第8話 ハッピーな白い粉
ここはアインヴァルト王城の応接室である。イザークは国王アルトゥール三世の呼び出しを受けていた。
ジルヴェスター王子なら家令ヘンリックと留守番をしているので保安上は問題ないはずだ。もちろん公爵邸の外周には、王子に気づかれないよう、私服をまとった護衛騎士が密かに巡回しているのだ。
案内してくれた老年の侍従長が退室していくと、重苦しい沈黙が応接室を満たした。
イザークが王の前に跪いていると、ふいに王が立ち上がった。礼装の絹マントの裾を引きずるようにしてイザークの元に歩み寄ってくる。イザークもすくりと立ち上がり、近づいてきた王を正面から見据えた。
王の緑の瞳はジルヴェスター王子の翠眼とそっくりだった。優しげな弧を描く瞼の形すらも、やはり酷似していた。どうあっても親子なのだと再認識せざるを得ない。
「ブラウベーレよ……」
王が大儀そうに口を切った。
「は」
「そなたの報告書によれば、ジルヴェスターは料理がそれはもう得意とのこと」
「左様でございます」
「……よし」
王は、何か自身の考えに納得したようだ。
「どうなさいました、陛下」
「私はな、よいことを思いついた」
「よいこと、ですか。なんでございましょう」
イザークが平淡な声のまま尋ねると、王は腰の後ろで手を組んで薔薇窓の方へと足を向ける。その薔薇窓は、外界からは壁装飾の一部にしか見えないよう特殊な細工が施されている。ステンドグラスが午前の陽を透かして、虹色の光彩を床に落とし込んでいる。その虹を横顔に浴びて、王は言った。
「つまりな、ジルヴェスターに食材を送るのだ」
「それで、御自らお仕留めになった鹿肉を送ってくださったのですね。その節はまことにありがとうございました」
硬い声で形式通りの謝辞を述べるイザークに、王は退屈そうな視線を投げた。
「そなたの感想は読んだ。そして私はとても残念だ」
「陛下、わたくしのグルメリポートは不出来だったでしょうか。陛下の御心に添うことあたわず、このブラウベーレ、痛恨の極みにございます」
「そうではないぞっ!」
やにわに勢いよく王はイザークの方を振り返った。ひとたび高まった声の調子は、だが一段落とされた。
「……そうではないのだよ、ブラウベーレ。けして、そなたのグルメリポが読むにたえないやつだったとかは、言っておらん」
「へ、陛下……」
やはり読むに値しなかったと王は仰せである。
「そなた、グルメリポですらカタブツなんだもんっ。もっとそういうのはね、自由に書くのっ」
おやつ抜きになった子供のように王はぷくりと頬を膨らませていた。その瞳は落胆の色に染まりきっている。
「は、はあ……。学ばせていただきます」
「まあいい。話が脱線したな。私が残念だと言ったのはな、私が直にジルヴェスターの手料理の味を知ることができなかった──その一点のみだ!」
イザークは、なるほど、と小さくうなずく。
「確かにおっしゃる通りでございますな、思慮に欠けておりました」
「そうだっ。そなたの石みたいなグルメリポじゃまったくお話にならんのだっ」
「も、申し訳ございませぬ……」
恐縮して身をすくめるイザークを王は若干腹立たしげに眺めたあと、ようやく本題に入った。
「そこでなのだ、ブラウベーレ。そなたにやってもらいたいことがあるのだ」
「わたくしに?」
「そうだ。……そなたの屋敷に食材を送るだろう? それをジルヴェスターに調理してもらい、食べてもらう。……ここまでは何も変わらない」
計画を語る王の目が好奇心できらきら光っているように見えた。
「が、ジルヴェスターの作った料理をこの城まで運び、私が食べる──これもできるな?」
王が何を言いたいかをイザークは全て理解した。瞳に輝きが宿る。
「なるほど! 陛下の送ってくださった食材でジルヴェスター殿下が作られたお料理を陛下の元へお届けしてお裾分けをし、還元する、ということですね」
「いかにも。……どうだ、名案か」
「名案かと、陛下」
イザークは姿勢を正してうなずいた。
「しからば、わたくしがお料理を陛下の御許へお運びすればよろしいのですね」
「ああ。理解が早くて助かるぞ。使いを送ってもいいのだが、それでも、その時間すらも惜しいのだ。料理は鮮度が命。そなたが届けよ」
「は、謹んで承りました」
イザークがその場で一礼すると。
「──あれを持て!」
