第2話 ビーフシチューを煮よう Ⅰ
これは、ジル・ヴェスト青年が、イザーク・ブラウの屋敷に来訪する数時間前の出来事である。
イザークは決してチャラ男という印象を受けるような人物ではない。それどころかむしろ、彼をよく知る人物からは〝生真面目で石のような堅物〟と定評のある男だった。チャラ、なる軽薄な概念は、この極秘の〝任務〟にあたって覚えさせられたばかり。つまり、まるきりの演技である。
イザークは若干だけ威圧的な〝上司〟からの断れない命令によってチャラチャラせざるを得ぬのであって、決してイザーク本人の意志ではないことを、ここで強調しておきたい。
その〝任務〟の内容は単純で、この屋敷にジル青年の滞在を許すことだけである。
ジルの滞在中に発生した食費は全額を〝上司〟に請求できることになっている。ざっくりした話もさておき、そのため金銭的なことに関してだけいえば、イザークには何も問題がなかった。イザークの懐には何の痛痒もない、ということだ。
しかし、こちらに問題がなかったとしても、ジルの方は、こちらが食費を請求しないことを倫理的に問題視する可能性があった。
──そこはチャラトークで説得!
……できるだろうか。
イザークはジルの体躯をふと思い出して、顔をほんの少し曇らせた。……ひどく痩身だった。当然ながら、摂取カロリーより消費カロリーの方が大きければ、人は痩せ衰えていくもの。胸がつきりと痛む。
「肉だっ、肉しかないっ。ジルくんに良質なタンパクを摂らせるのだっ」
意気込むイザークである。
また、〝任務〟の機密漏洩防止の観点から、このイザークの屋敷には使用人がヘンリックという初老の男しかいない。
したがって、屋敷に精肉室はあっても、それを管理する使用人の余裕はそうないのだ。ヘンリックが分身できるわけでもあるまいし、すなわち今、肉は買ってこないとなかった。
イザークは市街区画の精肉店へと向かうため、屋敷三階の自室の扉を勇んで勢いよく開けた。一階へと繋がる螺旋階段を、革ブーツの踵をつかつか鳴らして軽快に下りていく。
これは自分の腹が減って食い意地が張っているからではない、食費が浮くからでもない、と内心で〝上司〟にしっかり言い訳しておく。仮に言い訳が届いたところで〝上司〟は「厚かましいやつ」と失笑するだけだろう。
そう……、これからはとても都合のいいことに、〝ジルくんがそれをお望みになったから〟という大義名分でまかり通せる。まかり通してみせる。イザークはタダ飯が好きだ。
とにかく、ジルを迎えるにあたって、イザーク自らが肉を買いに行く。それは変わらない。ヘンリックが心配そうに買い出しを代わると申し出てきたのだが、イザークは「これは主人であるおれがやることなのだ!」と固辞していた。いや別に、ついででおつまみのチーズと生ハムをじっくり吟味したかったからではない。
買い出しから戻ったイザークの両腕には三つの紙袋が抱え込まれていた。
一つ目には牛モモ肉がどっさり。
精肉店のおやじが「にいちゃん、なんかデカいパーティーでもやるんか?」と、わざわざ不思議そうに問うてきたくらいには、それはもう大量の肉だ。
二つ目には野菜がゴロゴロ。
それはニンジンだったり、ジャガイモだったり、あるいはタマネギ、白マッシュルームだった。なんかかわいい。
三つ目は色々。
デミグラスソースの缶詰、有塩バター、月桂樹の束。そして安くても味のいい銘柄の赤ワインと、おつまみのチーズに生ハム。ワインは料理酒用という建前だ。イザークが飲みたいだけである。一応なりとも安い銘柄にしたのは、初手から高級品を使ってジルに怪しまれないようにするため。まあ、ジルが聡ければ小手先の隠し事など通用しないかもしれないが。ここは、そうであってほしいものだ、と願わざるを得ない。
それはもう──どこからどう見ても、ビーフシチューの具材であった。
ちょうどそこへ、ドアノッカーが打ち鳴らされたのだった。ついに現れたジル・ヴェスト青年は、やはり痩せこけている。腹も鳴らした。したがって、まずは昼食だ。自然とキッチンに舞台が移った。
「引っ越し祝いにシチューパーティーしようぜ☆」
そう宣言すれば、ジルは露骨に眉をひそめて怪訝の表情になった。イザークの体感温度は氷点下となった。
「ビーフシチューですよね、この具材から察するに」
「そう、ビーフシチューだよっ」
ジルの質問に芸もなくそのまんま返したイザークは、ジルが先ほどの醜態を丸ごと無視してくれたことに深い感謝を覚えた。
次に、ジルは広々としたキッチンに目をやった。洗い場、精肉室、ナイフ保管庫、陶磁器庫、酒類の貯蔵庫すらある。かつてここで働いていた使用人専用の食堂が、主人のものとは別に存在するくらいだ。キッチンに必要なものは、およそここでなんでも揃っている。
「あのう、これは、キッチンですか……」
キッチンの定義そのものを確認するようなジルの問いに、イザークはうなずいてみせた。
「そうだよ?」
「これ、一人用とするなら大きすぎやしませんか!? 職場のレストランの厨房よりも大きいのですが……!」
困惑して目を白黒させているジルに、
「使用人は私しかおりませんので、いっそう広く感じますね」
と、横から付け加えた人物は、もちろん唯一の使用人ヘンリックだ。
「ジル様、このお屋敷の管理人を務めておりますヘンリックと申します。どうぞよろしくお願いいたしますね」
ヘンリックのやわらかな声に、ジルもいくらか落ち着きを取り戻したようだった。
「ヘンリックさん、こちらこそよろしくお願いいたします……!」
こうしてジルとお互いの紹介も終えたところで。
「それにしても、本当に多いですね、具材。……食べきれるんですか」
ジルが呆れ半分のように呟いた。イザークはくびれた腰に手を当ててこう答える。
「肉。野菜。酒。それと、つ・ま・み☆」
「は……はあ。ですから、一目瞭然ではありますよ……?」
──まだ慣れていなくて、チャラの加減が分からんのだ、加減がっ!
