第39話 悲鳴の消えた後で
害獣はもう動かなかった。
重い影が地面に伏したまま、呼吸の兆しもない。
さっきまで押し返していた空気が、嘘みたいに軽くなる。
最初に近づいたのは、遠巻きに残っていた数人だった。
足を止め、距離を測り、誰かが声を出す。
それが合図みたいに、散っていた人間が戻り始める。
走って逃げていた足が歩きに変わる。
戻る者。
固まって戻る者。
振り返りながら、何度も立ち止まる者。
誰かが名前を呼ぶ。
それを短く繰り返す。
呼び続けるが返事はない。
嘆きが遅れて追いついてくる。
泣き声が重なり、声の高さが揃わなくなる。
抱き合う者もいれば地面に座り込む者もいる。
被害者の家族らしい人間が、規制も何もないまま現場へ入ろうとする。
止める腕が伸び振り払われる。
触れようとする手が宙で止まる。
誰かがスマホを構え、シャッター音が鳴る。
別の誰かが、それを咎める。
現場は音を取り戻していた。
悲鳴と嗚咽と怒鳴り声。
散っていた感情が、同じ場所へ流れ込む。
茂は動かなかった。
前にも出ず、背を向けもしない。
人の流れの端に立ったまま、距離だけを保つ。
サイレンが聞こえ始める。
一台じゃない。重なって近づいてくる音。
到着して音が切れた。代わりにドアの開く音が続く。
パトカーが並ぶ。数がいつもより多い
被害の大きさだけが、台数に出ていた。
警官が降りてくる。無線を持つ者。周囲を見る者。
すでに指示を出している声。
視線はまず倒れた人に向いた。
次に群衆。
最後に地面に伏した巨体。
誰かが手を上げ、誰かが下がるように指示する。
即席の規制線が張られ始める。
泣いていた人間が外へ押し出され、抗議の声が上がりかき消される。
現場の空気が少しずつ変わる。
ここからは警察の空間だった。
茂はその中に残った。
即席の規制線が太くなっていく。
テープが足され人が下げられ声が整理されていく。
その途中で、叫び声が割り込んだ。
「——あいつだ!」
「うちの子が……結菜が死んだのは!」
「あいつが、そこにいたからだろ!」
「あいつが——!」
言葉が崩れる。
名前も理屈も順序もない。
中学生くらいに見えた。
制服の灰色が目に少し残っている。
周囲がざわつく。
制止の声。
引き戻す腕。
それでも保護者は前に出ようとする。
茂は動かない。
視線だけを、ゆっくり周囲に走らせる。
群衆との距離を測り、警官の配置を確認した。
……少し露骨だったか――
一瞬そう思う。
結果を急ぎすぎた?
ポケットの中の重さを意識する。
スポーツグラス。
記録は残っている。
面倒になるなら―――
――――——消すか。
ほんの僅かな時間。
指を動かすかどうか、
そのとき肩越しに声が落ちた。
「ちょっと」
警官だった。
近づきすぎない距離で立っている。
「個人で、これを?」
確認というより、感嘆に近い声だった。
現場を一通り見た後の率直な評価のように聞こえる。
「……はい」
茂は短く答える。
「正直、すごいですよ」
口元は笑っていた。だが目は笑っていない。
「今の状況で、車なしでやれる人は聞いた事がない」
褒め言葉は続かず、警官はすぐに本題へ切り替えた。
「身元、確認させてください」
軽く言ってきた。
茂は頷き財布を取り出した。
背後では、まだ声が上がっている。
泣き叫ぶ保護者。
それを抑える警官。
茂はそちらを指した。
「………何か、問題がありましたか」
警官は視線をそちらに流す。
「平時なら、問題になることもあります」
短く考えてから、そう言った。
「今はそこまで踏み込めません」
「こちらから何かする話ではない、というだけです」
そこで間を置く。
「ただし」
「同じことが続くと扱いが変わることはあります」
「その時はこちらも対応せざるを得ません」
釘だった。
忠告でも脅しでもない。
現実の話。
「覚えておいてください」
茂は頷いた。
理解した。今のは間違いなく必要な情報だった。
これからも囮を使う為に。
規制線の外に出ると空気が変わった。
背中側では、まだ声が続いている。泣き声。怒鳴り声。指示。
それらは混ざり合って、距離と一緒に形を失っていく。
茂は振り返らない。
見ても、もう増える情報はない。
歩き出す。
足音は一定だ。速くも、遅くもない。
通りに出ると、車が流れている。
止まらない。
減速もしない。
窓の内側に人の気配だけが沈んでいる。
街は動いている。何事もなかったように。
信号が変わる。横断歩道を渡る人間の列に茂も混ざる。
誰もこちらを見ない。
ポケットの中で硬い感触がある。
グラス。
記録が残っている。
今は決めない。
そういう判断だけが短く浮かぶ。
駅前を外れ、一本裏へ入る。
明るさが落ち音が減る。
さっきまでの現場が、別の場所の出来事みたいに薄れる。
足を止める理由はない。
立ち止まる必要もない。
茂はそのまま進む。どこへ行くかは、まだ決めていない。




