第9話 ラズベリーの薫る城
アルトゥール三世がラズベリージャムの瓶を窓から射す陽の光に透かした。ふ、と王が柔らかく微笑む。光が王の横顔をルビー色に染め上げる。
「ブラウベーレ公爵」
「はい」
王のそばに控えていたイザークは、長身をやや身じろがせた。王がまるで宝物でも扱うようにジャム瓶をテーブルクロスの上に置いた。そうしてから、イザークの方を振り向いた。
「蓋を……開けられない。開けてくれるか」
「……は」
イザークの怪力の出番だ。イザークは瓶を掴み取ると、難なく蓋を開けてみせた。
「ふむ、瓶の蓋開けに苦労することはこれからもなさそうだ」
王の冗談に、イザークは苦笑を禁じ得なかった。
「それは、お褒めになっているのですか」
「褒めているとも」
「……そうですか」
王は蓋の開いた瓶をイザークから受け取ると、今度こそバターナイフを手にしてクッキーにジャムをたっぷりと塗りつけた。こんがりときつね色のクッキーの上で、透き通るジャムがふるりと震える。
王は一口齧った。さくり、と小気味いい音を立ててクッキーが崩れる。咀嚼し飲み込むと、王はぽつりとこぼす。
「……甘い」
「それはよろしゅうございました。ジルヴェスター殿下も陛下の感想をご存じになったら、さぞかし喜ばれることかと」
「そなた、ずるいな」
「……はい?」
急に王の不満げな顔を向けられて、イザークは小首を傾げた。
「そなたのように、私も焼きたてを食べたかった」
「も、申し訳ございません……」
イザークが困惑しつつ謝ると、王はそっぽを向いた。
「いや、いい。そなたを許す」
「は、はあ」
「私も、もうすぐ……」
「もうすぐ?」
「いや、なんでもないよ」
王は顔の前で手を二、三度振った。
「ところで陛下」
「なんだ」
「ジルヴェスター殿下に、私が公爵であることを気づかれてしまいましたが」
「ああ、報告書には目を通してある。問題ない。計算通りだ」
「…………」
イザークは何も言わず王の次の言葉を待つ。それを見て王が苦笑し、口元に笑い皺を寄せた。王が叱責しないのをイザークは意外に思った。
「そうか」
と、王は納得したようにうなずいた。だが、次に王が告げた言葉は流石にイザークを驚かせたのだった。
「ブラウベーレ公。そなたを正式な王籍と認める」
「……えっ」
イザークは自分の顔から正気と共に血の気が引いていくのを感じていた。この時機でイザークを王籍に戻すということは、およそ一つしか意味を成さない。そしてそれは、イザークが口に出して言うまでもなく、王がすぐに宣言してみせた。
「そなたを立太子させる」
「そ、それは……」
混乱と困惑が綯い交ぜになっているイザークの様子を見て、王は「無理からぬことだな」と独りごちるように言った。
「マリアローゼが帝国皇太子の子を宿したやもしれんのだ」
「なんと……! ご懐妊おめでとうございます」
「それがな。マリアローゼを王太女とし、ゆくゆくは女王に即位させる心づもりでいた。王配となる婿を迎え、正式に即位させるはずであったのだ。全ては私の計算通りだ、とね。……が、私はマリアローゼが一人の年頃の娘であることを失念していたよ」
第一王女マリアローゼは現在二十歳。アルトゥール三世と王妃の子である。
「帝国との同盟関係を強固にするため、マリアローゼは帝国に留学させていたが、その間に帝国皇太子の子を身ごもってしまったようなのだ。やれやれ、帝国には皇位継承者がその皇太子しかいない。まさか皇太子を我が国の王配に引っ張れるわけもあるまい?」
「なるほど、それで私に立太子のお話が。マリアローゼ殿下が嫁がれるゆえの穴埋めが必要だと」
誉れある王太子の座に就くことを〝穴埋め〟と表現するのはいささか躊躇われたが、他に言い様もなかったのでイザークはそのまま放言した。
「おそれながら、陛下。ジルヴェスター殿下がいらっしゃるではないですか」
イザークがそれとなく反駁すると、だが、王はすぐさまそれを否定した。
「ジルヴェスターはそなたと違って王としての教育を何一つ受けさせていない。不適格だ」
自らの息子をこうもあっさりと切り捨てられるとは……イザークは内心で寒いものを覚えた。
「私はそのようにしか、そなたに報いてやれぬのだ。そなたが払った犠牲にな。どうかその意を汲み取ってはもらえぬものか」
「承知……いたしました」
イザークは王に向けて深々と腰を折った。
「そなたが立太子する暁にはジルヴェスターも城に戻し、第二王子とする。もう王家との関わりを隠し通すことも出来ぬだろうしな」
先ほど王が「もうすぐ」と言ったのは、そういうことだったのか。もうすぐジルヴェスター王子の手料理を城で直接味わえる、と。
「公表は一月後、六月の初めにしようと考えている。それまで余暇を過ごすがよい。そなたは立太子までの間、ジルヴェスターと共に残された自由を過ごしなさい」
「はっ、ありがたき幸せに存じます」
「港湾都市メーヴェの王室御用達ホテルのスイートを予約した。二人で遊行してきなさい」
「陛下、それは……」
「慰安だ、慰安。この一ヶ月、そなたも相当に気を張っていただろう。ジルヴェスターには海を見せてやりたいしな」
「ありがとうございます」
「さ、ゆけ。クッキーの焼き加減、完璧だったと息子に伝えてくれ。……『マフィアのドンが言っていた』とな」
イザークはまたもや顔を青ざめさせた。王が顔をしかめた。
「家令ヘンリックが『黙っておくには面白すぎるので忍びなく』と申しておった」
──ヘンリック!?
「申し訳ございません。申し開きをさせていただくならば、先にジルヴェスター殿下が私をマフィアと勘違いなさったのです」
「それも知っておる。だが、私を『ドン』と表現したのは、そなたが先だそうだな」
「ドン、それは、その……」
「ははは、こやつめ」
さて……、イザークは、この息子思いの父を「どう殺そうか」と悩んでいた。




