど、わたくしに聞かせるためだと、なんとなく分かった。
(半年ぶり。……半年前に、ここで何があったのかしら。)
周囲の下働きたちは、殿下が去った途端、一気に呼吸を取り戻した。
冷酷王子が厨房を覗く、ということ自体が、この第二厨房では異例なのだ。
異例の客人は、たいてい、伏線の形をしている。
わたくしは、袖口の月桂の葉に、そっと鼻先を寄せた。
落ち着くための、小さな儀式のように。
年嵩の下働きが、鍋の縁を一度、軽く叩いた。
厨房の仕事へ戻る、という合図だ。
誰かが合図を出してくれないと、全員、手が止まったままになる。
そういう場を、古参の職人が、さりげなく拾う。
第二厨房は、そういう細かな手ほどきで、辛うじて日々を回している場所だった。
わたくしは、鍋の湯気に向かって、少しだけ背中を傾けた。
竈の熱が、頬に届く距離。
ここが、今夜のわたくしの持ち場だ、と、体で覚え直す。
◇
「新入り。まかない、お前が作れ」
厨房の仕事が一段落した夕刻、先輩見習いのサーシャが顎でこちらを示した。
勝ち気な目をした、赤毛の女性だ。
わたくしより二つほど年上だろうか。
腕の肘から下には、細かい火傷の跡がいくつも薄く残っている。
鍋に長く立ってきた腕の跡だ。
火傷の跡の数は、厨房で過ごした年月の勲章のようなものだ。
貴族の勲章は胸につける、職人の勲章は腕につく。
「いいのですか」
「新入りの初仕事だよ。材料は残り物で済ませな」
サーシャの口の端が、試すように持ち上がっていた。
残り物でまともなものを作れるか、という試験だ。
わたくしは、片隅の籠を覗いた。
屑肉、折れたパン、しなびかけた根菜、塩漬けの豚の切れ端、乾いた香草。
乳が少し、チーズの端も。
(これは、御馳走ができるわ。)
頬の内側が、ほんのわずかに熱くなった。
追われた令嬢には、御馳走の材料に見える。
それが、少しだけおかしかった。
昨日まで、銀の皿に乗った仔羊を眺めて、半分も食べ残していたのに。
今日は、しなびた根菜の皮の一枚の厚みまで、手のひらで確かめている。
人は、環境で、こうもあっさり変わる。
変われる、ということは、これからも変わっていける、ということ。
変われない人間のほうが、たぶん、この先、生き延びにくい。
屑肉はみじん切り、根菜は薄切り、パンは牛乳に浸して柔らかくする。
塩豚の切れ端は湯通ししてから細切り。
鍋に脂を引いて根菜から炒め、屑肉と塩豚を合わせ、香草を指で砕いて落とす。
パンで旨みを吸わせ、チーズでまとめる。
仕上げに、袖口の塩漬け月桂を、ほんの一欠片だけ。
月桂はちぎらず、指の爪で縁を折る。
折り目から香りが立つ。
(豆知識ふたつ。月桂は乾いたものより、塩漬けのほうが香りが深い。塩が葉の細胞を壊して、精油が溶け出しやすくなるから。)
鉄鍋で焼き固めた小さな一口焼き。
厨房の丸卓に、十人分を並べた。
湯気が立つうちに食べてもらいたい。
冷めれば、チーズが締まって、固くなってしまう。
まかないは、厨房の人間の、唯一の贅沢だ。
贅沢は、温かいうちに、貪るように食べるのが礼儀だと、母が言っていた。
母は、貴族の夫人でありながら、厨房で誰より熱心に、まかないの湯気を観察する人だった。
人が食べるものの温度に、最もよく心を配るのが、料理人の資質だと、母は信じていた。
コンラートが、まず手を伸ばした。
無言で口に運び、無言で次の一口を取った。
サーシャは最後に取って、一口、二口、三口と、止まらなかった。
「……ちっ」
「お口に合いましたか」
「合った。合ったから舌打ちしてるんだよ、新入り」
サーシャの舌打ちは、不思議と、悪意の色をしていなかった。
何かを、別のところへぶつけ損なった舌打ち。
そういう舌打ちを、わたくしは、母の厨房で聞いた覚えがある。
料理人が、自分の腕の足りなさを悔しがる時の音だ。
つまり、サーシャ様はわたくしの腕を認めたうえで、自分の腕と比べて、悔しがってくださった。
それは、敵視とは違う、もっと真っ直ぐな感情だった。
悔しがる、というのは、相手を対等に扱う時にしか、出ない感情だ。
下に見ている相手には、悔しさは湧かない。
そこへ、勝手口の布が揺れて、銀髪が覗いた。
一度去ったはずの、第二王子。
「……残りはあるか」
厨房が、凍った。
コンラートが、口の中のものをそっと飲み込んで、布巾で口元を拭った。
「殿下。こちらは使用人のまかないで、殿下の御前に出せるものでは……」
「構わぬ」
フェリクス殿下は、丸卓の端の椅子に、音を立てずに腰を下ろした。
まかないの一皿を、銀の匙で掬って、目を閉じた。
長い、長い沈黙だった。
わたくしの呼吸の音が、自分の耳に遠い。
厨房の誰も、鍋を動かさなかった。
動かせば、殿下の舌の上の時間を乱してしまう。
そう、全員が、無言で合意していた。
目を開けた殿下は、こちらを見て、一言だけ言った。
「お前、誰だ」
声に棘はなかった。
けれど、嘘を弾く光が、その目の奥に確かにあった。
嘘を弾く光は、裁く光ではなかった。
裁く光は、相手を見下ろす。
この光は、相手と同じ高さから、静かに目を合わせる光だった。
冷酷王子と呼ばれる人の、素の目の高さを、わたくしは今夜、初めて見た気がした。