やがて、冷めたジルの視線は再び大きな肉塊に注がれる。次いで、野菜のラインナップとソース缶とワインボトルを確かめるように視線をすべらせて、ジルは華奢な顎を軽くさすった。
「それで……、あなたがお作りに?」
「いや、上手くもないし、美味くもないよ」
寒い返事を寄越したイザークの頬をジルの氷の眼光がじろりと撫でる。
「じゃあ、せっかくですし、僕がお作りいたしましょうか」
「えっ、作れるの!?」
イザークの目がまたたいた。なんと料理ができるとは! レストランの給仕とは事前に知らされていたが、もちろん料理人ではないし、きっと一人暮らしで自然と身についた技術なのだろう、と想像がついた。
「では、野菜を洗うの、手伝っていただけますか」
「よ、よし」
イザークはぎこちなくうなずく。隣でジルは持ち込んだ私物のトランクから藍染めの帆布エプロンを引っ張り出し、手際よく身に着けてしまった。
ヘンリックは、「ジル様の寝室の準備を」とキッチンから退室していく。きっと気を利かせてジルと二人きりにしてくれたのだろう。
「……ふう」
イザークは短く息をついて、紙袋から野菜を取り出し始めた。
「──痛っ」
ナイフでジャガイモの皮をたどたどしく剥いていたら、指の皮膚をざくりと掠めた。血が出る。ジャガイモに敗北を喫する。
「絆創膏、ありますよ」
慣れた手つきに野菜の皮をするすると剥いていたジルは手を止めて、荷物から絆創膏を取り出した。その骨ばって折れそうな指が、イザークのごつい指に少し絡む。先ほど正面きって握手をしたのにもかかわらず、今は不慮に手と手が触れて、イザークの頬がやや熱くなった。そのまま絆創膏をぺたりと貼られる。やけに優しい手つきだった。
「これで、大丈夫ですね」
ジルは再び作業に戻った。皮剥きを終わらせ、今度はフライパンを熱してバターをひいて、一口大に切って塩胡椒を振っておいた牛肉にこんがりと焼き目をつけていく。じゅう、と小気味いい音が時折フライパンから鳴る。
そこに、繊維に沿ってくし切りにしたタマネギを投入。しんなりするまで炒めれば、いよいよ食欲をそそってやまない香ばしい匂いがキッチンを包む。
「これ、かき混ぜておいてください。僕はワインを開封してきますから」
「お、了解了解~」
名誉負傷したイザークだって、フライパンをかき混ぜるくらいはできる。底が焦げつかないよう、忙しなく木べらを動かしていると。
──ぐうううううう。
イザークの腹の虫も、情けなく吠えた。
背後でコルク栓を抜いていたジルは、無言のままに完全な無視をしてくれた。
深い鍋に移して、鮮紅色のワインが注がれると、酒精の甘い蒸気がふわりと薫った。イザークがよい匂いにひとしきり目を細めていると、ジルからふいに告げられる。
「イザークさん、炒めてくれて助かりました」
──こいつ、きちんとお礼が言える。
イザークは、当たり前のことだが、それでも感心せずにはいられなかった。
「あとは煮ます」
と、ジルは言った。
「……煮る」
イザークが復唱すると、ジルはこくんとうなずく。
「煮立たせて、デミグラスとローリエを加えて、また煮立たせて、一時間ほど煮て、野菜を加えて、また煮ます」
「煮るねえ」
イザークの空腹が限界に達し、香りづけのローリエを取り除いてようやくシチューが完成した頃、キッチンの壁掛け時計の針は午後三時を回っていた。
「遅い昼食にはなってしまいましたが。……あれ、イザークさん、なんで泣いているんです」
「いや! 泣いてないよ!」
──ジル・ヴェストは、こうして独りで逞しく生き抜いてきたらしい。
「今頃タマネギにやられました?」
「そうかもぉ」




