第4話 届きますように
聞き慣れない異音を耳にした気がして、目を覚ました。眠たい眼を手の甲でこすりながら枕元の置時計の表示を見てみれば、午前五時半。
ぎしり……。ぎしり……。
それは、一定間隔で何かが軋む音。その微かな音は窓の外……芝園や花壇や菜園を擁する広大な庭園の方角から聞こえていた。
大きなガラス窓から庭園をそっと覗いてみる。不審者だったら一体どうしてくれようか。まずは管理人のヘンリックさんに知らせねばなるまい。
しかしそこにいたのは、なんというか、想像の範疇を超えない人物で。
「い、イザークさん……?」
どう考えたところで、僕ジルか、ヘンリックさんか、イザーク氏しかこのお屋敷にはいない。したがってヘンリックさんでなければ、されど不審者でもなければ、当然の帰結としてイザーク氏しかいないだろう。イザーク氏自体が不審者みたいだって? ……それは僕も否定できない。
「……懸垂?」
庭園のお屋敷側には樫の大木が植わっている。太い枝が地面と平行に張り出していた。上裸姿のイザーク氏がその立派な枝に両手でつかまって、ひたすら懸垂をしている。
枝の上に顎を持ち上げる。三秒静止する。ゆっくりと身体を下ろす。また顎を枝の上に持ち上げる……。
背中側しか見えないので表情までは窺えないが、きっと涼しい顔でもしているのだろう。喪神してじっと眺めていれば、今度は懸垂どころか、宙で脚を持ち上げ、角度をつけて、腰の捻転運動まで加え始めた。
「……ばっ、化け物」
悲しいかな、僕は懸垂が持ち上がったことなど人生で一度もない。そうして寝起きのままなんとなくサンダルをつっかけて、寝室を飛び出し庭園へと足を向けていた。
ヘンリックさんが育てているらしき小さな花とハーブの鉢植えがいくつも置いてあるのを避けて樫の木の根元に近づいた。
「九十八……。九十九……。百……。と」
──すとん。
イザーク氏はどこか敏捷な猫科の猛獣を思わせるしなやかな着地を決めた。そしてこちらに振り向く。
「おはようジルくん! 早いねえ」
「……おはようございます、イザークさん。あなたはもっとお早いようで」
イザーク氏は溌剌として、ばちりとウィンクを決めた。無駄に顔がいいので、それがもはや嫌味にすらならない。
「朝から鍛錬ですか」
「そう。日課でね。十数年これは欠かしたことがないんだ。心身の調律ってやつかな?」
イザーク氏は低い枝にかけてあったタオルを取って、首筋の汗をぬぐい始めた。汗の雫が厚く盛り上がった胸板から整然とひしめいている腹筋に滑り落ちていく。見てはいけないものを見た気がして、僕はすぐに顔ごと視線を逸らした。
「あと三十分もしたら朝食を作りますね」
気まずさを隠すように話題を変えて、小さく溜め息をつく。
「やったー」
と、イザーク氏から間の抜けた返事がきた。
……そもそもおかしい。
出会って一日すら経たないマフィアの朝食を用意している僕。そしてその見ず知らずの僕の料理を嬉々として口にするマフィア。
キッチンに入る。流し台で手を洗ったら、まずは卵を手にする。これは市販のものではなく、ヘンリックさんが庭の鶏舎で採ってきたもの。ニワトリの管理がかなり大変だ、とヘンリックさんは苦笑をこぼしていた。
今まで自炊してきたから卵割りは慣れたもの。熱して油をひいたフライパンに、そのまま卵を片手で割り落とし、目玉焼きを焼く。僕のは一つ。マフィアのは二つ。ヘンリックさんはすでに朝食を済ませているそうだ。働き者だ。
これまでの一人暮らしでは卵の値段が高くて買うのを躊躇う日もあったというのに、今日は労せずして新鮮卵が手に入る。なんとも贅沢な話。
「イザークさん、焼き加減はどうします? ……レア? ミディアム? ウェルダン?」
「んー、半熟」
「了解しました。僕と同じですね」
「おっ、相思相愛?」
「静かにしていただけませんか。イザークさんの目玉を焼きたくはないです」
しかもヘンリックさんが昨日のうちに食材を買い足してくれていた。だから、大きめの腸詰も焼く。イザーク氏のは三本。あの身体を見れば、これでも足りないくらいかもしれない。
