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第7話 ドンから鹿肉が届いた

 今日は〈団栗亭(アイヒェルン)〉の定休日だ。朝食を食べ終えて応接間のソファに腰かけた対象は熱心に縫い針を動かしている。先日の苺おつかいで転倒し破ってしまったズボンを縫っているのだ。


「穴を開けたのが仕事着じゃなくてよかったですよ。これは部屋着にすればいいし」


(自分の服だって大切なものだろうに)


 向かいの一人掛けソファに長すぎる脚を組んで座っていたイザークはそんなことを思ったが、口に出しては言わなかった。代わりにこう提案した。


「……ジルくん、新しいズボン、買ってあげるよ」


 手元を止めたジルが顔を上げて、イザークを不思議そうな顔で見た。施しなど不要、と言われたら素直に引き下がろうとイザークが苦笑を唇に滲ませたとき。


「どうしてそこまで……僕に入れ込むんですか。マフィア的にメリットがあるとでも?」


 イザークはぎくりとして笑みを崩しかけたが、一つ小さく咳払いして、こんな言い訳をすることにした。


「……一般人を懐柔するのはマフィアの大切な仕事なんじゃないかな」


「マフィアの洗脳を正当化されても……」


 ジルはそう語尾を消え入らせるように突っ込んだあと、何かを言いかける。


「例えば……」


 ジルは、やっぱりそうだ、と自身に納得したようにうなずいて、また続ける。


「僕が何か……、マフィアの後ろ暗い事情に深く関わるキーパーソンで、あなたが僕を監視するために派遣された人物であるのなら、こう、すうっと一本の線で繋がるな……と思ったんですよ」


(ああ、やはり、こいつは聡い)


「どうして……そう思ったんだい」


「いや、イザークさんがあまりに挙動不審なもので」


 ジルが真顔なので、イザークの表情筋も死んだ。


「そっか」


「そうです」


 ジルはまたうなずいて、こうも言った。


「でもイザークさんは、現時点では僕を利用しようとはしていないように思うんです。はっきりとは言えないけれど……でも、それでもあえて言語化するなら……、ただの監視。まだ明確な悪意は感じられない……」


 イザークは碧い目を微笑ませた。すると、ジルはその表情を見たのかどうか、すぐに顔を背け、「バカなことを言いました!」と激しく首を振って否定する。


「今のは忘れてください」


「いいや?」


「忘れろっ」


 イザークがソファの肘置きに頬杖をついてにやにや笑っていると、対象からは「針で刺しますよ」と、なかなかにヴァイオレンスな言葉を賜った。


「おれ、どうしてもジルくんにズボンを新調してあげたいよ」


「はっ……、もしや、マフィアのマネーロンダリングってやつですか! 裏金を物品に置き換えて、〝贈答品〟とか言って隠蔽するやつ!」


 もっともらしいことを言った、と得意げな対象に、イザークはまた笑みをこぼしてしまう。


「違うよジルくん」


 結局、引っ越し祝いということにしてジルに新しいズボンを買ってあげたイザークは、ついでに自分の帆布エプロンも手に入れた。


 仕立て通りからの帰り、屋敷に到着して応接間でくつろいでいたときのことだった。


 にわかに外から馬蹄の響きがして、イザークは身構えた。ドアノッカーが重々しく叩かれ、玄関でちょうど花瓶に花を生けていたヘンリックがすぐ応対しに行った気配があった。イザークは応接間のカーテンを開けてガラス窓から外の様子を窺う。来客の馬装が目に留まった。


──あれは、〝上司〟の使者!


(まずいまずいまずいまずい……)


「バレたら、まずい」


 イザークはジルに悟られないくらいの本当に微量の声で呟いた。さすがに使者の方もそれを承知していたのだろう、その服装は一般的な郵便配達人を装っているようである。そしてすぐに荷物の木箱をヘンリックに渡して、窓際にイザークの姿をみとめると、簡易礼だけを寄越し、そそくさと立ち去っていった。


 玄関まで行くと、ヘンリックが重そうな木箱を床に下ろしたところだった。


「ヘンリック、ずいぶんと大荷物だな。何が入っている?」


「さあ、なんでしょうなあ」


 額の汗を袖でぬぐう仕草をしたヘンリックも小首を傾げている。


「よし、さっそく開けるか」


 ジルも追いついてきたところで、怖々と中身を確認してみる。その中身は……清潔なガーゼにくるまれた物体。が、赤い血が布に滲んでなんだか生々しい。悪く言えば、グロい。


「イザークさん、これ……」


──肉塊? マフィアの? 一部?


 ジルはそう言いたげだ。無言のままでも、その翠色の目が、口ほどに物を言っている。イザークは一瞬だけ背筋を寒くしたが、箱に上等なメモ紙が添えられていることに気づいてまばたきした。


『私が仕留めた牡鹿だ。大腿と大腰筋だぞ。食べさせてやってほしい。─A.E─』


 マフィアの死体ではなかったらしい。


「ジルくん」


「はい」


「えっとねえ、首領(ドン)から鹿肉が届いた」


「ドンって、マフィアの?」


「……そう」


──上司(ドン)。


 さて、屋敷の庭園にはヘンリックが手入れしている花壇や菜園があった。今の季節は瑠璃唐草(ネモフィラ)が満開で、群青の小さな花は春の訪れを告げにやってきた妖精さながら愛らしい。ヘンリックの手によって食堂のテーブルの花瓶にも生けられていた。


