はじめての闘い その52 ―ほい―
["Vの梯子外し"なる<テルム>が、誰かに使われているかどうかは知りません
――"摂"氏が単にそう呼んでいただけです。
実際、この技巧を多くの作家が、文章の単調を避ける為に用いています
――そして単に、"Vの梯子外し"と呼んでいないだけなのでしょう
――誰かは、誰かなりの名称があるのでしょう。
それは、 <ある情報を最初に提示して、最後にそれを否定する>という技法です
――これは、主にニッポン語において、高度に発達が見られる手法です
――述語が、最後に来る事が多いからなのでしょう
――知りませんけど
――知りたけりゃ言語学者にでもなるべきなのでしょう。
論理記号の「¬」の様に、
テキスト情報の中核となる
――オチとも云える
全体の<否定>を最初に持ってくると
――内容がわかりやすくなるのでしょうが……
どれだけ後で語られるだろう情報がもっともらしいことでも、
読者は心理的に
「でも、この情報は否定されていることなんだよね」
と考え、身構えてしまう為に
――オチを知っているが為に、
すべての情報を得た後、
<驚き>
――かどうかは知りません
――何かしら、刺激によって喚起された"印象"としましょう
その量が
――最後に<全体の否定>を持ってくるよりも
減ってしまうことが考えられるのです
―― "Vの梯子外し"では、それを避ける事が出来ます。
簡単に言い換えれば、それは俗に云う<どんでん返し>というモノです
――勿論、"物語論"や"物語構造論"を"プロット分析"を通じて行う際に使用される<どんでん返し>とは、厳密には、意味が異なります
――しかし、効果としては同じなのです
――"普通"のヒトになら誰にでも予想可能な結末
――それを裏切る結果を、或一つの<言葉の纏り>が提示される順番、その最後に出すことで、読み手に予想外の"印象"を起こそうとする、
という点において。
別の言い方――哲学風味――で言うと、
「いままで散々<在る>と仮定して進めた話を、
最後に<無い>として
――前提そのものを崩して
その議論の不毛さを明らかにし、
議論の帰結として
"普通"
に受けるだろう<印象>とは別のモノを最後に、読み手か聞き手に喚起させる様にする」
と云うモノです。
"Vの梯子外し"によって発生するだろう<具体的効果>は、わかりません
――し、これから、誰かを研究対象にして調べるつもりもありません。
それは
<驚き>
かもしれませんし
――<笑い>
かもしれません
――これはもう、"摂"氏と"蜘蛛宇宙人"の対戦で類似した問題は取り上げましたから、あとは繰り返しとなるだけです。
どの様な効果が発生するにしろ、
はっきりとわかることは、
"Vの梯子外し"が表された時、
何かの効果が読み手か聞き手に訪れる様にした
<作者の技巧>
そして
<その意志>
が如実に現れている
という事。
ここで、<具体的効果>の例ではなく、<そのもの>の具体例を挙げましょう。
①塔がある(その入口が、大きく口を開けている)
②その前に、ヒトAが立っている(見上げている)
③そのヒトAが塔に向かって歩き出す
という三つの情報があったとします。
その時、多くのヒトが上の様に提示された限られた情報から推測するその後の展開は、
「ヒトAが歩きながら塔に入る」
というモノでしょう。
しかし、"Vの梯子外し"では、③の情報を改変して
「~という事は無かった」
と付け加えることで、誰もが抱くだろう<予想>を裏切る様に作るのです
――文字通り、梯子を外すのです。
ライトノベル的ジャーゴンを用いると、
「テンプレを逸脱する」
と云う事になるのでしょう
――知りませんけど。
多くの小説で使われている単語
「フラグ」
と何か関係があるのでしょう
――知りませんけど。
そしてそれは、
或梯子を上った或ヒトが、足元に残った梯子を外して退路を断ち、その新たな高みから進むべき路を新たに切り開く
――別次元へと導く<物語ベクトル>なのでしょう。
(ここまでくれば、何故"Vの梯子外し"が"V"なのかも、すぐにわかる筈………)
上の例①~③の後の展開はどうなろうと、作者の自由です
――そのまま塔を迂回して、別の場所にヒトAを行かせたり…
――塔の地盤をヒトAに掘らせて、塔を倒れさせたり……
そして、その結果として出た作者の選択に、<良い>も<悪い>も無い筈です
――単に現れるモノは、
「作者がそうしたかった」
という意志だけですから
――そしてその意志を掘り出すのが<研究者>というヒトの仕事なのでしょう
――知りませんけど。
そしてそれは、<批評家>と仕事が違うのです
――それはわかっています。
ここまで来て、誰かは
「何だよ――ぐだぐだ書いてるけど、"Vの梯子外し"って、単なる"フェイント"じゃねぇか」
と言うかもしれません
――その通りです
――そして、それは人間の、立派な技巧なのであり、
それは、
<慣習をきちんと理解して、そこにある"実際生活を送る上で現れる齟齬"をきちんと認識している知性ある者だけが使用できる技巧>
なのです。
そしてそれは慣習の中、それに雁字搦めにされて生きる人間でも<工夫>という素晴らしい事が出来、そして実際に、以前在ったモノを改良して、誰もが思いつかなかった事にする、という
人間であるという事
を端的に証明した行為に過ぎないのだと思います。
そんな中、
――いつからなのでしょう?
努力して素晴らしいモノを作り出そうとする
――高みに昇ろうとする
素晴らしい作者たちが技巧を見せつけると、
「上から目線で鼻につく!!」
「説教くさい!!」
からと、<皆と同じ目線>にまで落とされるようになったのは?
――いつからなのでしょう?
作者が<下から目線>でなければ、ならなく、なったのは?
――勿論、答えはわかっています………]