大きめの陶プレートを用意して、半熟目玉焼き、ヴルスト、チーズ、白パン、それからカットしたオレンジとバナナも盛りつけて。ヘンリックさんの育てたミントなんかも飾ってみる。
「はい、お待たせしましたー」
「ありがとジルくんー!」
イザーク氏は本当によく食べる。それも、うまそうに食べる。僕に対する軽薄な態度はさておき、食べ物には少しの失礼もない。だから腹が立つより感心してしまう。
食後、イザーク氏は皿洗いを買って出てくれたから、僕は任せることに。丁寧ではない。それどころかガサツと評して差し支えない手つきなのだが、力が有り余るばかりに汚れをしっかり落とせていそうだから、まあいい。
ヘンリックさんが淹れてくれた紅茶はよい香りがする。ティーカップを手に応接間のソファに腰を下ろした。イザーク氏が蒐集しているというアンティークのカップは、年季が入って表面が真珠貝の内側のように淡い虹色の光を跳ね返している。茶葉の方は、高級品には疎く銘柄などよく分からないが、きっと相当の値段がするのだろうと思われる。二番煎じした紅茶色の湯を啜るばかりだった僕には、充分に異次元の体験だ。
昨日の午後には、イザーク氏から許可を取って彼の書斎を見学した。何か秘密でも掴んでやろうと思って、執務机の引き出しをこっそり開けてしまった。そして当たり前だが、そういうものは何も見つからなかった。
書斎には圧死しそうなほどの蔵書があって、あれはそう……何代も何代もかけて、古書から新書まで古今東西を蒐集してきたものだろう。あの量は、到底一人では集めきれるものではない。
「マフィア……ね」
今は、彼の素性について考えるだけ無駄だ。当てたところで、お屋敷から追い出されたら家なき子になるだけだ。僕は借りてきた本の文字列に視線を落とした。
「──ジルくん、おれもきみの職場についていくからね。うざいくらいそばを離れないよ?」
皿洗いを終えたイザーク氏はそんなふうに声をかけてくる。
「冗談はですね、通じてこそ面白いんですよ、イザークさん」
「違う違う、これは冗談じゃないよ」
じろりとイザーク氏の姿を上から下まで見てみる。シルクのシャツに、シルクのベスト。チャコールのスマート・ズボン。カカオ・ブラウンの革ブーツは膝丈まであり、ちょっとヒールもある。おしゃれと評するのは業腹だが、事実ではある。
そして、この服装が問題なのだ。
「質素な服に着替えてください。それでは成金マフィア丸出しです」
「もちろんもちろん」
イザーク氏がうなずいたところで、僕は不安の溜め息をつく。服装が解決されようとも、依然として問題はもう一つある。
「あとですね、シンプルにデカいんです、あなた」
一九〇は余裕である筋肉の塊みたいな大男がこぢんまりしたレストランに入店する。目立ちすぎる。ジル・ヴェストとこの男とは一体どんな関係なのかと必ず問われる。それを考えただけで軽く眩暈がする。
「あの……ジルくん」
イザーク氏が小さく手を挙げる。
「なんですか」
「おれが付き添うこと自体には異存ないんだね」
「あなた、どうせ僕が断固拒否したところで何事もなかったようにふらりと入店してくるのでしょう? だったら、きちんと入店を許可して、売り上げに貢献してもらった方が、まだマシというものです」
「なるほど」
手を下ろして短くうなずくイザーク氏。
「ですから、面倒事だけは起こさないと約束できますか」
確認するように眼光を強くしてやれば、イザーク氏は何度も繰り返し首を縦に振った。
「うんうん、約束するっ」
やはり彼はマフィアなのだろう──それも、〝すこぶる暇を持て余した〟と迷惑な修飾部分もついてくる。ただし機嫌を損ねたところでメリットはない。そのうち、僕の職場に「ここはうちのシマだ」とか「ここで店開くなら、みかじめ料を払いな」とか言い始めるかもしれないのだから。
「ちなみに、おすすめメニューは?」
苛立ちの琴線に触れそうなほど軽やかなイザーク氏の声に、僕は思考を中断させた。
「本日のランチでしたら、アイスバインが」
「アイスバイン! いいねえ」
イザーク氏がほっそりした顎に手を当てて、にやりと悪い笑みを浮かべた。
「さては、昼から飲もうとしていますね」
「うん、正解」
僕はまたしても盛大な溜め息をつかされた。




