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断罪令嬢のまかない飯が旨すぎて、冷酷王子が厨房から出てこない。  作者: 渚月(なづき)


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第1話 婚約破棄の夜に残った塩漬け

大広間の床は磨かれすぎていて、自分の靴音がよそ者のように響いた。

シャンデリアの光の下で、わたくしは婚約破棄と家の取り潰しを、同じ呼吸の長さで言い渡されている。


「アイリル・ハルシェード。横領、偽証、そして……毒草の管理違反。婚約は破棄する」


元婚約者オズマリオの声は、稽古した通りに震えていた。

震えは上手だけれど、彼の指先は震えていない。

震えているふりだと、すぐに分かる。


(声が震えるのに、指は震えないのね。)


居並ぶ貴族の顔は、夜会の蝋燭の炎みたいに揺れていた。

誰も、庇わない。

庇う意味がないと、みんな知っているのだ。

わたくしの喉の奥が、小さく乾いた。

乾きは悲鳴の手前で留まっている。

ここで声を荒げれば、彼らの台本に書かれた通りに動くことになる。


「証拠は揃っている。父侯爵は既に拘束済みだ」


兄が、わたくしの斜め後ろで笑っていた。

異母兄シルヴェストは、父の後妻の子。

家を継ぐのは嫡女のわたくしと、もう決まっていたはずだった。

決まっていた、という過去形が、今夜、初めて自分の内側で響いた。

異母兄の笑みには、勝利の色と、それを隠そうとして隠しきれない、幼い媚びが混じっていた。

勝ち慣れていない者の勝ち方、という形をしていた。


「アイリル。君も、しかるべき処罰を受ける」


オズマリオの指が、金糸の台紙に乗った書面を示した。

わたくしは、そこに並んだ毒草の名前を目で追う。

セイランソウ、ヒメザクロ、ルノー草。


(ルノー草は、毒ではないわ。)


ルノー草は、脂の多い肉を柔らかくする香草だ。

厨房で使う。

うちの料理人ベネディクが、十年前に仕込みの秘訣として教えてくれた。

葉の裏を軽く揉むと、指先に松脂に似た香が残る、あの草だ。


毒草の管理違反。

そう書かれた書面は、香草と毒草の区別もつかない人間が用意したものだった。


(つまり、この告発をそろえた者たちは、料理をしない。)


それだけが、今の自分の目の高さを保ってくれた。

料理をしない者の書いた台本を、料理をする者が読み解く。

それなら、まだ勝負になる。


オズマリオが、念を押すように声を張った。


「王太子殿下もご臨席のこの場で、異議があれば申されよ」


上座の金髪の王太子アレクシスは、頬杖をつき、ただ微笑んでいた。

その微笑は、湖面のように滑らかで、水底が見えない。

庇う気配はなく、けれど、積極的に断罪する気配もない。


(観ているだけの王太子殿下。どちら側の方なのかしら。)


異議は、口にしなかった。

言葉で抗えば、嗤われて終わる。

わたくしは、ただ一礼して、広間を退いた。

背後で、オズマリオの声が、もう一段、上擦った。

台本通りに読み切れた安堵の声だ。



夜半、街道の石畳の冷たさに膝を折った。

屋敷は封鎖され、衣装箱の一つも許されなかった。

父侯爵は獄、母は三年前に亡くなり、使用人たちは散り散り。


手元に残ったものは、三つだけ。

母の形見の銀の匙。

袖口に縫い込まれた、塩漬けの月桂の一枝。

そして、舌の記憶。


銀の匙は、柄に家紋が刻まれている。

明日からは、誰にも見せられない。

月桂の一枝は、母が最期の病床で、わたくしの袖口に自ら縫い付けたものだ。

「あなたの匙が迷った時、これを嗅ぎなさい」——母は、そう言った。


石畳の冷たさが、膝の骨を通り越して、腰まで登ってくる。

涙は出なかった。

出したら、明日の分がなくなりそうな気がした。


「お嬢さま……いえ、アイリルさま」


路地から忍び出てきたのは、もと配膳係の老女だった。

彼女は声を落として言う。


「王宮の第二厨房で、見習いを一人、急ぎ募っているそうでございます。裏口からの採用でしたら、家名を問われませぬ」


家名を問われない。

その響きが、夜の路地で静かに、温かく届いた。


「王宮、でございますか」

「冷酷と噂の第二王子のお住まいと同じ棟で……畏れ多くはございますが、家名のない者が潜むには、かえって都合がよろしいかと」


(灯台の下は、暗い。)


