第1話 チャラい
──軽い。
それが〝彼〟の第一印象。
僕が住んでいる賃貸アパート〈獅子荘〉の大家さん、イザーク・ブラウ氏との、それは初対面である。今までは管理人のクラウディアおばあさんとしか話をしていなくて。まさかクラウディアさんがこんな男性と知り合いだなんて思わないではないか。
とにかく、イザーク氏がその件を切り出したのは、僕が彼のために豆から熱々の珈琲を淹れて、自分のためには安物のティーバッグで紅茶を淹れてからであった。
それぞれの飲物から高貴と凡庸の湯気が立つ。それは、僕らを象徴しているみたいで。
「さて、ジルくん──建物の老朽化だ」
僕は建物の老朽化ではない──という至極くだらない冗談はさておいて、この〈獅子荘〉から立ち退け、という意味であるのなら、それは僕にとって一大事だった。これあるを予想はしていたが、今やれ、と言われるのもなにか違う。
「立ち退き、ですね」
「うん、そうなんだよ。ここ、もう築百年超えだろう? というわけでね、リフォームするんだ」
なにかの花弁みたいに形のよくて品のいい色をした薄い唇をカップにつけ、イザーク氏は珈琲をごくんと飲んだ。うん、形容する語彙のなさに絶望する。
「ええと、つまりその間、僕は家なき子ということですよね……」
語彙は無視して直截的に訊いてみれば、するりと恐ろしく長い指を組んだイザーク氏は、ああ……、と中途半端に呟いてからこう言う。
「住む家なら心配しないでくれたまえ。しばらくは、おれの家に住んでもらう」
「えっ──?」
──唖・然。
さしずめ口から紅茶がまろび出る彫像になりかけた僕は、とぼとぼと市街区画から伸びる通りを途方に暮れて歩いている。
全寮制の高等学院に入学、なんとか特待生として学費免除で卒業し、商家の家事働きとして必死に働いた母が遺してくれた貯金を大切に切り崩しつつ、〈獅子荘〉に引っ越してから三年。僕だって、もう二十五。人並みの結婚というものに憧れる年齢だ。市街区画のこぢんまりしたレストランで給仕として細々生活費を稼ぐ貧乏人には難しいことだ、とそれも承知の上。
まさか赤の他人であるクラウディアさんから他の物件探しのお金を借りるわけにもいかず。もう母の遺産は残りわずか、貯金といえるものも雀の涙、将来の展望などない。お先の暗黒具合には暗澹たる、馬から落馬するような情けない日々を送っている。だから、大家さん宅に居候させてもらえる件は、願ってもない渡りに船、飢え雀に粥というものだった。
道すがら、イザーク氏との会話を脳裏に再生してみる。
『あなたの家に住まわせていただく、という理解で合っていますでしょうか』
『そうだよ。その期間は家賃を取らないから安心してくれ。いや、やっぱり自分は律儀だから払いたい、というなら止めはしないがね』
『いえ! ご厄介になります!』
──思えば、このときすでに怪しかった。
いくら大家さんだとしても、怪しいものは怪しかった。〈獅子荘〉の家賃は安い方であったけれど、もちろん浮くならそれに越したことはない。それでも、見ず知らずの人の家に厄介になるというのはなんとなく気が引ける。
浮いた分を貯金に回せばいつかは結婚できるだろうか──と仄暗く思いながら、僕はイザーク氏との会話をさらになぞる。
『きみ、別に片付ける荷物もそう多くないだろう。──じゃあ問題ないよね?』
と、彼にすごまれてしまうと、何も言えなくなった。だって、どう考えてみたところで、彼のありがたい話を断れば、当分は住む家を失うだけのことだったから。
『…………』
結局、イザーク氏にいい感じに言いくるめられた気しかしないものの、彼の言う通りにした。本当に片付けられるものはほとんどなかった。僕は荷物をすごすごまとめて、〈獅子荘〉を出てきたわけだ。
季節は春だ。ほんのり肌寒く、まだ薄手のカーディガンは欠かせない。街路樹の緑はまだ淡くて、それでも、うららかな昼の太陽を浴びて、葉の隙間から水晶の木洩れ陽を石畳へとこぼしている。
やがて、市街区画の喧噪が遠ざかってきた頃、石畳の道はゆるやかな坂へと変貌している。なだらかな若葉色の丘陵が行く手にあって、その丸い頂には遠くからでも分かるほどの、それはそれは大きなお屋敷が。
「……ええっ?」
ぱちぱち、目をしばたたかせて、渡されていたメモの住所をもう一度確かめてみる。でも、イザーク氏の闊達な筆跡は、少しも代わり映えしなかった。
「このお屋敷で合っている……?」
そのうち、細い川を渡す赤煉瓦の橋が見えてきた。年月を感じさせて、煉瓦は苔むして欠けもある。耳を澄ましてみれば、さらさら、涼やかな音で水が流れている。
煉瓦橋を越え、丘を越え。引き返そうかという思いが頭を一瞬よぎったけれど、もう僕の帰る場所はどこにもないのだ……。
そしてついに、壮麗な錬鉄の門が出迎えた。それは見事なバロック模様の意匠が凝らされている。壁には白亜の化粧石。明るい陽の下、白々と輝いている。ところどころ深緑の蔦が絡んで、自然とも見事に調和がとれている。麗しいお屋敷にあまりに圧倒されて、僕は息を呑み、しばらくは何も言えずにその場に立ち尽くしていた。
「……。いやもう、これは城でしょ」
無個性な感想を述べてみたところで、お屋敷の偉容は変わらない。何よりも、面積がとんでもない。庭を除いた建物だけで、あの古アパートが丸ごと三つは入るのではなかろうか。
──これが、大家さんち?
