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断罪令嬢のまかない飯が旨すぎて、冷酷王子が厨房から出てこない。  作者: 渚月(なづき)


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第10話 湯気の向こうで手を伸ばされて

五年前の公式晩餐の再調査は、静かに、しかし着実に進んだ。

王太子殿下の命で、宮廷調査官が動き、わたくしは、厨房監査役のコンラートと、副顧問のミレネ様とともに、舌と目を貸した。


結果は、三月ののちに、王太子殿下の手元にまとまった。

先代国王陛下の崩御は、ノルダ産赤いソースの、長期摂取による慢性中毒が、無関係とは言い切れない——そういう、静かな結論だった。

ただし、関与者の大半は、既に裁かれた者たち、もしくは、鬼籍に入った者。

新たな処罰は、小さく、必要な分だけ。


王太子殿下は、報告書を読み終え、長く息を吐き、そして——微笑んだ。

今度の微笑は、仮面ではなく、痛みの出口だった。


「父上の仇を、討ちたかったわけではない」

「と、仰いますと」

「父上の死を、嘘にしたくなかった。嘘のまま葬るのが、一番、辛かった」


嘘のまま、葬りたくない。

その言葉は、わたくしの、父のことにも、母のことにも、重なった。

嘘のまま残された死は、生きている者の中で、ずっと腐り続ける。

鍋の底に沈んだ食材が、煮続けられると苦くなるのと、似ている。



王家の正餐の広間に、春が来た。

長い窓の外で、杏の木の花が、ほどけていた。


その日の晩餐は、内々の席だった。

王太子殿下、フェリクス殿下、王太后陛下、そして、賓客として招かれたわたくし。


わたくしは、顧問料理人の黒の制服ではなく、侯爵令嬢の淡い藤色のドレスを、久しぶりに身につけていた。

袖口には、母の形見の月桂の葉を、縫い込んだまま。

ドレスの絹の感触は、懐かしいというより、少しだけ、遠かった。

身分の着物は、もう、わたくしにとって、日常ではなかった。


フェリクス殿下は、わたくしを、広間の扉で出迎えた。

銀髪が、窓から射す光で、銀よりもう少し温かい色に見えた。


「アイリル」

「殿下」

「席を、用意してある」

「はい」

「俺の、隣だ」


殿下は、そう言って、こちらに手を伸ばした。

晩餐の夜の、広間の扉を開けるという、あの約束の続きだ。


わたくしは、殿下の手の甲に、自分の手の甲を、軽く重ねた。

握るのでもなく、掴むのでもなく、ただ、重ねる。


(この距離が、わたくしたちの、ちょうどいい距離。)


晩餐の席で、王太后陛下が、柔らかく微笑まれた。


「アイリル嬢。あなたの、皮のスープの噂は、王都の隅々まで届いておりますよ」

「畏れ多きお言葉にございます、陛下」

「そなたの母上の味を、わたくしは、昔、一度だけ頂いたことがあります」

「……母の」

「二十年前、王宮の非公式の茶会でした。そなたの母上は、その時、顧問料理人の候補に挙がっていたのですよ」


母は、かつて、この王宮の卓に、立つはずだった人だった。

嫁いだ先で、家の台所を守ることを選び、そして、娘に鍋を握る手を残した。


その娘が、今、王宮の卓に招かれている。

母の席を、継ぐというより、母の味を、繋ぐ形で。


(お母さま。わたくしは、あなたの匙を、きちんと、引き継ぎました。)


袖口の月桂が、春の室内で、ほんのわずか、香った。


晩餐のあいだ、殿下とわたくしは、たくさんの言葉を交わしたわけではない。

ただ、匙を運ぶ間合いが、隣同士で、ぴたりと合っていた。

料理人と、料理の味を知る人の、呼吸の一致。

それは、恋の言葉より、ずっと、ゆっくり効いた。


王太后陛下は、最後の皿の前で、もう一度、微笑まれた。

「フェリクス。良い方と、隣の席を分けておりますね」

殿下は、陛下に向かって一礼した。

その一礼は、形式的なお辞儀ではなく、何か、大事な申し出の予約のような、重さを持っていた。




晩餐ののち、中庭の回廊で、殿下はわたくしに、懐から、一つの包みを差し出した。


「これは」

「お前の、新しい匙だ」

「……殿下」

「紋章は、入れていない。お前の手の、軽さに合わせてある」


包みを解くと、細工の施された銀の匙が、一本。

柄には、小さな月桂の葉が、一枚、刻まれていた。


家紋ではなく、月桂。

わたくしが、わたくしとして立っている、その印。

月桂の葉は、料理人の印であり、同時に、勝ち名乗りの印でもある。

古い言い伝えで、月桂冠は、戦に勝った者と、言葉で人を動かした者の、両方に与えられた。

殿下は、それを、知っていて刻まれたのだろう。


「殿下。これは、わたくしの、一番、大切な匙になります」

「家の、匙より」

「家の匙は、家の匙の棚に。これは、わたくしの、仕事の棚に」

「……そうか」

「殿下。もうひとつ、お願いがございます」

「何だ」

「いつか、殿下が、わたくしの隣の席に、お座りになる日のために、もう一つ、匙を作っておいてくださいませ」


殿下の目が、少し、見開かれた。

そのあと、口の端が、ゆっくり、ゆっくり、持ち上がった。

冷酷と呼ばれた顔が、ここ数ヶ月で、ずいぶん柔らかい形を覚えた。


「承知した。お前の隣の席用の匙を、俺が預かる」

「はい。ただし、柄には、家紋を入れてよろしゅうございます」

「……家紋」

「いつかの、わたくしの家紋を」


殿下は、一瞬、息を止めて、それから、軽く目を閉じた。

わたくしの言葉の意味を、噛みしめていらっしゃるのだと、分かった。


「アイリル。それは、求婚を、こちらに任せてくれるという意味か」

「はい、殿下。急がずに、どうぞ」

「急がぬ。俺は、待つ料理を、爺から、習った」


待つ料理。

ベネディクの、最後のスープ。

老人の声が、一瞬、湯気の向こうから聞こえた気がした。


(ベネディク。わたくしは、待つことも、動くことも、少しだけ、覚えました。)


回廊の先、厨房の勝手口から、湯気が一筋、立っていた。

誰かが、まかないの仕込みを始めている。

きっと、サーシャだ。

あるいは、ミレネ様。

リースが、鍋の傍で、薪を足しているところかもしれない。

コンラートが、仕入れ台帳の余白に、今日の天気を書き込んでいるところかもしれない。


湯気の向こうから、誰かが、こちらに手を伸ばしている——そんな気が、ふとした。

それは、殿下の手でも、母の手でも、ベネディクの手でもなく、わたくし自身の、数年後の手のように思えた。


鍋を振る手は、震えていなかった。

もう、たぶん、一生、震えない。


湯気は、春の光に溶けて、静かに、上へ、上へと登っていった。

ハルシェードの家領の土も、王宮の厨房の竈も、今日、同じ空の下で、確かに、息をしている。

その息に合わせて、わたくしも、静かに、息をする。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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