第16話 わたくしは料理ができません
──時を遡ること、約一時間前。
ここは王の執務室であった。正面には王の座す執務椅子と書き物のための執務机、その背後には南向きの大窓がとられている。薄織のシルクカーテンがひかれ、午前十時のまだ柔らかい陽光がこぼれていた。
今日の王はジルヴェスター手製のラズベリージャムをヨーグルトにかけて、十時のおやつとしている。真珠のようなヨーグルトの貴婦人がジャムの紅いドレスをまとい、銀の匙で王の口に運ばれていく。
「立太子式は夏にしようと思っている」
王が食べ終えたスプーンをクロスの上に置いて話を切り出す。
「そうでございますか」
王がおやつに興じている間、イザークは直立不動のまま執務机の前で待機していた。怪我人だろう、と王はそれを止めかけたが、イザークは固辞した。私の心配は無用か、と今度は王が不満をあらわにするものだから、イザークは、そういうことではなく……、と返すより他なかった。互いに、振り上げた会話の矛先を収めるのに苦労している。
「──やはり、そなたを王にしたかったのだがなあ」
しばしの沈黙を先に破った王は、微笑みがちに嘆息した。この言い様、おそらくは本心なのだろう。イザークは分かっている。これは王がイザークの今までの粉骨砕身に報いたいからではなく、自らの息子ジルヴェスターを案じているからこそなのだ、と。
イザークは、王が用意した〝ジルヴェスター王子の影武者〟であった。
ジルヴェスター王子の母親は、貴族の中でも中くらいの権力を持つ伯爵家出身の侍女だった。そしてやっぱり、侍女の中でも立場は中くらい。さらに中くらいの美貌の持ち主でもあったのだが、心根がとても清く美しかった。
なんと、アルトゥール三世は王太子時代、酒浸りだったことをまともに彼女に叱られて、彼女と道ならぬ恋に落ちてしまった。
──それが全てのはじまりにして、あやまち。
ほどなくしてジルヴェスター王子が誕生した。が、王妃はその誕生を疎んだ。イザークは、いわば〝身代わり〟だった。本物のジルヴェスター王子を市井に逃がし、偽物のジルヴェスター王子に未来の王としての教育を施し、表向きはジルヴェスター王子が城にいるように偽装する。
暗殺が起これば、少なくとも一度は悲劇を防げる。市外区画の隅っこで拾われた、何者でもない名もなき孤児は、偽王子に選ばれた。子のいなかったとある公爵家の養子という体で立場を与えられて。さながら彼は、鉱山の金糸雀であった……。
王は、経験のないジルヴェスター王子を民衆の槍衾にしたくないだけなのだ。やはり自分勝手な王だとイザークは内心で呆れてしまう。あるいは、イザークに本当に報いようとしてくれていた現実を受け入れたくなかっただけかもしれないが。
「わたくしはやはり何者にもなれないのです、陛下。ですから、王にもなれません」
王の寝所へ剣を持って押し入り、地下牢に繋がれた男。たとえ真相を知る王が許そうとも、イザークの中では自分が万死に値すると決め込んでいた。
「そなたなら、そう申すだろうと予期していたよ。市井出身の王子が、王太子から王となり、民心を得て、善政を敷いていく……、という展望だろう?」
「御意」
この堅物め、と王の叱責が飛んできた。しかしその口調はやわらかく、王の両眼はあたたかく笑っている。王は怒ってはいない。
「それでは孤児のそなたと同じではないか、ブラウベーレ」
「は、同じでございます。……つきましては、同じ立場のわたくしがジルヴェスター殿下の補佐役に回り、殿下をお支え奉ろうと」
「そなたは本当にそれでよいのか? 今からでも王にならんか?」
王はイザークに言いたいことが幾つもある顔をしていた。
「わたくしは王に向いていません」
イザークは自らの出していた結論をもう一度短く述べた。
「ほう、なぜそう考える? 王であるこの私が向いていると何度も言っているのに、そなたはそれでも断ろうとする。……なぜだ、申してみよ」