 菜園では春野菜が収穫の季節を迎えている。今は春キャベツの旬だ。ジルはヘンリックの助けを借りながら、大人の頭くらいの大きさの立派な春キャベツを収穫した。


 イザークはというと。


「イザークさんは何をしているんですか」


 その場にしゃがみこんでクローバーの花を眺めているイザークに向けて、ジルは目をすうっと細めた。


「見て分からない? お花さんの応援」


「はあ、そうですか」


 この役立たずめ、というジルの厳しい視線に晒されながら、イザークは花の周りをひらひら飛んでいる蝶を目で追っていた。


「キャベツを収穫してどうするんだい? 胡麻油と塩胡椒で和えるのかい?」


「酒場のお通し無限キャベツじゃないんですから。……これはロールキャベツにするんですよ」


 今度は、この酒飲みめ、という非難の視線だった。


「鹿肉のロールキャベツかあ。いいねえ」


 骨周りの肉を削ぎ落とすとどうしても細かな肉片が生じてしまう。〝肉片〟という表現がやたらマフィアお似合いの物騒な響きなのはさておき、これも無駄にはできない。挽き肉にして肉ダネを作り、ハンバーグステーキにするか、ミートローフにするか。ジルは春キャベツがあるのだからロールキャベツにしようというのだろう。


「大きい部位はローストとステーキにしようと思うんです」


 ジルは肉切り包丁で大きな肉塊を解体し終え、服の袖で額に浮かんだ汗の粒を軽くぬぐった。


「では、私はローストの方を担当いたしましょう」


 ヘンリックがそう申し出る。彼は手先が器用な男で、シェフのように調理もこなせた。得意料理がローストなのだ。彼に火加減を任せておけば何も問題ないだろう。


 ヘンリックがロースト用のモモ肉をオーブンに入れてから二時間ほど経った頃。


「イザークさん、何もしないなら肉ダネを捏ねるくらいはしてください。どうせ力が有り余ってるでしょ」


「その通りだ、ジルくん」


 まずは肉挽き器(ミンサー)で挽き肉を作るところから。取っ手をぐるぐる回すと、なんと肉片が挽き肉になって出てくるのだ。何段階かギアがあって、今回は粗挽きにする。力を行使するのだけは得意なイザークはひたすら取っ手を回していく。


 そうしてできた粗挽きに、塩、胡椒、ナツメグ、飴色になるまで炒めたみじん切りタマネギ、みじん切りニンジン、そして鶏舎で採れた新鮮卵を入れて、ひたすら手で捏ねていく。結構な重労働のはずなのだが、イザークにとってはお茶の子さいさいだ。


 そうこうしているうちに、「ローストが出来上がりましたよ」と、ヘンリックの朗らかな声が聞こえてきた。


 フライパンには、厚切りにしたフィレ肉が豪快に並べられていく。熱々のフライパンに分厚い鹿肉が横たわると、じゅうっという音がたまらない。ふわりと上がった蒸気はバターのいい匂いがする。ジルはフィレをフライ返しでよいしょとひっくり返した。焼いたときに出た肉汁は旨味がぎゅっと凝縮されている。これを赤ワインと絡めてステーキソースにするのも忘れない。


 ロールキャベツ。ロースト。ステーキ。


 男子の夢みたいなメニューが揃った。あとは食すのみ。


 まずはロールキャベツ。ナイフで慎重に春キャベツのドレスに切れ目を入れると、肉汁が泉のようにこんこんと湧き出てくる。口に入れれば粗挽きの鹿肉がほろりと崩れ、肉の旨味が全て溶け出たコンソメスープを掬う匙が止まらない。


 次にロースト。ヘンリックの焼き加減は完璧という他なかった。岩塩とローズマリーとガーリックとオリーブオイルでマリネされ、オーブンでじっくり低温で時間をかけて焼き上がったモモ肉は、切り分けた断面が見事なルビー色。肉本来の味わいを楽しみつくせる逸品だ。


 そしてステーキ。最高級部位の大腰筋であるフィレ肉は脂が少ない赤身で、牛肉にも似ているが、もっと野趣あふれる風味だ。ワイン薫るステーキソースをたっぷりかけて頬張れば、噛めば噛むほどに旨味が溢れ出し、山の滋味が口いっぱいに広がっていく。


 なぜ、鹿肉の実食レポートを書いているのか。


 いや、ドンにお肉の感想を手紙にして届けねばならなかったからだ。それくらいはしないと、「タダ飯にあずかったか!」と叱責をくらうのは必定。


『鹿肉を賜り、まことにありがとうございます。


 ジル様は本日も壮健でいらっしゃいました。このところジル様にお肉を召し上がっていただくよう取り計らっておりまして、その効果が表れていくことを期待するばかりでございます。


 対面初日のときより、わずかばかりかお顔の色がよろしくなったと存じます。一人暮らしから環境が強制的に変わり、なにかご胸中にお変わりがあったのか、それとも肉食の効果があったのか。判断は定かではございませんが、少なくともお顔に影が差す瞬間が減ったように見受けられます。


 お話は変わりまして、いただきました鹿肉のお味の感想は、添付の別紙にて詳細をまとめましてございます。そちらをどうぞご覧ください。


 ジル様はお肉の塊に喜んでいらっしゃいました。ジル様の御心を私めがお察しするのは失礼千万かとわきまえますが、それでもジル様は私との生活を嫌がってはおられないように感じられます。


 つきましては、これからも任務続行できるものと判断いたします。


 ジル様のご身命、私の微力を尽くしてお守りいたします所存です。その御命は我が心臓にも等しきものとして、引き続き砕身を努めてまいります。


 改めて、素敵な贈り物をありがとうございました。』


 書斎で、イザークは高級万年筆をゆっくりペン立てに置き、そして指を組んで思いきり伸びをした。


(マフィアのこと、書けなかったなあ……)


 まさか〝上司〟をマフィアの頭目扱いしたら、イザークの首がいくつもあっても足りない。絞首されるか斬首されるかくらいの違いだ。


「はてさて、一体どうしたものか……」

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