第5話 永久機関アイスバイン
蒲公英市街区画の石畳通りに面した二階建ての小さなレストラン。
外壁は瀟洒な赤煉瓦と白漆喰の造りが目印。クリーム色とビリジアンの二色でストライプに染め抜かれた庇布が春の麗らかな陽光を受け、風をはらんで揺れている。
高級感あるウォルナット材の木扉には真鍮の店名プレートが下がっていた。そこには〈団栗亭〉とレタリングが彫られている。ドングリを大切そうに抱えたリスのレリーフ付き。
入り口の黒板立てには、店主の白チョークの達筆で本日のランチメニューが書かれている。
──豚スネ肉の煮込み。
開店は午前十一時からだが、それより早い朝九時に出勤した僕。給仕とはいえ、仕込みの手伝いや掃除など、開店前の準備が多々ある。
そして頼んでもいないのにイザーク氏は勝手についてきた。もちろん、お屋敷にいたときの貴公子然としたシルクの装いではなく、質素な綿のシャツとスラックスだ。相変わらず胸元は第二ボタンまで開襟されているものの。
とにかく店内に入ろう。従業員用の裏口、飾り気のない扉を開けた。
「おはようございます、ブルーノさん」
「おはようさん、ジル。今日もよろしくな!」
がはは、と豪快に笑うようにして気立てのいい挨拶を返してくれるのは、この〈団栗亭〉店主のブルーノさん。髪に白いものが交じった中年のいかつい男性だが、実はこの店のメルヘンチックな装飾は全て彼の趣味である。
そのブルーノさんの視線が僕の顔から逸れた。背後に立っていたイザーク氏の偉容を見るや、目をぱちくりとさせる。
「なあジル。そのあんちゃんは?」
「ああ、あの、その。なんと言いますか……大家さん、かな?」
僕は口ごもる。マフィアの……と正直に言うことは口が裂けてもできなかったし、マフィアだと人前で言わないことも約束だったし。
「なんだ、手伝ってくれるとでも言うんか」
「そういうわけでもないみたいです。……冷やかし?」
「応援、と訂正してもらおうか、ジルくん」
やや文句ありげなイザーク氏の声が背後から飛んできた。僕は素早く振り向いてイザーク氏を一喝する。
「イザークさんは黙っていてくださいっ」
「へえ、イザークってのか。それにしても……でっけえな、あんた」
イザーク氏の体格にブルーノさんが感心の声をあげると、途端にイザーク氏は厚い胸を反らして得意げにほざく。
「ふふっ、ありがとう。ジルくんにお似合いのいい男でしょう。……あと、いつもジルくんがお世話になってます」
おまえは一体何様だよ、まだ二日目の付き合いだよ、と僕は物申したいことの一つや二つあったのだが、さっさと仕事を始めねば、と正気に戻った。すぐさま本題に入る。
「あの、ブルーノさん。折り入ってお願いがあるのですが」
「おう、なんだ、ジル。……まあ粗方予想はつくがな」
「はい。……イザークさんをお店においてもいいでしょうか。端っこの隅っこでいいので」
「まあ、それは構わんがなあ」
すると、ブルーノさんが怪訝な顔を僕へと寄せてきた。そのまま耳打ちされる。
「……なあジル」
「はい」
「あのあんちゃん、体格からして普段から相当いいもん食ってるだろ。もしかして貴族のボンボンなんじゃねえか」
僕は慌ててブルーノさんに囁き返した。
「まさか! ちょっと裕福みたいですがね」
「ならいいんだが。無礼があったら困るからよう……」
ブルーノさんはそこで言葉を切って僕から顔を離した。
「お二人、相談は終わったかな?」
内緒話が終わったのを見計らって声をかけてきたイザーク氏にぴしゃりと言う。
「イザークさんはバックヤードの隅っこでおとなしくしていることっ。絶対にホールに出てこないでください!」
「おいジル」
そこにブルーノさんの声が重なる。
「なんでしょう」
「あんちゃんを窓際のいっちゃんいい席に案内してやんな。やたら顔がいいしデカいから、窓際にいれば目立つだろ」
「えっ、なんで──」
すぐさま反論を作ろうとすると、イザーク氏はぽんと僕の肩を軽く叩いてしみじみこう言う。
「いい店主殿じゃないかあ、ジルくん」
僕は初めてイザーク氏の顔をはっきりと睨みつけた。
♢
イザークは白金万年筆を軽やかに走らせる。〝上司〟へ報告書をしたためていた。
店内は明るく、〝任務〟遂行をするには見通しがいい。南向きの大きな掃き出しガラス窓。イザークはやはり大窓に面したいちばんいい席に案内されていた。
各テーブルにはクロスがひかれ、とろりとしたガラスの一輪挿しには今が見頃を迎えているチューリップの花が生けられて、店内を華やかに彩っている。
付け合わせのブロッコリーが茹でられているのか、キッチンからは独特の青い匂いがしていた。
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・任務二日目、現在朝九時半。
前日の夕食に対象と私はビーフシチューの残りをいただく。
・朝五時半、対象起床。
深夜、対象の就寝状態を確認した内では不眠症状をみとめられず。
・朝六時、朝食。
対象の栄養状態が充分でないと私が判断したため、今後も肉類供給などで不足を補っていく。
・朝九時、対象出勤。