わたくしは頷いた。

母に仕込まれた料理の手。

父に仕込まれた家の書類の読み方。

そのどちらも、今夜から、自分一人のものだ。


老女はわたくしの手に、小さな包みを押し付けた。

硬貨が数枚と、黒い前掛け、それから、古い手拭いだった。


「前掛けは、第二厨房の下働きのものでございます。お納めくださいませ」

「これは、どこから」

「問われぬものは、答えぬものにございます」


老女の皺の寄った手は、鍋を持ち上げてきた手の形をしていた。

彼女もまた、母の傍で長年、料理の端を支えてきた人だ。

ありがとうと言う代わりに、わたくしは深く頭を下げた。

老女は、一度だけ、こちらの肩に手を置き、そして夜の路地に消えた。

肩に残った手の重さが、母の手の重さに、少しだけ似ていた。


翌日の昼下がり。

王宮の西の裏門で、名を「アイリ」とだけ告げた。

名字は、置いてきた。

裏門は、正門よりずっと小さく、石の組みも荒い。

けれど、出入りする人の流れは、正門よりずっと多かった。

王宮を本当に回しているのは、表の回廊ではなく、この裏門の人流だ、と、一目で分かった。


門番は名簿を流し見て、短く言った。


「厨房長のところへ行け。今日の夕餉の下拵えが遅れている」


廊下を抜け、蒸気と油の匂いの満ちた場所へ足を踏み入れる。

そこは別世界だった。

鍋の湯気、包丁のリズム、鉄の焦げ、肉の脂、香草の青い匂い。

足元の敷石は油で薄く黒ずみ、靴底が微かに張り付く。


(ここには、家名がない。腕だけがある。)


深く息を吸って、袖をまくった。

袖口の月桂の葉が、かすかに香る。


厨房長と名乗った無愛想な男——コンラートは、こちらを一瞥して顎をしゃくった。


「塩漬け肉、食える状態にしろ。一刻で」


一刻、は、一時間。

普通の塩抜きには足りない時間だ。


塩漬け肉は、水で戻して塩を抜くのが基本。

けれど、急ぎの一刻なら、薄切りにして牛乳に浸すのが早い。

脂の酸化が和らぎ、塩気もまろやかになる。


(豆知識ひとつ。塩漬け肉の塩抜きは、真水より牛乳のほうが早く進む。牛乳のたんぱく質が塩味を和らげてくれるから。真水だけだと、外側ばかり抜けて、中の塩が残ることがある。)


わたくしは、黙って牛乳の壺に手を伸ばした。

肉は繊維に逆らって薄く削ぎ、平たい器に重ねる。

牛乳を注ぎ、上から軽く布で押さえて、空気の層を抜く。

これで、半刻ほど置けば、表面の塩は穏やかに溶け出す。


コンラートの眉が、ほんの少し動いた気がした。

動いた、というより、動きかけて止まった、という精度の動きだ。


背後で、誰かが低く囁く。


「あの新入り、妙に手が綺麗だぜ」


振り向かなかった。

振り向けば、終わってしまう気がした。

手の綺麗さは、洗っても落ちない。

侯爵令嬢の指は、薄皮を削ぐ包丁の握り跡も、火傷の跡も、まだ薄い。

これから、濃く、染み込ませていけばいい。


半刻後、肉を引き上げ、布で水気を取り、軽く粉を叩く。

鉄板を熱し、脂の筋が立ってから肉を落とす。

音が、厨房の湯気をひとつ、震わせた。


コンラートが、切れ端を一口、つまんで口に入れた。

咀嚼の間、彼の顎は、数回だけ、ゆっくりと動いた。


「……通せ」


それだけ言って、彼は次の指示へ移った。

通せ、は、ここでは合格の合図だった。


鍋の蒸気の向こう、食堂への扉が静かに開いた。

銀髪の、長身の男が、厨房の入口で立ち止まって、こちらを見ていた。


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