第3話 ビーフシチューを煮よう Ⅱ
僕はさっそく完成したビーフシチューを陶の深皿に盛りつけた。艶やかなマロン・ブラウンの海には牛モモ肉もニンジンもジャガイモも白マッシュルームもたっぷりごろごろ浮かんでいる。
「おお、出来上がったようですね」
シチューのいい匂いを嗅いだのか、僕の寝室のベッドメイキングをしてくださっていたヘンリックさんがキッチンに戻ってきた。
「ヘンリックさん」
僕はイザーク氏にはまだ見せていない微笑みをこぼしてしまった。差別ではないが、少なくともヘンリックさんには好印象を与えたいということだ。イザーク氏には愛想よりも警戒が勝ってしまう。
「これは、とってもお腹の空くよい香りですなあ。いやはや、料理に不慣れなイザーク様がお手伝いになると仰いますから、内心では私、少なからずひやひやとしておりましたよ?」
ヘンリックさんの言い様に、イザーク氏は若干むっとして片眉を跳ね上げた。
「おれの心配はするのに、初対面のジルくんの心配はしないんだな」
ヘンリックさんは、おや、と呟いた。
「イザーク様はご存知でない?」
「何をかな?」
「イザーク様は剣にも学にも秀でていらっしゃる。ですが……」
「ですが?」
「得意なことと不得意なことをきちんと区別するのも、また一つの才能にございます」
ヘンリックさんは遠回しにイザーク氏の料理をまずいと評しているようだ。イザーク氏は薄い唇に微苦笑を浮かべている。会話を終えると、ヘンリックさんはなぜかキッチンから立ち去ろうとした。
「あの、ヘンリックさんもお食べになりますよね」
その背中を呼び止めると、
「私はただのお屋敷管理人にございますれば、のちほどいただきたく存じます」
曖昧に笑んでやんわりと断ろうとするヘンリックさん。しかし、一人だけ仲間はずれにするのは、違うと思う。
「でもせっかくの出来立てシチューが冷めてしまいますし」
すると、ヘンリックさんは助けでも求めるように視線をイザーク氏に投げかけた。それでにやりと口元を笑ませたイザーク氏は、どこか得意げにヘンリックさんへ言う。
「ヘンリック、こう考えてみるといいよ」
「なんです?」
「仮にこれが王命であった場合、おまえは断れるかな」
なんだか大袈裟な質問だな、というのが僕の率直な感想だ。
「いえ」
イザーク氏の質問に対し、短く首を振ったヘンリックさん。
「では、どうするんだ」
「いただきます」
「よろしい!」
とりあえずイザーク氏がヘンリックさんを引き留めてくれたので、僕は内心ちょっと感謝した。
ぱん、とイザーク氏が一つ掌を打った。
「さ、昼食にしようか」
三人揃って食卓につく。お屋敷が広ければ当然と言わんばかりに食堂も広かった。大理石の食卓は鏡のように磨かれ、装飾の銀燭台がいくつもいくつも整然と並べられている。天井には厳かなクリスタルガラスのシャンデリア。椅子には一脚一脚に天鵞絨が張られている。それに、薄くてほっそりとした明らかに高級そうなワイングラスまで置かれて。
僕が目を丸くしていると、イザーク氏が微笑みかけてきた。その甘さに、目がくらみそうになる。
「ほらジルくん。シチューが冷めるって言ったのきみじゃん」
「あ、すみません」
ぼうっとしていたことに気づいた僕は、いただきます、と祈りの言葉を捧げてから、銀のスプーンをシチューに浸した。一口運べば、口の中でシチューの濃厚な旨味が弾ける。イザーク氏も〝いただきます〟をしてからシチューを口にした。
「……! うまっ」
イザーク氏もマッシュルームくらい目を丸くしている。それを目の当たりにすると、僕も作った甲斐があったな、と心がほぐれる。
じっくり煮込まれた牛モモ肉は口に入れた瞬間、舌の上でほろりとほどける。ニンジンもジャガイモも煮崩れる寸前の火加減が入っており、とろけるようなのにしっかり形も感じられる絶妙さ。マッシュルームのこりこりした歯ごたえもいい。