私も職場のレストランに同行して、万が一の逃走経路や対象の交友関係、店の客層などを確認するようつとめるもの。
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さて、対象が仕事着にドレスアップした。白シャツにチャコールのベスト。腰には臙脂の前掛け。後ろで一つに結わえた漆黒の髪。屋敷ではくたびれて疲れた様子だったのが、今は水を与えられた野菜のようにしゃきりとしている。
「ジルくん、かっこいいよ、イケメン!」
イザークの没個性の賛辞を浴びせられて、げえ、という表情を隠しもしないジル。ついに開店時間となり、完璧な営業スマイルを浮かべたジルは、来店したお客たちに「いらっしゃいませ」と挨拶をしている。
「もう一度聞きますけど、なんで来たんですか」
ジルが小声で文句をこぼした。
「うん? せっかくだし同居人の職場は気になるじゃん? かわいい女の子に会えるかもだし? あれ、迷惑だった?」
イザークが軽口を叩いてみると、ジルは苦虫を百匹まとめて噛み潰したような顔になった。
「迷惑ではないですが、でも、お客様にナンパしたら、そのときは責任をもって僕があなたを殺します」
「りょーかいりょーかい」
ジルは肩で軽く息をついた。
「さて、招かれざるお客様、ご注文はいかがなさいますか」
メモを手に注文を取るジル。イザークはすでに決めていたメニューを告げる。
「本日のランチ──アイスバインを」
アイスバインの値段は三コルン。先ほどここの求人チラシをちらりと見た。時給一コルンぴったりだった。対象の三時間の労働が、このアイスバインになるのだ。
「付け合わせの発酵キャベツは十フェイで大盛りにできますが、それはいかがいたしましょう」
百フェイが一コルン。すなわち、ザワークラウト換算なら六分の労働で大盛りにできるということ。かわいらしいような、物悲しいような。イザークは困ったように微笑む。
「大盛りで。それと、黒ビールも」
「ジョッキサイズはいかがなさいますか」
「大ジョッキが一コルンか……。じゃあ大で」
「かしこまりました」
まずはジル自らがカウンターのビアサーバーで黒ビールを大きなガラスジョッキに注いで、イザークのテーブルに運んできた。
「お先に、黒ビール大ジョッキでございます」
「ありがとう」
イザークは短く礼を告げた。
適温に冷やされたガラスジョッキ。そこになみなみと注がれた黒ビール。まだ少し寒い春でも、暖炉の焚かれた暖かな店内で飲めば、それはもう甘露なのだった。
昼から酒を飲むなんて、不真面目なのか贅沢なのか。
きめ細やかなクリーム色の泡の下には黒琥珀の輝きが満ちている。イザークはさっそく一口あおってみることにした。たちまち冷たいほろ苦さが渇いた喉を清々しく通り抜けていく。
「くう──っ」
ひとりでに小さな感嘆の声が漏れてしまう。
これは、焙煎麦芽の春風が、きっと山に雪解けを運んできたのだ。カカオのように芳醇なコクと香りが追いかけてくる。
(んー、これはいい)
ほどなくして、ジルが料理のプレートを運んできた。
「お待たせいたしました。本日のランチ、アイスバインでございます」
まずは目で味わうことにする。なめらかな白磁の大皿の上、豪快に鎮座するのは大きな肉の塊だ。表面は飴色になるまで長時間煮込まれて、中は品のいい桜色。添えられた淡金色のザワークラウトはこんもり山を成して、頂には飾りのクレソンが緑を主張している。
イザークはカトラリーを手に取った。慎重に肉へとナイフを入れる。
(……お)
ひとたび肉にナイフを差し込めば、すうっと抵抗なくナイフを受け入れた。そして、口に運べば、舌の上で塩辛さと肉の旨味がまろやかに調和する。
(狩猟採集時代から、やはり労働の対価には肉が効くと相場が決まっている)
ここで付け合わせのザワークラウトもつまもう。乳酸発酵由来の爽やかな酸味が口を駆け抜け、言うまでもなく肉と合うのだ。まるで二つは運命の赤い糸で結ばれた恋人のよう。
そこに黒ビールを追いかけるように流し込めば──ますますのシャングリラ。
食べる。
ひたすらに食べる。
食べることに没頭する。
食べるために生きている。
いや、食べるから生きているのか……。
とにかく、そんな哲学的なことすら考えたくなってしまうくらいには、旨い。
肉、キャベツ、酒、肉、キャベツ、酒……。
この円環が止まらない。次の一口を求めるたび、味が切り替わるたび。いちいち新鮮にうまい。イザークも生まれ直すような錯覚に陥ってしまう。
(……止まらない、これは)
これは……そう、この世に実在する永久機関というやつなのだ。
「──お会計は四コルン十フェイのはずですが」
「五コルンだ。受け取ってくれ」
会計のとき、イザークが多めに渡すと。
「失礼ながら、当店ではチップを受け取っておりません」
ジルは断固としておつりを受け取らなかった。店もそうだが、ジル自身がそういう人間なのだろう。
「おいしかったよ、ごちそうさま、ジルくん」
代わりといってはなんだが、精一杯の笑顔で感謝を述べると、ジルは複雑そうな表情を顔に描いた。




