第10話 湯気の向こうで手を伸ばされて
五年前の公式晩餐の再調査は、静かに、しかし着実に進んだ。
王太子殿下の命で、宮廷調査官が動き、わたくしは、厨房監査役のコンラートと、副顧問のミレネ様とともに、舌と目を貸した。
結果は、三月ののちに、王太子殿下の手元にまとまった。
先代国王陛下の崩御は、ノルダ産赤いソースの、長期摂取による慢性中毒が、無関係とは言い切れない——そういう、静かな結論だった。
ただし、関与者の大半は、既に裁かれた者たち、もしくは、鬼籍に入った者。
新たな処罰は、小さく、必要な分だけ。
王太子殿下は、報告書を読み終え、長く息を吐き、そして——微笑んだ。
今度の微笑は、仮面ではなく、痛みの出口だった。
「父上の仇を、討ちたかったわけではない」
「と、仰いますと」
「父上の死を、嘘にしたくなかった。嘘のまま葬るのが、一番、辛かった」
嘘のまま、葬りたくない。
その言葉は、わたくしの、父のことにも、母のことにも、重なった。
嘘のまま残された死は、生きている者の中で、ずっと腐り続ける。
鍋の底に沈んだ食材が、煮続けられると苦くなるのと、似ている。
◇
王家の正餐の広間に、春が来た。
長い窓の外で、杏の木の花が、ほどけていた。
その日の晩餐は、内々の席だった。
王太子殿下、フェリクス殿下、王太后陛下、そして、賓客として招かれたわたくし。
わたくしは、顧問料理人の黒の制服ではなく、侯爵令嬢の淡い藤色のドレスを、久しぶりに身につけていた。
袖口には、母の形見の月桂の葉を、縫い込んだまま。
ドレスの絹の感触は、懐かしいというより、少しだけ、遠かった。
身分の着物は、もう、わたくしにとって、日常ではなかった。
フェリクス殿下は、わたくしを、広間の扉で出迎えた。
銀髪が、窓から射す光で、銀よりもう少し温かい色に見えた。
「アイリル」
「殿下」
「席を、用意してある」
「はい」
「俺の、隣だ」
殿下は、そう言って、こちらに手を伸ばした。
晩餐の夜の、広間の扉を開けるという、あの約束の続きだ。
わたくしは、殿下の手の甲に、自分の手の甲を、軽く重ねた。
握るのでもなく、掴むのでもなく、ただ、重ねる。
(この距離が、わたくしたちの、ちょうどいい距離。)
晩餐の席で、王太后陛下が、柔らかく微笑まれた。
「アイリル嬢。あなたの、皮のスープの噂は、王都の隅々まで届いておりますよ」
「畏れ多きお言葉にございます、陛下」
「そなたの母上の味を、わたくしは、昔、一度だけ頂いたことがあります」
「……母の」
「二十年前、王宮の非公式の茶会でした。そなたの母上は、その時、顧問料理人の候補に挙がっていたのですよ」
母は、かつて、この王宮の卓に、立つはずだった人だった。
嫁いだ先で、家の台所を守ることを選び、そして、娘に鍋を握る手を残した。
その娘が、今、王宮の卓に招かれている。
母の席を、継ぐというより、母の味を、繋ぐ形で。
(お母さま。わたくしは、あなたの匙を、きちんと、引き継ぎました。)
袖口の月桂が、春の室内で、ほんのわずか、香った。
晩餐のあいだ、殿下とわたくしは、たくさんの言葉を交わしたわけではない。
ただ、匙を運ぶ間合いが、隣同士で、ぴたりと合っていた。
料理人と、料理の味を知る人の、呼吸の一致。
それは、恋の言葉より、ずっと、ゆっくり効いた。
王太后陛下は、最後の皿の前で、もう一度、微笑まれた。
「フェリクス。良い方と、隣の席を分けておりますね」
殿下は、陛下に向かって一礼した。
その一礼は、形式的なお辞儀ではなく、何か、大事な申し出の予約のような、重さを持っていた。
晩餐ののち、中庭の回廊で、殿下はわたくしに、懐から、一つの包みを差し出した。
「これは」
「お前の、新しい匙だ」
「……殿下」
「紋章は、入れていない。お前の手の、軽さに合わせてある」
包みを解くと、細工の施された銀の匙が、一本。
柄には、小さな月桂の葉が、一枚、刻まれていた。
家紋ではなく、月桂。
わたくしが、わたくしとして立っている、その印。
月桂の葉は、料理人の印であり、同時に、勝ち名乗りの印でもある。
古い言い伝えで、月桂冠は、戦に勝った者と、言葉で人を動かした者の、両方に与えられた。
殿下は、それを、知っていて刻まれたのだろう。
「殿下。これは、わたくしの、一番、大切な匙になります」
「家の、匙より」
「家の匙は、家の匙の棚に。これは、わたくしの、仕事の棚に」
「……そうか」
「殿下。もうひとつ、お願いがございます」
「何だ」
「いつか、殿下が、わたくしの隣の席に、お座りになる日のために、もう一つ、匙を作っておいてくださいませ」
殿下の目が、少し、見開かれた。
そのあと、口の端が、ゆっくり、ゆっくり、持ち上がった。
冷酷と呼ばれた顔が、ここ数ヶ月で、ずいぶん柔らかい形を覚えた。
「承知した。お前の隣の席用の匙を、俺が預かる」
「はい。ただし、柄には、家紋を入れてよろしゅうございます」
「……家紋」
「いつかの、わたくしの家紋を」
殿下は、一瞬、息を止めて、それから、軽く目を閉じた。
わたくしの言葉の意味を、噛みしめていらっしゃるのだと、分かった。
「アイリル。それは、求婚を、こちらに任せてくれるという意味か」
「はい、殿下。急がずに、どうぞ」
「急がぬ。俺は、待つ料理を、爺から、習った」
待つ料理。
ベネディクの、最後のスープ。
老人の声が、一瞬、湯気の向こうから聞こえた気がした。
(ベネディク。わたくしは、待つことも、動くことも、少しだけ、覚えました。)
回廊の先、厨房の勝手口から、湯気が一筋、立っていた。
誰かが、まかないの仕込みを始めている。
きっと、サーシャだ。
あるいは、ミレネ様。
リースが、鍋の傍で、薪を足しているところかもしれない。
コンラートが、仕入れ台帳の余白に、今日の天気を書き込んでいるところかもしれない。
湯気の向こうから、誰かが、こちらに手を伸ばしている——そんな気が、ふとした。
それは、殿下の手でも、母の手でも、ベネディクの手でもなく、わたくし自身の、数年後の手のように思えた。
鍋を振る手は、震えていなかった。
もう、たぶん、一生、震えない。
湯気は、春の光に溶けて、静かに、上へ、上へと登っていった。
ハルシェードの家領の土も、王宮の厨房の竈も、今日、同じ空の下で、確かに、息をしている。
その息に合わせて、わたくしも、静かに、息をする。
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