「皆さんのお口に合いましたようで……」
イザーク氏の食べっぷりは半端ではなかった。なんと三杯もおかわりした。きっと筋肉量が多くて代謝がいいから、腹が減るのだろう。
「引くくらい食べますねえ……」
隣ですっかり完食したヘンリックさんが、僕のグラスに、料理に使ったワインの残りを注いでくれた。
「これはありがとうございます、ヘンリックさん」
「いえいえ、美味なものを食べさせていただきましたから」
白チーズとドングリ豚の生ハムをつまんでいたイザーク氏は、急にこんなことを口にしだした。
「なあなあ、きみの食費、おれが全部持つよ」
「えっ、どういうことですか」
思わずグラスを傾けていた手をぴたりと止めて、まじまじとイザーク氏を見てしまった。
「どうもなにも……食費はおれが全部支払うと言っているだけさ」
「なぜ会ったばかりの僕にそこまで?」
「おれ、意外と給料もらってるし?」
僕は眉を曇らせた。タダほど高いものはない。それはもう怪しい。
「おれはきみの三倍は食べる。……見ただろ?」
「ええ、まあ」
「仮に折半したなら、きみはとんでもなく損することになる。分かるだろ?」
「まあ……。ですが、自分の分だけでも払わせてください」
イザーク氏はその言葉を明確に無視した。
「こうしてくれれば、すっごく計算が助かるなあ──すなわち、調理担当きみ。買い出し担当おれ。これでとんとん。どうだろう?」
僕は細い腕を組んで考え込む。たっぷり百ほどは考えていたかもしれない。が、やがて結論を渋々出した。
「分かりました……、それでお願いいたします」
♢
晩餐はビーフシチューの残りにして、ジルが屋敷の湯殿に向かった頃、イザークは酒肴もなく白ワインのグラスだけをゆるりと傾けていた。料理に使った赤ワインはとうになくなっているので、これは屋敷のセラーから取り出した秘蔵のやつだ。煌びやかなシャンデリアの吊られた応接間で革張りソファに腰かけ、独り優雅に晩酌している。
そのイザークの横を、風呂上がりのジルが通りがかった。
「イザークさんって、マフィアなんですよね」
イザークはワインを吹き出しかけて、噎せた。
──なぜ決めつけ!?
「え……、え?」
イレギュラー確認。回答を一時保留。再起動。思考プロトコルを変更。回答を再度確定。
「そうだよ☆」
──なんで?
「ジルくん、それ人前で言っちゃダメだからね?」
と、それらしくウィンクして念を押してみる。これで対応として正解なのかは未知数のまま。
「はい、承知しています」
「なら、大丈夫」
「あれですよね」
「どれ?」
「あの、僕を引き取ったのも、何か事情あってのことなんでしょう? それとも本当に偶然ですか?」
「いやあ……、その……」
「あ、いえ! イザークさんのシノ……〝業務〟に関わることでしたら無理にお答えなさらなくて結構ですよ!」
「今シノギって言いかけたよね?」
「いえいえ! そんな!」
マフィアなら最初から言っていただかないと──とジルは全ての事情を察したかのように呟いた。
「いやいやいやいや」
「で、では! おやすみなさい! イザークさん!」
「うん、おやすみぃ……」
──これは酔いが見せる悪夢なのか?
あのすみません〝上司〟!? おれ、マフィアと間違われているのですが!?
……まあ、いい。正体が爆速で看破されて任務が失敗するよりかはいい。見当違いに怪しまれていた方が幾分マシだ。
確かに、大きな屋敷持ちで、警備職で、金払いがよい。怪しいと思われても、仕方ないか。
「ふむ……、せいぜい金払いのいいマフィアとして彼をおもてなしいたそうではないか……」
イザークはグラスの残りのワインを飲み干し、また注いだ。




