第35話 猶予
光はまだ弱くカーテンを開けても、部屋の輪郭が分かる程度の明るさ。
ユイも茂も今日は仕事がない。
目覚ましは鳴らず、時間は区切られないまま流れている。
ユイはソファに横になり、スマホをいじっている。
茂はキッチンでコーヒーを淹れた。
湯が落ちる音だけが室内でやけに大きい。
特別な会話はない。
それでいい空気だった。
インターホンが鳴ったのはその途中だ。
茂が出る。
差し出されたのは、書留。宛名は自分の名前だけ。
「なにそれ」
ユイが、興味なさそうに言う。
茂は答えず受け取った封筒を開けた。
中身は白い紙が数枚。
――住民税非課税世帯等に対する臨時特別給付金支給決定通知書――
文面は硬い。
支給額:二十万円。
数字を見て、茂は息を吐いた。
驚きはない。
少し前に申請していたものだ。
「いいこと?」
ユイが言う。
「うん」
茂はそれだけ答えた。
ユイは体を起こし紙を覗く。
一瞬だけ目を走らせて、すぐに興味を失った。
「よかったじゃん」
それだけ言ってまた横になる。
通知には振込日の案内はない。
指定口座へ振り込むという一文だけ。
いつ入るかは分からない。
でも、出ることは決まった。二十万で、時間と選択肢と猶予が生まれた。
茂は紙を畳み封筒に戻した。
机の端に置く。
コーヒーを飲んだ。
今日の午前中はまだ何も起きていない。
それで十分だった。
昼前の光が部屋の奥まで照らし始めたころ、茂は通知書の入った封筒をもう一度見てから伏せた。
「なあ」
ソファに転がっていたユイに声をかける。
「飯、行かない?」
ユイはスマホから目を上げる。
理由を聞かなくても、顔を見れば分かったらしい。
「……もしかして」
「まさか」
「茂のおごり?」
ユイの表情が分かりやすく変わった。
驚きより先に喜びが出る。
「じゃあ、デートじゃん」
冗談めかした言い方。でも目は本気だ。
否定する理由はなかった。
茂は何も言わず頷くだけにした。
「ちょっと待って」
ユイは立ち上がり、寝室に向かう。
「着替えるから」
戻ってきたユイは、さっきまでとは別の空気をまとっていた。
露出は抑えめ。
体の線は出ているが仕事のための服じゃない。
歩くことを前提にした靴。
街の中で浮かない色。
「どう?」
一度だけ、軽く回る。
「いい」
茂は短く答えた。
「じゃ、次は茂」
そう言って今度は茂を見る。
クローゼットを開けユイが服を選ぶ。
迷いはない。
季節と時間帯、行き先。
全部込みで、即決だ。
「それは違う」
「上はこっち」
「靴、それじゃ歩けない」
言われるままに着替える。
サイズも、色も、文句は出ない。自分で選ぶより、早くて正確だ。
「うん。これでいい」
ユイは満足そうに言った。
茂はスマホを取り出し店を探す。
場所と時間と空き――条件が揃うのを選んで予約を入れる。
「予約した」
「やるじゃん」
ユイはバッグを手に取ると中身を確かめて、玄関脇に置いた。
茂はタクシーアプリを開く。
迎車。
ユイはソファに腰を下ろし、茂はそのまま床に座る。
特別な会話はない。
テレビもつけない。
ただ、出かける前の時間だけが流れている。
しばらくして、茂のスマホが短く震えた。
「来た」
二人は立ち上がり玄関に向かう。
昼の店内は静かだった。
声を落とす必要はないのに、自然と皆が抑えている。
白いクロスに低い天井。
光は柔らかく空気だけが少し張っている。
席に案内され椅子が引かれる。
ユイが先に腰を下ろし、茂は向かいに座った。
テーブルは整いすぎるほど整っていて余計なものがない。
「雰囲気、いいね」
ユイが小さく言う。
茂は頷いた。
落ち着かないほどではない。
けれど、気を抜きすぎる場所でもない。
ユイは一瞬だけ茂を見る。
「ワイン、飲んでいい?」
軽い声。
「いいよ」
即答した。
ユイは白を。茂は泡の立つ水を選ぶ。瓶で出てくるやつだ。
グラスが置かれ、澄んだ音が店の静けさに溶ける。
ユイは一口含み少しだけ目を細めた。
茂は炭酸を飲む。
喉にくる刺激がはっきりしている。
前菜が運ばれる。説明は短く、丁寧だ。
食べる、噛む、飲み込む。
ユイは楽しそうだった。
浮かれてはいない。
ただ、二人のそういう時間をちゃんと味わっている。
「こういう昼、久しぶり」
フォークを置いて、そう言う。
「そうだな」
茂はそれだけ返す。
周囲を見渡す。
静かな会話。
整った服。
それぞれが、自分の生活を持ってここに来ている。
刃物も、通知も、数字もない。
ここでは、金を出して時間を買うだけだ。
ユイがまたワインを口にする。
グラスを置く音が、妙にきれいに響いた。
茂は瓶を傾け、グラスに泡を足す。
立ち上がって、消えていくのを少しだけ見ている。
何も起きない。
それが今日は正しい。
茂は皿に視線を戻す。今は食べる。それでいい。
食事が終わり皿が下げられる。
テーブルの上にはグラスだけが残っていた。
ユイは背もたれに軽く体を預け息を整える。
満腹というより、満ちた感じだ。
茂は視線を落とし伝票に手を伸ばす。
中身は確認しない。そのまま持ち、静かに立ち上がった。
「先、行ってていいよ」
ユイは頷き、席を立った。
この店ではそれ以上のやり取りはいらない。
外に出ると、昼の光が少し眩しい。さっきまでの静けさが、嘘みたいだ。
ユイは深く息を吸い、肩を落とす。
「なんか……ちゃんとデートだったね」
からかうようで、でも軽すぎない声。
「そうだな」
茂は歩き出す。
ユイも隣に並ぶ。
距離は自然に揃った。
通りを歩く。
店を出た人間の顔に戻っていく時間。
ユイはさっきより、少し機嫌がいい。
歩き方が軽い。
「こういうの、嫌いじゃないよ」
前を向いたまま言う。
茂は答えない。
否定する理由も、説明する必要もない。
信号で立ち止まる。
車の音。
人の声。
日常の中に、二人は戻っていく。
さっき払ったものは金だけじゃない。静かな時間と、何も起きなかったという事実。
それが、今はちょうどいい。
信号が変わる。
二人はまた歩き出した。