このままでは王の誘いに断りきれない。甘い誘惑だった。自分の利を第一に考えるならば、この誘いに乗ってしまうのが一番よかった。だが、断らなくてはならないのだ。まず、自分のために。第二に、ジルヴェスター王子のために。ジルヴェスター王子を第二にするのは、せめてもの矜持だ。
ふいに、ジルヴェスターがクッキー生地を捏ねていた、あの優しい眼差しと手つきが、脳裏でよみがえった。
イザークはわずかばかり苦笑した。とうの昔に、自分はあの王子にほだされている。それどころか、胃袋をがっちりと掴まれている。
王とは、人の前に立つべき人間とは、きっとあのように、自己の利をまったくかえりみず、他者のためだけに動ける人物のことを言うのではないか。
……これで、いい。
この答えでよい、と己の魂が言っている。イザークは息を吸い、そしてゆっくりと吐いた。
「わたくしは、ジルヴェスター殿下と違い、料理ができません」
言うやたちまち、王の緑の両眼に愉快と好奇の光が小さく灯った。
「ふふ……ははは……っ」
その針のような光は、王が笑うにつれて膨張していき、そして、ある瞬間で爆ぜた。
「ふはは……っ、料理できるできない如何は、王たる資質とは微塵たりとも思えないのだが……?」
王は手の甲で口元を覆い隠すようにして問う。試すような響きがある。イザークもつられて笑った。
「ふふ、そうでございましょうか」
「……なに?」
王が床にひかれたシルク絨毯の見事な鷹模様に落としていた視線を上げ、イザークに焦点を移した。
「王自ら臣下に手料理も振舞えないようでは、奉公守法の義を尽くす臣下に何も報いることができませぬよ」
するとまた、王が笑った。
「ははは、そなたは上手いこと言いよって……」
腹を抱えた王の双眸に、また愉悦の光が浮かんだ。
「いや……、美味いこと、か」
「お褒めに預かり光栄でございます、陛下」
「いや、褒めてはおらぬ」
王は真顔で告げた。イザークも真顔になった。
「……まあよい、そなたを摂政に任ずる。──仔細は、追って沙汰する」
静寂に沈んだ執務室の重い空気を振り払うように王が言うと、イザークは目礼した。
「承知しました」
「さて、話を変える」
「どうなさいました、陛下」
「私もジルヴェスターの職場に行きたいなー」
突然、駄々を捏ね始めた王にイザークは戸惑った。
「……え」
「息子の手料理やら、あのレストランの旨そうな料理やら、そなたばっかが食べてるじゃない。え、ずるくない? ずるいよね?」
「それは……職務でしたから……」
「ずーるーい!」
ずるいとおっしゃいましても……、と返すイザークに王は言い重ねた。
「というわけで、私も〈団栗亭〉にゆくぞ」
「え──?」
アルトゥール三世の突発的行幸が大決定したのである。
♢
「──という経緯なわけ」
彼の事情説明に僕の喉からは「はああ!?」とドスの効いた叫びが出た。
「いや、困るでしょブルーノさんが!」
「そうなんだよねえ……」
彼が腰に手を当てて長めの溜め息をついた。
「それで、屋敷に戻るついでに、ブルーノさんにきっちり承諾を得ようと思ってさ……」
「なおさら僕を連れて行きなさいよ!」
「ごっめーん☆ ジルくんがおれの看病でずっと寝てないって聞いてたから」
「それは……別に……」
僕は困って視線を逸らした。また顔が赤くなったのを悟られるな。鬼の首を取ったように揶揄われるぞ。
「んん?」
彼が僕の顔を覗き込もうとするから逆の方向に顔を背ける。にやあ、と彼が常のように下品に笑うと思ったのだが。
「ジルくん、ほんとごめん。おれのせいで。無理しないでね」
そんな真面目くさった一言が告げられた。
「……うるさい」
「うん」
「ほら、行きますよっ。怪我人だからって甘えんじゃないよっ」
「うん」
しおらしくついてくる彼が、気に食わなくもない。
「まあ、たまには、うるさくなくていいかも」
「そんな心外な。ぶーぶー、異議ありー」
そう、気に食わなくもないんだ。