王が片手を掲げて命を飛ばした。しずしずと進み出た侍従長がなにかの紙袋をたずさえて、それをイザークのそばにあったマホガニーの小テーブル上にそっと置いた。侍従長は腰を折り、またすぐに退室していく。
「これはなんでございましょうか、陛下」
イザークが紙袋の中身を問うと、王は短く答えた。
「粉だ」
マフィア。粉。危ない響き。
「取引だ、ブラウベーレ公! この粉で私をハッピーにしてみせよ!」
「ハッピー、ですか」
「そうだ、ハッピーだ。それも特上品のハッピーパウダーなのだ。これは北方の契約農家が献上する至高の品。王室御用達ぞ」
「ちなみに、メニューのご希望はございますか」
「日常のあらゆる辛苦からひとときでも解き放たれる、甘美なトリップを」
「承知いたしました」
♢
「ただいま、ジルくん、ヘンリック」
イザーク氏が外出先から帰ってきた。マフィアのドンと秘密の会合なのだと言いおいて出かけていたのだ。秘密の会合であるのに、それを一般人の僕に明かしてどうする。バカなのか正直なのか。バカ正直か。
「おかえりなさいませ、イザーク様」
出迎えたヘンリックさんが綺麗な会釈をした。イザーク氏は黒いフロックコートとジャケットを暑苦しそうに脱いでヘンリックさんに手渡す。受け取ったヘンリックさんがその場で魔法のように速やかかつ丁寧に折りたたんで応接間のクローゼットにかけてしまった。
「すぐにお紅茶の準備を」
「や、ありがとう、ヘンリック」
ずっと観察していて思うのだが、ヘンリックさんは屋敷の管理人というより執事みたいな出で立ちをしている。イザーク氏と長い付き合いなのだろうことはそれとなく察していたものの、まだ両人に詳しく問いただしたことはない。イザーク氏に関して深入りしたくなかった以上、ヘンリックさんに関しても同じことが言えた。
でも、そろそろ我慢の限界だ。きっと、僕の推測は当たっている。
「イザークさん、それ、なんですか」
戻ってきたイザーク氏の手には大きな紙袋が。僕はそれを疑わしく見た。
「ハッピーな白い粉だよ」
「ええっと……。犯罪はやめてくださいね」
「粉塵爆発かな? 工場で稀に起こるらしいね」
「それもありますが……その」
これは通報した方がいいか?
「ジルくん。おれもね、思ったよ。ドンにお会いしてきたら、いきなりこの粉を持ち帰らされてさ」
「じゃあ……」
「あのね、これは、薄力粉。れっきとした小麦粉だよ?」
「うるさいっ。分かってますよそんなことっ」
イザーク氏の頭をしたたかにひっぱたきたくなる衝動に駆られたが、それはかろうじてこらえた。
「北方産の最高級品だってさ。なんと王室御用達ブランド」
「へえー」
そんな代物をどうやってドンは手に入れたのか、入手ルートが非常に気になるところではある。それこそ裏ルートで農家が違法に卸しているものかもしれない。まあ、これ以上の詮索は今はやめておくとしよう。
「ジルくん、せっかくだから、これで何か作ってドンにお返ししてあげない?」
「……。なんだかいつになく積極的ですねえ」
僕が疑念そのものを惜しげもなく視線にすると、イザーク氏の視線の方はあらぬ方向に飛んでいった。……怪しい。
「い、いやあ、ジルくん、そんなことないってばー……」
ますます怪しい。
「ねえねえジルくん、今回はドンに甘いものを作ってあげない? それも、とびきりハッピーになれるやつ。なにかメニューを考えてあげて?」
──今回?
「うーん、甘いもの、ですか」
──今回って、次回もあるのかよ。
僕は腕を組んで、作るものについて思案してみる。
「贈答するなら日持ちするものの方がいいですよね」
「そうだねえ」
さて、何にするか。それとなく窓の外、庭園の方に目を向けてみた。
「……ヘンリックさん」
「なんでしょう」
ヘンリックさんがまばたきして僕を見る。
「庭のラズベリー、摘んでいいですか」
「ええ、もちろん」
「……よし」
一言呟くと、イザーク氏の唇に自然な笑みが戻った。
「お、なにか思いついた?」
「ええ。ただし、ドンにおやつをお作りするかわり、条件があります」
「条件?」
イザーク氏の唇から、ふっと微笑の色が褪せた。
「僕の質問に答えていただけますか──ブラウベーレ公爵閣下」
イザーク氏、いや、イザーク・ブラウベーレ公爵の碧い目は、落っこちそうなほどに見開かれた。