周りを見渡せど、むろん他の民家の姿などない。というより、この丘にはこのお屋敷しかないのだ。つまり、このお屋敷のためだけに丘を石畳が続いていた?
おずおず、と元来た道……坂の下を振り返ってみれば、市街区画の赤屋根がミニチュアめいて点描画を成している。
ご近所付き合いとかなさそうだ。そのご近所がない。
賃貸収入だけでこれほどの豪邸に住めるだろうか? それは絶対に無理だとわかる。では、なにかビジネスをしている? 僕は彼をよく知らない。知りたくもない。ならば後ろ暗いビジネスだってありえるではないか。だから、これはもう、裏社会の人間がどういうわけか居候を許可した、という筋書きもありえてくるのだ。これがもしその通りなら、土地を所有していることもシノギで必要だから、と自然とうなずける。
──相手がマフィアだという前提でやっていくのだ。
震える手で樫一枚板の立派な扉に取り付けられた真鍮のドアノッカーを慎重に三度鳴らしてみる。
「やあ☆ よく来たね☆」
扉を自分で閉めようか、とも一瞬考えたものだ。
「お、お邪魔します」
今こそ、レストランの給仕として学んだ必殺お辞儀を披露するとき! 僕はぺこりと腰を折る。礼儀だけは示しておかねばなるまい。たとえ相手がマフィアであろうとも。……否! 相手がマフィアだからこそ礼儀正しくあらねばならないのだ。無礼な人間だと認識されたらその瞬間、海に沈められる。
「うん、ようこそ」
マフィア(?)は意外と好意的に手を差し伸べてくる。明らかに握手を求められており、僕はその手を怖々握り返した。彼の手は乾いていて分厚く、ごつごつしている。自分の骨と皮しかない貧相な手とは比べ物にならない。……泣けてくる。
「イザーク・ブラウ。──イザークって呼んで」
「改めまして、ジル・ヴェストです。よろしくお願いいたします、イザークさん」
「よしよし、いい子だねえ」
「ありがとうございます……」
握手をゆっくりほどく。ほぼ初対面だというのに家族かなにかのように褒めてくる声はぞっとするほどに甘い。きっと女性が耳元に囁かれた日には腰砕けになるだろう、と思えるほどには艶というものがある。喩えるなら、蜂蜜をたっぷり入れた上等な珈琲だ。さすがマフィアの構成員、あるいはハニートラップなんかもお手の物かもしれない。
綺麗だとは思っていたイザーク氏の顔を、そのとき至近距離で観察する。
月光に濡れた滝のごとき銀糸の髪。いつか写真で見た南の珊瑚礁みたいな碧の瞳。長い睫毛は頬にうっすら影を落とし、清々しいほどに整った目鼻立ち。鼻梁なんて、美神がその手で彫り込んでいるかのごとく。
精巧な磁器人形のようだが、お人形と違うのは、その双眸には生々しい光が揺れているところ。
「おれのこと、じっと見つめてどうしたの?」
「い、いえ」
ふ、と彼が碧い瞳をやわらげる。つい顔を背けかけた。周囲の空間に薔薇でも咲いたような笑みだ……今の一度で、市街区画の女の子が十人は気絶できることだろう。
──ぐうう。
「……あ」
僕はおそらく赤面した。突然に腹の虫が反乱している。マフィアの家で腹を空かせるなんて、僕は相当に豪胆らしい。
「きみ、お昼、食べた?」
そんな問いに、「いえ、食べていないです」と正直に答えた。
「そっかー。じゃ、お昼にしよっかー。ま、作るところからなんだけどねー」
気ままに呟いたイザーク氏は、一九〇を優に超していそうな長身を華麗にひるがえし、ついておいで、と肩越しに告げる。
艶やかなシルクのドレスシャツをまとい、同じくシルクの上等そうなベストを重ね、それを腰の尾錠できゅうっと絞って、逆三角形の逞しい半身を強調している。
──まるで、天使の美貌に悪魔の肉体。
近頃のマフィアは、どうやら蠱惑的な容姿に化けられるらしい。




